瞑想しようとすると、すぐに寝てしまう人にお勧めの方法

大抵の人は瞑想するときに、目を閉じると思います。それは、目を開いていると、目の前にある何かを見てしまい、そちらに意識が向いてしまいがちになるからですね。

座禅などでは、目を閉じずに伏目がちにして床の辺りに目が行くようにするという方法を取ることもあります。これは、目を閉じると寝てしまう可能性があるからです。

どちらにしても、思考が活発に動いていては心を静かにすることができないのですから、思考の餌になる視覚を使わないようにする手段であるわけです。

20世紀最高の賢者の一人と言われたラマナ・マハルシは、目を見開いたままじっとして何時間でも動かずにいたそうです。

彼は目を見開いてはいたものの、視覚をまったく使わないでいたのでしょうね。どれほど視覚からの刺激が入ってきても、思考が反応しないような状態でいることができたということです。

彼はそれを意識的にやっていたということでもないのだと思います。「私」という思考がなければ、思考はただ機能的に活動するだけだからです。

部屋で一人で静かにしているときに、目のピントを合わせるために使う筋肉を緩めてやると、目の前にあるカーテンを見ているようで見ないという状態を作ることできます。

この方法は、目を閉じるとどうしても寝てしまうという人には、都合がいいかもしれません。私は、子供のころからこの状態でいることが多かったです。

勿論、瞑想状態であったということではないのですが、ボーっとして何もしていないということが多かったのだろうと思います。

瞑想しようと力む代わりに、このようにして目の視点がどこか遠くに合っているような曖昧な状態を作れると、便利かもしれませんので、ご興味があれば試してみて下さい。

それに慣れてくると、今度は目を開いて何かにピントがあっている状態であったとしても、目を閉じていたときのあの「無」を感じ続けることもできるようになります。

瞑想が苦手な人にお勧めです。

テレビを悪者にしたくはないけれど…

昨年末のオフィスの引越しに伴い、自分自身も10年以上ぶりに自宅からオフィスへ通う普通人(?)の生活に戻りました。

オフィスに寝泊りしていたそれまでの生活では、ほとんどテレビを見るという習慣がなくなっていたのですが、戻ってきた自宅の部屋には大型のテレビがあって、何気なく電源を入れてしまいます。

特に何を見たいというのでもないのですが、一度テレビを点けてしまうと、見る番組がなくてもなかなか消そうとしない自分がいることに気づきました。

ああ、こうやってただ何となくテレビに意識を向け続けてしまうようになるんだなと、改めて分かった気がしました。(一年前にも同じような経験をしていたことを思い出しました。)

そうやってテレビを見たあとは、思考が物語に張り付いていたことに気づかされます。それがとても勿体ないと感じるのです。

というのも、その後あの純粋な意識、真の気づきの状態へは簡単には入っていけなくなってしまうからです。

人の習慣というのはしぶといものがあって、ただテレビの中の物語にのめり込んで行ってる時間が長くなればなるほど、純粋な気づきが遠ざかるのです。

本来、それは何をしていようが自分の一番身近なところに常にあるのですが、それに気づけなくなってしまうということです。

リアルタイムでニュースを見たいという場合を除けば、テレビは本当に不要ですし、テレビにかかわっている時間があるなら、純粋な気づきに気づいている時間に当てたいものですね。

無防備さの中に寛ぐ

私たちの心の根っこにあるネガティブな感情は恐怖です。その恐怖が、さまざまな形へと変化することで、悲しみや怒りなどのいろいろな感情に化けていくのです。

その大元の恐怖があるからこそ、自己防衛をするようになるわけですが、それが気づかぬうちに過剰な防衛をするようになるのです。

それはまさしく、自己防衛のシステムそのものを継続するためなのです。したがって、恐怖を避けるために防衛するのではなくて、防衛するために恐怖を感じるのです。

私たちはついこのことを忘れてしまいます。○○は怖いので、それから身を守るために独自の自己防衛システムを稼動させると思い込んでいます。

けれども、本当はといえば、自己防衛をし続けようとするエネルギーがあるからこそ、そこに恐怖を感じてしまうのです。

つまり、毎度お話ししているように、「自分は傷つきたくない」という自己防衛が先にあり、その結果が「傷ついてしまう」ことが起きるのです。

もしも内的な自己防衛が少なくなれば、その分だけ傷つくことも少なくなるのです。生物としての防衛本能が根っこにズッシリとあるので、どうもそれに騙されてしまうのですね。

愛は自己防衛の本能さえもなんなく越えてしまうもののようです。自己防衛が緩んだあの瞬間、あの無防備さの中で寛ぐことは至福の悦びです。

本当の自己は未来永劫どこへも行くことはないし、どうなるということもありません。ただ全体性として在ることに気づいているのです。

どんな感情もぜ~んぶ自分のもの

今日は一通とても嬉しいメールをいただきました。そのメールの送り主はきっと今も喜ぶどころか、あらゆる感情のつるぼの中でもがき苦しんでいるのかもしれませんが…。

長い長い間、ずっと自分の感情を知らず知らずのうちに否定してきてしまった方が、自己防衛とは何のことかという状態にまで追い詰められていらしたのです。

ご本人の苦悩は、ただ毎日がうまくいかないことの連続で、もう切羽詰まってどうしようもないところまで来ていたのだと思います。

10年以上もあちこちのセラピーを受けても、思ったような結果がでずに、きっと藁をも掴むような気持ちでルシッドにいらしたのでしょうね。

ただただ問題は、自分の性格が歪んでしまったことにあるのだと信じて、まったく疑うことをしなくなっていたのです。

たった一度のセッションでは、どうなるわけでもないのですが、一つの望みであるご本人の追い詰められた気持ちだけを頼りに深い部分を探っていきました。

初めてのセッションを終えたその日の夜から、毎日ご本人からどうやってインナーチャイルドを受け止めたらいいのか分からないとメールがきました。

セッションでの私の言葉は、あまり正確には受け止められていなかったようなのですが、今日とうとうご本人の防衛のエネルギーに癒しの贈り物が勝ったのです。

それまで、わあわあ泣いてばかりいるインナーチャイルドにどう対処しようかと困り果てていたご本人が、それが自分自身の感情なのだということに気づいたのです。

そのメールをいただいて、内心でガッツポーズをして、大喜びしたのは言うまでもありません。やはり、癒しはむこうからやってくるものなのですね。

どんな感情も思考も、丸ごと引き受ける気持ちになるときが来ます。それは間違いなく、真の自己からのプレゼントなのだと思うのです。

年齢とともに変化する物語

何だか自分ひとりでは何事もうまくできないということが増えてきたように感じる今日この頃です。元々日曜大工は嫌いというタイプなので、仕方がないのですが。

それでも、プロに依頼すればそれだけコストもかかるので、なるべく自分でやってしまおうというケチケチタイプでもあったのです。

それが、昨年末のオフィスの引越しと、オフィスから自宅への引越しがダブルで来て、様々な作業が降りかかってきました。

買い取ってもらうための作業、廃棄物を処理する作業にはじまり、引越し業者への依頼、まだこうしたものはよかったのですが…。

結局自分ではできずに、業者さんにお願いすることになったのは、新しいオフィスのトイレへのウォシュレットを取り付けるために、電気工事と水道工事を共に依頼しなければなりませんでした。

少しぐらいの電気配線もできる自信があったし、ウォシュレットの取り付けは今までにも経験していたので、自分でできると思っていたのに…。

そして、防音用カーテンを取り付けるためのカーテンレールの設置、こんなの自分でできると思っていたものが、やはり無理。

本日、工務店さんに依頼して後日取り付けてもらうことになったのです。素人の私では、ネジが緩くて頑丈に取り付けることができませんでした。

そして、自宅では無線LANルーターの新規設置をさきほどまでやっていたのですが、どうもこれもうまくできずに、途中から息子にバトンタッチしました。

そこそこ自分でやれると思っていたものが、ほぼ思うようにできなくなりつつあることを実感した最近なのです。

年齢には勝てないということなのでしょうね。こうした現実も、物語の一部なのだと思って無理せずに任せる方向でいこうかと思うのです。

敵か味方か

自分の周りをよく見回してみて、相手を敵だと感じているのか、それとも味方だと感じているのか、よく味わって検証してみることです。

どう見ても、敵100%としか思えない相手もいるかもしれないし、敵50%味方50%という人もいるかもしれません。

ごく身近に、味方100%の人がいる人は幸福ですね。そうやって、見回してみると、自分の周りには敵の要素と味方の要素があって、どちらの方が多めに感じているのかも分かるかもしれません。

そしてもっと注意深くそれを見ていると、そうした敵味方の要素というのは場合によって変動するものであるということも分かってきます。

私のつたない経験から言えば、自分の身に何かとても喜ばしいことが起きているときには、周りは概ね味方だと感じます。

逆に、何かいやなことがあって、ふてくされた気分でいると、世界中の誰もが敵であるように感じてしまいます。

これは実体験です。つまり、自分の心のその時々の状態によって、他人を敵とみなすのか味方とするのかが大きく変わるということです。

結局、固定した敵だとか味方というものは本当はないのですね。もしも、自分が自己防衛(恐怖)の心で周囲を見れば、周りは必ず敵のように見えてきます。

その反対に、無防備(愛)の心で見れば、誰もが味方であるということに気づくことになります。あなたの心が周りを敵か味方か決めてしまっているということです。

自分が自己防衛しているということに気づけていない人は、周囲に敵がどのくらいいると感じるかを見てあげることで気づくことができるはずです。

自己防衛を減らす第一ステップ

私たちの誰もが3歳くらいからずっと続けてきたこと、それは自己防衛です。自分の身は自分で守らなければならないという強烈な思いがそこにあるのです。

その原動力は恐怖に他なりません。全体性としてただ在るだけの自分であったはずなのに、次第に気が付いてみるとここに自分がいたのです。

正確に言えば、これが自分であるという自己認識をするようになったのです。この自己認識は事実ではなく、単なる思考、つまり思い込みなのです。

全体性から分離して惨めで何も一人ではできない情けない自分が突然ここに現れてしまったのですから、そこに恐怖があるのは当然のことです。

その恐怖は生物としての本能である死の恐怖がその中心にあるのですが、そこに自己認識が加わることで、その恐怖は何倍にも膨れ上がってしまうのです。

そしてその恐れは、ずっと心の底にあり続けるわけです。本能的な恐怖であれば、本当に命が危ないときにだけ感じるものです。

けれども、私たちが3歳を越えたあたりから感じるこの恐怖は、途絶えることなく常にあるものです。だからこそ、ずっと自己防衛を続けてきてしまうのです。

その自己防衛の中でも、もっとも異色なのは自己防衛をしていることに気づかないようにする自己防衛なのです。

そのため、クライアントさんは自分がどれほどのエネルギーを自己防衛のために使い続けてきたかに気づいていない場合が多いのです。

一度気づいてしまえば、少しずつですが自己防衛をしないでいるという選択肢を見つけることができるようになるはずです。

これが自己防衛を減らしていく第一ステップであると言えます。

唯一の変わらぬ満足感

私たちの心には、絶えず欲求というものがあって、それが望みどおり満たされたときにのみ、満足感を得ることができるのです。

一般的に言って、心が満たされるというのはそういうことですね。つまり、心が満たされるためには、それなりのものを手に入れるという事実が必要なのです。

けれども、残念ながら欲望が満たされても、それは必ず一過性のものでしかありません。なぜなら、この世界の根源的な法則として、あらゆるものは有限であり、時間とともに変化するからです。

つまり、理由があって満たされた心は、必ずいつかはまた満たされない状態へと変化していく運命にあるということです。

だからこそ、私たちの欲望には際限がないのです。こうした満足感というのは、ある種の興奮状態であり、それは必ずいつか冷めることになるのです。

ところが、もう一つまったく異なる心の満たし方というのがあるのです。それには、心が納得できるいかなる理由(原因)もありません。

なぜなら、それは私たちの本質である純粋な気づきからやってくる、心(思考)を超越した何も無さだからです。

それを心が垣間見たときに、一般的な言葉で表すと、真の平安だったり、静寂さとか、深淵な穏やかさというように感じるかもしれません。

そしてそれは、また心が満たされたという状態としても認識されるのです。つまり、私たち自身の本質への気づきこそ、唯一の変わらぬ満足感となるのです。

「私」の正体を暴く

「私」とは思考であり、それは物質のように目に見えるわけではありませんが、それでもこの現象界の中にあるものです。

目の前にある机や壁など、見えるし触れられる物質もこの世界に所属していますが、明らかに種類の違う精神的なものも、この世界の住人なのです。

その一方で、本当の自己とは思考ではありません。それは、思考と同じように目には見えるものではありませんが、決してこの世界の中で起きているものではないのです。

私たちは、自分の考えることを自覚していますが、これは思考の中身について知っているということです。

けれども、思考とは何かということについては、あまり見ようとはしないのです。それは一体なぜなのでしょうか?

私が考えるに、それは思考でしかない「私」の本性が暴かれてしまうのを、無意識的に恐れているからなのではないかと思うのです。

「私」の正体がただの思考であっても、恐れる必要などまったくありません。なぜなら、本当の私たちの本質とは、思考の外にあるからです。

それこそ思考が生み出される源泉、この現象界の大元なのです。それがなぜなのかを説明することはできませんが、一瞬一瞬に意識を向ければそのことが分かります。

それは理解するのではなく、ただ在ることを感じるというしかありません。この世界の誰もがそのたった一つの自己なのです。

この気づきは、ゆっくりとではあるけれど、「私」という思考から自己防衛を緩めていく効果があるのです。誰もがそれを知るときがやってきています。

「......これっっっ!...」

映画館に行って、壮絶な戦いのドラマを観ているとき、あるいは美しい大自然の風景を観ているそのときに、バックにあるスクリーンに気づくでしょうか?

わざわざお金を払って楽しみに映画を観に行って、ただスクリーンを見てきたなどということはあり得ないですね。

私たちは映画の映像の美しさや、ドラマティックな物語に心を動かされ、様々な自分の心の反応に酔いしれるのです。

それを大いに楽しんでいるわけです。けれども、その物語を映し出してくれるスクリーンの存在を忘れないようにすることもできます。

ドラマを多いに楽しみながらも、スクリーンを見透かす目を持つのです。それと同じことを、この現実というドラマにも当てはめるのです。

そうすると、見えてくるものがあります。うまく言葉で表現できないのですが、うまれたときから今この瞬間までずっとずっと変わらずに「在る」もの。

それを一言で言うと、「......これっっっ!...」なのです。この瞬間を生み出してくれるもの、あらゆるもののバックに常に在り続けているもの。

それになるべく意識を向け続けることです。そうすると、物語は有るようでいて、しかも本当は無いということに気づくかもしれません。

それはどんな対象とも違う、それこそが自分自身であり、あらゆるものを生み出し続ける源泉なのですね。