癒しの原点

まず始めに必要なことは、自分も含めて誰の心も一枚岩ではないということに気づくこと。自分が把握している自分は、自分全体の一割にも満たないということ。

そのことに気づき、それを認めて、そのことを心から受け入れることです。いわゆる潜在意識とか無意識という領域があり、その力が絶大であるということです。

その見えない意識の中が沢山の部分に分離していて、互いが足の引っ張り合いをしてしまう時に、葛藤というものが起こるのです。

面倒なのは、それがぼんやり感じるレベルから、全く気づくことのできないレベルまであるということです。幼いころの恐怖やそこから発生する様々な感情は、概ね気づきにくくなっています。

なぜなら、気づけば苦しむことになると思っているからです。そうした思いすら、抑圧されているために、本人は気づけない場合がほとんどです。

けれども、そのネガティブな感情の存在に気づき、それを認めて、充分に受け入れることができれば、潜在意識の奥深くへと隔絶していた状態から、それを引き寄せることができます。

その上で、最終的にはただ受け入れるというよりは、その感情と一つになるようにするのです。つまり、それから逃げも隠れもせずに無防備に味わうのです。

そうすることで、潜在意識の中に埋もれていた感情というエネルギーが浄化され、それが暴れることで起きる不都合や苦しみが減少していくことになるのです。

もしもあなたが、過ぎ去った過去など見ずに、前を向いて進めばいいんだと思っているのなら、是非次のことを知って欲しいと思います。

それは、知らず知らずのうちに隠してしまった過去をそのままにすれば、必ず過去に苦しんでいた幼い自分が、過去からあなたを乗っ取りにくるということです。

私たちは、いつまでもそれを押さえ込んでいることはできないのです。それはどれほど努力しても、頑張って打ち勝とうとしても無駄なことです。

そしてとうとうどうやっても逃げおうせないと気づいたときに、ようやく癒しの第一歩がスタートするのです。勿論それでも決して遅くはありません。

いついかなるときにも、人生のどんな局面であろうとも、癒しを始めることはできるし、それが自分に正直になるということなのです。

私たちは結果の世界に生きている

この世界、このあらゆる現象が詰まった世界とは、すべてが結果なのです。私たちの思考だけが、この世界の中に原因と結果を見い出してしまうのです。

思考は、論理を使って理解ということをし続けたいので、因果というものをでっちあげるのですが、その思考すら結果でしかありません。

一体何の結果なのかというと、源泉という原因からやってくる結果なのです。あらゆる森羅万象が起きる根本原因は、この世界の中にはありません。

それはちょうど、私たちが観る映画と同じです。映画の内容がどうであれ、それはすべて撮影した結果でしかありませんね。

その映画の物語の中には起承転結があるかもしれませんが、それらは撮影した結果でしかないということは自明です。

あるいは、あなたが夜寝ている間に見る夢がありますが、その内容がどうであれそれはあなたが夢を見ている結果です。

夢の内容のすべての原因は、あなたが夢を見ているということですね。この世界もそれと全く同じだということです。

そして源泉こそが、思考を超えた真実です。その理解を越えた源泉から、毎瞬ごとにやってくるものがこの世界で現象化するということです。

そうやって、私たちはすべての大元である源泉からやってくる結果の中で暮らしているのです。だから、その源泉にすべてを委ねればいいのです。

自分の身は自分で守らねばならないということを忘れることです。そうすれば、不必要な苦しみから解放されて、無防備な愛の中で生きていくことができるのです。

真実は表現することもイメージすることもできない

どれほど真実を表現しようとして言葉を並べても、残念ながら真実を伝えることはできません。なぜなら、言葉は思考からやってくるからです。

思考をどんなに駆使したところで、所詮思考の枠の中でのことだからです。世界一信頼されている経典に書かれている言葉であっても、それは同じこと。

決して真実を表すことなどできません。たとえば、すべては「無」であるというとき、それは真実は何かではないということをいいたいに過ぎません。

私たちが考える何かではないということだけははっきりしているので、なにものでもないということを言いたくて「無」と表現しているのです。

したがって、「無」だからといって空虚とは虚無ということでも本当はないのです。ただただ何ともいえないし、イメージすらできないものです。

「無」であっても、それはただ在るのです。あらゆる現象の根源ですから、私たちが想像しているような「無」とは違います。

それはイメージとは違うというレベルのものでもありません。言葉や思考とは何と虚しいものなのでしょうね。最近、つくづくそう思ってしまいます。

自分はどこにいるのだろう?って見て、ああやっぱりどこにもいないし、全体性として遍在しているという感覚さえも、真実ではないのでしょう。

私たちは、本当には知っていることを知らないと信じていて、知っていると信じていることは本当は何も知らないということにも気づいていません。

真実は無限に遠いし、限りなく近いとも言えますね。

自分の中にいる男の子の思い

指折り数えてみると、電車やバスなどの乗り物を使っての通勤というものをしなくなってから、16年経っていたことに気づきました。

それが昨年末にオフィスを引越ししてからは、毎日バスでの通勤の毎日がまた始まったのです。身体がそれに慣れていないということと、この寒さとで心の中で誰かがびっくりしているようです。

でも人間というのは不思議なもので、1、2ヶ月もたってくると徐々に慣れてくるのですね。寒いのは相変わらず好きにはなりませんが…。

それでも何とかして、クルマでの通勤を取り戻したいという思いで、プロに駐車場を探してもらっているのですが、なかなか見つかりません。

それと、高々片道5,6km くらいの往復ですから燃費のいい小さなクルマでも手に入れようとして、もっとも用途に都合のいいものをネットで物色中なのです。

ただ毎日の通勤の足になればいいだけなので、特別な思い入れなど必要もないし、当然安く手に入る中古車市場をサーチしています。

けれども、あれでもないこれでもないとやっているうちに、どうやら自分にはまだまだなんらかの拘りのようなものが厳然としてあるんだなと気づきました。

何でもいいなどとは全く思ってないということが明らかになりました。手ごろなものが見つかったと思っても、どうしても触手が動かないのです。

そんな通勤クルマにも遊び心というか、スタイリッシュさというか、目立ちたがり屋というか、そんなものを求める自分がいました。

というわけで、理屈ではなくて、ただコストパフォーマンスを求めるのでもなく、自分の中にいる楽しみたい男の子の気持ちを受け止めてあげたいと思うのです。

二つに分裂したインナーチャイルド

私のセッションでは、大抵の場合インナーチャイルドという言葉が登場します。もうすでにご存知の方が多いと思いますが、直訳すれば内なる子供ということです。

つまり、大人の心の中に残存している子供の頃の意識ということです。インナーチャイルドのいない人はいません。

どんな人であっても、インナーチャイルドが心の奥に潜んでいます。無邪気な子供の頃をあるがままにそのままにしておける人は、いないからです。

誰でも、大人になるにしたがって、無邪気な心だけでは生きていけないということを悟るからです。社会に順応して生きていくためには、無防備さだけでは危険なのです。

そこで、自己防衛のシステムが作られることになるのです。その自己防衛が強大であればあるほど、それだけ苦悩も大きくなるのです。

つまり、インナーチャイルドがいることが直接問題であるということではないのです。インナーチャイルドはざっくり言って二つの部分に分裂しています。

一つは、無邪気なままの無防備な子供の部分であり、もう片方がそんな自分を否定して、誰からも否定されない自分を創ろうと頑張る部分。

実は後者の部分こそが、自己防衛システムを強大にしていくことになるのです。どちらのインナーチャイルドにも等分の役割を果たさせることができると、バランスのとれた大人になることができます。

けれども、その後者のインナーチャイルドの上に自分を構築して行ってしまうと、自己防衛の強い人生へと突き進んでいくことになってしまうのです。

その場合にこそ、癒しが必要になるのです。セッションの最初では、こうした心のメカニズムについて、充分に理解していただくことが大切なのです。

自分の本質に気づくことが真の癒しとなる

セッションを受けると、その反応はクライアントさんによって様々になるのですが、これだ!と感じられると、短期間に何度もセッションに通いたくなるものです。

そして、少しでも早く癒しを進めて、これまでの不自由さや苦しみから解放されたいと願うのは当然のことですね。

けれども、癒しが進む速度というのは誰であれ、概ね決まっているのです。思ったようには進まないのです。

仮に自覚としてはどんどんよくなっていると思えたとしても、それほどの変化に深い部分はついていけないのが現実です。

そのことを理解して、焦らずじっくりと腰を据えて、癒していくことが大切なのです。それは、必ずしもセラピーに通うということではありません。

普段の生活こそが、癒しの最大の実践の場であるということを忘れないことです。そして、最終的に何よりも大切なことは、自分の本質に気づくことです。

癒しが進んでいくというのは、人生という物語の中でのことなのです。真の癒しは、物語の中にいる自分に気づいていることです。

つまり、物語の外に自分の本質があるということ。その気づきこそが、物語の中で自分を何とかしなければと躍起になっている自分への最大のプレゼントになるのです。

それは間接的に真の癒しをもたらしてくれます。自分を改善しなければという凝り固まった信念から開放してくれるのですから。

「気づき」こそが真実

「気づき」という言葉を私たちは、何気なくよく使っていますが、本当のところ気づきとは一体何のことを指すのでしょうか?

あえて表現すれば、気づきとは知覚を使わないで知る方法であると言えます。但し、ここでいう気づきとは、一般的に使う「忘れ物に気づいた」という場合とは異なります。

この場合は、思い出すというような意味合いで使っているのですが、「気づき」は気づいている状態であることも含むのです。

私たちの認識のすべては、知覚であったり、知覚が元になってなされるのです。そして、知覚が機能するためには、知覚する主格と知覚される対象との分離が必要です。

知覚する主格自体を真に知覚することは不可能です。自分の肉体の目でそれ自体を見ることが不可能であることを考えれば、当たり前のことです。

「気づき」とは知覚のように対象を必要としない、主格自身がそれ自体を知ることなのです。私たちの本当の自己が、それ自身を知る方法こそが気づきなのです。

気づきは知覚のように間接的ではありません。それ自身がそれ自体に気づいているのですから、これほど直接的なものはないですね。

したがって、気づきを騙すことはできません。それそのものに直接気づいているのですから。これが真実なのです。

これに対して、知覚は残念ながら身勝手な作り物でしかありません。なぜなら、決して知りえない対象に対する認識だからです。

目を開いたまま「何もなさ」に気づく

目を閉じると、なにも見えなくなります。それこそ真っ暗闇の中に、放り出されたような感じがするかもしれません。

けれども、何も見えないというのは「無」を見ているということでもあるのです。もちろん、それは肉体の目で見ているというわけではありません。

「無」それ自体と共にあるということ。「無」そのものであることをただ感じているのです。個人としての自分は、知覚を遮断されるとそれだけで不安になるのです。

その不安が、暗闇のようにただ感じさせるのです。知覚からの情報が途絶えると、思考は活力を失うのです。思考が止まれば、個人としての自分はいなくなってしまいます。

ですから、暗闇はとても危険であるという判断がなされるわけです。真実は、暗闇なのではなくて、「何もなさ」の体験なのです。

洞察力とは、有名な絵画である「モナリザの微笑み」を見て、その背後にある真っ白なキャンバスを見抜く力です。

誰もがモナリザの口元の怪しい微笑みに魅了されてしまいます。それもすばらしいことですが、それと同時にモナリザがそこにあるための土台である真っ白なキャンバスを見通すのです。

それよりも、もっともっとずっと簡単なことですが、目を開いたときに、目を閉じたときのあの何もなさを知覚と同時に忘れずにいればいいのです。

そうしたら、時空と物質で埋め尽くされているこの世界を知覚しつつも、同時に何もなさをいつも見ていることができるのです。その何もなさこそが、本当の自己なのです。

素直さという宝物

小学生のころ、家の裏側に位置する家によく一緒に遊ぶ友達がいました。彼は、次郎ちゃんといって、確か小学生までは同じ学校でした。

いつものように、じろちゃんと遊んでいたある日、何かちょっとしたことで気分を害した自分は、あからさまには怒りを出さないようにして、陰険な感じで言い合いをしていたと思います。

そのときに、じろちゃんは、ふいに「なんか僕たちケンカしてるみたいだよね」と言ってきたのです。自分は冷静を保ったように、そんなことないよと言って、二人はいつもの仲良しに戻ることができたのです。

じろちゃんが仲直りのきっかけを作ってくれたんだなとはっきり分かりました。いつも自分の方が何となくえばっているくせに、こういう肝心なときはじろちゃんの方が上だなと。

自分は負けたと思いました。自分の方が弱い、その弱さとは素直になれないということです。素直に表現ができる人が羨ましいと思ったものです。

自己防衛していると、素直さはどこかへ行ってしまいます。相手に負けたくないと、弱みを見せたくないとつっぱるのは、ただの自己防衛ですね。

素直でいることが恥ずかしいと感じていたのです。それは今でも変わらずに持っている自覚があります。子供のころよりは、小さくなったかもしれませんが…。

恥ずかしさは恐怖から来ていますので、恥ずかしさを正面から感じようとしなければ、いつまでも自己防衛の懐から抜け出すことができません。

恥ずかしさにはどうしても勝てない人、きっと沢山いらっしゃるはずですね。その恥ずかしさをまともに感じきることができたら、素直さという宝物を誰でも手にすることができるのです。

「無」とは万能ということ

映画館のスクリーンは、大きくて真っ白で光が当たる面が真っ平ですね。それは、撮影された映像ができるだけ忠実に再現されるためです。

もしも、面積が小さければ、映像の一部しか観ることができないですし、色が着いていたりしたら、ちょっと気持ち悪いことになりそうです。

白という色は、すべての波長の光を同等に反射してくれるので、偏りのない天然色を観ることができるということです。

光の当たる面がでこぼこしていても、映像が歪んで映ってしまうはずです。このようなわけで、私たちがいつも当然のように思っているあのスクリーンとなるわけです。

まったく同じようなことが真の自己に対しても言えるのです。自分の頭(顔)があると想定されているところを自分が見ようとしたときに、そこには何もないということをすぐに知ることができます。

あの何もなさこそが、映像を忠実に映し出すためのスクリーンなのです。その何もなさ、つまり「無」であるからこそ、この世界のあらゆるものが何の手も加えられることなく起こるのです。

もしも、それに形があったら、色があったとしたら、位置があったとしたら、この宇宙はそれに依存して世にも奇妙なものになっていたことでしょう。

何もなさとは、万能だということです。白があらゆる光をそのまま反射してくれるのと同じように、「無」はあらゆる物事をそのままに起こす力を持っているということですね。

そして、それこそが私たちの本質でもあるわけです。本当に驚くほど、よくできていると思います。