「あなたは私」ということの本当の意味

自分とは身体ではなく、意識だということが明確になってからしばらく経ちますが、それでも日々の生活に揉まれていると、自分をまだ身体だと思っている部分が色濃く残っていることに気づかされます。

それはなかなかしぶとい思い込みなのでしょう。誰でも、幼いころからずっと自分のことを身体だと妄信してきたのですから。

身体であると同時に、意識でもあるという矛盾に気づいている人も多いかもしれません。それが次第に、身体ではなくて意識そのものだとの気づきがやってくるのです。

けれども、初めのうちはどうしても自分は身体という「着ぐるみ」の中にいるという感覚が抜けないものです。

身体の中から、意識である自己が外の世界を眺めているというイメージが、私の場合には強いようで、今だにそれが抜けないでいます。

それが時として、意識という摩訶不思議なモノが物質である身体の内側に宿っているなどというはずはないということが直感的にやってきます。

そうして、本当の自己とは純粋な意識であり、時間も空間も身体もその意識という場の中で現象化しているに過ぎないということに気づかされます。

自分のことは、なるほどそうかと分かるのですが、他人のことについては、やはり身体という物質としての対象として捉えているようです。

なぜなら、目の前に○○さんがいると信じて疑わないのですから。けれども、目の前にいるのは単なる身体に過ぎません。

その身体の中に○○さんの意識があるはずがないのは、自分の意識のことを見れば明らかなのです。

それなら、目の前にいる人は誰なのでしょうか?それは誰でもないということですね。目の前にある身体は、そこにある椅子と同じ物質に過ぎません。

代わりに、その人の意識とは、時空を越えた私の本質と一つものであるということに気づくことになるのです。それが、「あなたは私」ということの本当の意味です。