思考に使われるのではなく、それを活用する側になる

思考に巻き込まれている人の話しというのは、どんなことがあったとか、こういうことが起きていやな思いをしたなどという物語の内容が中心となります。

その物語の中で、自分がどんな気持ちになったのか、どういう被害を蒙ったのかなどということが延々と語られるのです。

それに対して、思考そのものを見ることができる人は、どんなことがあったという物語そのものに話題の中心が向くということがないのです。

それよりも、そういう物語を見ている自分に気づいているのです。思考と物語はそのまま対応関係にあると言ってもいいくらいです。

思考そのものを見る側にいる人は、物事が起こっている地上に目が行く代わりに、地面の下の見えない部分に意識を向けることができるのです。

奥深くでは何が起きているのかという視点とも言えるかもしれません。表面的な出来事に右往左往するのではなくて、その大元に目がいくということです。

そうなると、視点が定まり、あれこれと動揺することが少なくなってくるのです。思考の働きが緩んできて、大きな全体を把握しているような感覚になりますね。

自分が理解している何もかもが思考の中でのことだったと分かって、そのことを認めることができれば、さらに心は穏やかに落ち着いてくるのです。

そうなれば、もう思考を恐れることはありません。思考は便利なただのツールとなるのです。思考に使われるのではなく、それを活用する側になるのです。

そうなったら、思考はもう自分の邪魔をすることもなくなります。思考から開放されれば、あらゆることが自分の味方に感じられるはずです。