夢の中のあなた その2

昨日の続きです。

その夢の中のあなたが、この世界という現実の中で人生を送っているあなた自身だと分かればいいのです。

ちょうど夢の中のあなたが、眠りの中でその夢を見ているあなた自身を見つけることができないのと同じように、この世界の中にあなたの本質を見つけることはできないのです。

私たちは、自分という一人称について、うわべだけの見方をしています。二人称や三人称などとの比較においてのみ、一人称を理解しているのです。

けれども、真の一人称は何の比較もできません。なぜなら、それだけが真の実在だからですね。一人称だけの一人称とはどんなものでしょうか?

それは、私が何かを知るとか、私が何かを持つ、私が気づく、私が思うという意味での私というものではありません。

真の一人称とは、私が知ることであり、私が持つことであり、私自身が気づきであり etc、ということなのです。

それを一言で表すとすれば、「ただ、私は在る」ということです。英語で言えば、「I am」です。I am の後ろには、何も付属しないのです。

繰り返しになりますが、この世界のどこか特定の場所に本当のあなたを見出すことはできません。それこそが、真の一人称であり、全体性ということです。

夢の中のあなた

あなたが夜眠っている間に夢を見たとしましょう。その夢の中で、あなたはある部屋の中に閉じ込められているとします。

あなたは、その部屋のことが嫌いで、とにかく何とかして出て行く方法はないものかと考えあぐねているという設定の夢です。

あれこれ試してみたものの、疲れたり怪我をして痛い目にあったりするだけで、思うようにその部屋から出て行くことができずにいます。

人からいい方法があると聞けば、それを試してみるのですがやっぱりうまくいきません。もうあきらめようかとも思ったりするのですが、しばらくするとまた気を取り直して試行錯誤が続くのです。

そんなときにふと、あれ、これって夢かもしれないと気づくのです。ということは、本当の自分はこの部屋の外側にいるということになります。

部屋の外というよりも、この部屋を作った張本人が自分だったと気づいたわけですから、ちょっとした驚きですね。

なあ~んだ、じゃあこの部屋から出ようが出まいが、どちらでもいいじゃないかあ、と思ってみたものの、やっぱり夢の中のあなたはその部屋から出たいという気持ちは変わらないと知るのです。

けれども、夢だと気づいた瞬間から、その部屋から出たいという気持ちに表現できない変化がやってきているのも事実なのです。

それは、部屋から出たいという思いの切実さだったり、深刻さというものが薄れてしまうということかもしれません。

もしかしたら、他の人からは気づかれないような変化かもしれません。それでも夢の中のあなたはとても大きなゆるぎない安心感を手に入れたことは間違いないでしょうね。

苦行なんていらない!

今から約2600年前に、お釈迦様は王子の身を捨てて一人こっそりと城を抜け出して、苦行の旅に出たのです。

その苦行は17年間にも及んだらしいのですが、結局真実を見出すことができずに、あきらめて菩提樹の下で10日間くらい瞑想したすえに、覚醒したということです。

彼は、あの難行苦行はまったく必要なかったと言ったらしいのですが、誰もその言葉をそのとおりには受け止めなかったのですね。

そうした苦行を経験したからこそ、短い瞑想の末に覚醒できたのだろうと思うわけですね。偉業をなすためには、それなりの努力が当然必要なのだという信念があるのです。

けれども、彼は本当の意味で苦行はいらないと言ったのです。なぜか、私たちの誰もが努力の末にこそ報われることがあると信じているのです。

だからなのかどうか知りませんが、私の周りにも見ようによっては苦行僧のように生きている人が何人もいらっしゃいます。

自分を痛めつけるのが好きというのか、そうやって自分の罪悪感を相殺できると思っているのか、本当のところはよくわかりません。

でもはっきりしていることは、どんな練習をしてもしなくても、獲得した金メダルは金メダルには違いないのです。

毎日を楽しみながら生きている人が、苦しみ抜いて何かを勝ち得た人の人生よりも価値が無いなどということはありません。

真実を探求するにしても、苦行が必要というのは間違った思い込みに過ぎません。実際、自分の本質を観るためには、何の努力もいりません。時間のかかる瞑想もいらないのです。

真実はいつだってもっとも身近なところにあり、手に入れるようなものでもないからです。私たち自身がすでにそれだからですね。

思考の外にある視点

今までもこのブログで何度となくお伝えしていることですが、セラピストの私が言うのも気が引けるのですが、人は変わりません。

もう少し詳しく言えば、本人が思っているようには変わらないということです。本人の望むように、あるいは本人の努力や強い意志によって変化はしないということです。

心の癒しは向こうからやってくるのです。しかも、その癒しのレベルは、それほど深いものではありません。つまり、人物としてのご本人が根底から変わってしまうということはないのです。

人は、どんなに羨ましいと思う人がいたとしても、その人になりたいとは思わないのです。やっぱり自分でいたいのです。

自分でいながらにして、自分を望むように変えられたらいいのにと願っているのですから、そうそう変わらないのは当然かもしれません。

真の癒しとは、人物としての自分の変化を指すものではないのです。このことは、何度言っても言い過ぎということはないと思っています。

なぜなら、このことがそのまま伝わったと実感できたことが少ないからです。本質的な癒しとは、人物としての自分が生きている人生を見る視点へ注意を向け続けることです。

それは、人物でありながら同時に可能ですし、これほどシンプルなこともありません。だからこそ、何だか分かったような分からないような感じがしてしまうのです。

その視点とは、思考の外に在るものだからですね。

人生観は変わる

子供のころに、「自分は誰かに生かされているような気がする」ということを父親に話したことがあります。その誰かというのが神様のことだったのかどうかは分かりませんが。

ただ、何となく漠然とそのような感覚を持っていたというのは確かでした。でも口に出したのはそのとき一回だけでした。

そんな説明できないようなことをいくら訴えたところで、予想通り誰にも伝わらないと思ってしまっていたからですね。

その後、輪廻転生について何度も考えが変わりました。ある時期には、きっと自分の魂は今までにも何度も生まれ変わって様々な人生を生きたに違いないと思っていました。

またあるときには、いやいや死んでしまったら一切合財が無になるはずだと。死んだ後までも何かが残るなんて、想像しただけでぞっとすると。

信念がないというのか、気持ちが変わりやすいというのは、どう表現していいか分かりませんが、とにかく変わらないカチッとした考えというのがなかったのです。

今は、そうしたこうに違いないということそのものが消えていってしまいました。つまり、信念そのものの重要性が薄れてしまったわけです。

このように、私の人生観は見事にその時々で変化してきました。だからこそ、今私が思っていることも明日になったら変わってしまう可能性があるということです。

それは正しさに興味を持てなくなってきたということでもあるのだと思います。何年か前に、人物としての自分は思考の産物だということが分かったときには、根本が覆ったような感覚になりました。

そんなわけで、これからも人生観は変化するのでしょうね。というよりも、人生観を持っている自分をただ見る視点が色濃くなってきたということかもしれません。

理由のないところに本質がある

私たちは、毎日沢山の感情を感じながら生きています。何か願っていることが起きたらすごく嬉しくなるでしょうし、大切なものを失ったら悲しくなります。

どんな感情でも、それが発生する正当な理由がありますね。お天気がいいというただそれだけでも、ウキウキした気持ちになることもあります。

もしも、何も理由がないのに、電車に乗っていたら急に涙が出てきて困ってしまったということがあったなら、それは過去に理由があるのです。

そのように、たとえ今目の前に理由らしきものが見当たらないとしても、どこかにかならず感情が出てくる理由はあるのです。

お世話になったり、助けてもらったりして、感謝の気持ちが湧いてくることもあるはずです。献身的な相手の態度に、愛が芽生えることもあるかもしれません。

こうした理由(原因)があって、起きてくる感情というのは、そこに思考が介入しているのです。なぜなら、理由は思考の産物だからです。

けれども、まったく思考が入り込まない状態においても、感情が発生することがあるのです。それは、もっと正確に言うと元々そうした感情が存在し続けていたということです。

心が無防備の状態になればなるほど、何の理由もなく愛や感謝の気持ちがやってくるのです。その経験はまさに驚きと言ってもいいかもしれません。

そうした感情は、理由があってやってくる感情とは違い、本来ずっと私たちの根っこにあり続けているものなのでしょう。

あるいは、愛や感謝、平安さなどは、感情というよりも本当の私たちの本質であると言えるのです。だからこそ、そこには何の理由も必要ないのですね。

自己防衛を見極める

子供の頃に、辛いことがあって元気が無いようなときや、悲しみや寂しさなどで気持ちが落ち込んでいるときに、飼っている犬や猫が寄り添ってくれて救われたという経験がある人は意外に多いのです。

私自身はそうした経験がないのですが、この仕事を通してそんな体験談をこれまで数多く聞かせていただいてきました。

心が通じ合った動物というのは、人の気持ちに敏感なのですね。自然と身体を寄せてきたり、心配そうに覗き込むような動作をしてきたりするということです。

実はそうしたことは、動物ばかりではなくて、まだ自我が芽生えていないような幼子でも、似たようなことをしてくれたりするものです。

幼い子は大好きな親が笑顔でいて欲しいと無自覚にも望んでいるのです。たとえば、お母さんの心が晴れない状態であると察知すれば、何とか気持ちを和らげてあげたいと思うのでしょう。

それは、無邪気さからくる愛の行為に違いありません。だから、精神的に辛い親の元で育った子供は、親の心理状態がいつも気になってしまうのです。

けれども、自我が芽生えてしばらくするうちに、そうした行為は変わらないままに、心の中で恐怖という防衛システムが愛に取って代わってしまうのです。

そうなると、子供本人はそれまでと変わらずに親を心配して、たとえば親の愚痴を聞き続けたりするのですが、それはもう防衛と化してしまっているのです。

可愛そうな親を見ているのが辛いので、その辛さから逃れるために自己犠牲を強いてまで、愚痴を聞き続けるといったようなことになるのです。

その結果は、莫大な自己犠牲が巨大な怒りへと化けて心の中に蓄積することになってしまいます。本人は無自覚とはいえ、その怒りは現在身近にいる人へと向かうことになりがちです。

自分の言動を注意深く見て、それが真に相手のためなのか、それとも自己防衛によるものなのか、はっきりと見極めることが大切な第一歩となるのですね。

自分は動いていない、あの感覚

今年の2月から以前のようにほぼ毎日スポーツクラブへ行くようになりました。一番の目的は、勿論おじさんにとっては、かけがえのないサウナなのですが、一応水泳もするようにしています。

ところが、一ヶ月経っても二ヶ月経ってもなかなか、以前のようにスムーズに泳ぐことができずにいました。ちょっと泳ぐと、すぐにゼイゼイ息があがってしまうのです。

やっぱり3年半のブランクは大きかったのか、それに年齢のことも考えると、もう元には戻れないのではないかと半分諦めていたのです。

けれども、ある日突然、本当に急に自分が楽に泳いでいることに気がついたのです。体力も少しずつ回復しつつあったし、泳ぐときの力みが緩んだのかもしれません。

理由ははっきりしないまま、とにかく劇的にラク~に泳げるようになったのです。休み休み500メートルだったのが、休まずに1000メートル泳いでも平気になりました。

あらゆる泳ぎの要因が同時にカチッと揃った感じといえばいいのでしょうか?それで気づいたことがあります。

それは、楽になって余裕ができたら、自分が前へ進もうと頑張っていないということが分かったのです。それと同時に、自分は動いていない、あの感覚を取り戻したのです。

思い出そうとしたわけではなくて、楽になったら自然と思い出すことができたということです。自分が一ミリも動いていないというあの感覚は、本当に心地いいのです。それを思い出せたおかげで、さらに楽になれたのも事実です。

歩いているときや、クルマを運転しているときには、思い出すようにはしていたのですが、水泳のときは苦しくて忘れてしまっていたのですね。

みなさんにもお勧めします。透明で大きさも形もない自己は、移動することは不可能です。その視点で周りを見ると、過去も未来もなくなります。

今この瞬間を見る

人生で一番大切なことは何かと聞かれたら、きっと「今この瞬間を見る」ということだと答えると思います。

それは、何の特別なことでもありません。特別な能力も必要ないし、特別な状況も必要としません。集中力もいらないし、労力も努力も何もいらないのです。

お金もかからないし、自分ひとりでできるので、誰かの助けもいらないのです。時間もかからないし、いつでもどこでも可能なのです。

つまり、これほど単純で簡単で大人でも子供でもできることなのに、多くの人がそれをせずに人生を終えていってしまうのです。

なぜなら、「今この瞬間を見る」ことに殊更の興味を持っているわけでもないし、過去のことを悔やんだり、明日のことを心配することの方に馴染んでいるからです。

このまま赤字が続いたら、家族共々路頭に迷ってしまうというのに、何をのんびり「今この瞬間を見る」などと言っていられるか、ということです。

確かにそうかもしれません。やらねばならないことは沢山あるし、今この瞬間を見ているだけではそのことは一向に片付かないのは明白です。

けれども、私が言いたいのはやるべきことをやりながらでも、それを計画しながらでもいいので、ほんの短い間でもいいから「今この瞬間を見る」を実践して欲しいのです。

難しいことではありません。やるかやらないかという単純な選択があるだけです。もしも、しばらく実践し続けることができたなら、「見る」ということが過去や未来から開放されることに気づくはずです。

それは思考に巻き込まれることから開放されるということなのです。いつでもどこでも、耳を澄まして、今この瞬間を見てください。

思いもよらない何かを体得できるはずです。それを言葉で正確に表現することはできませんし、人生が直接的に変わることでもありません。

それでも、今を見ることです!!

独り言を言うときは?

今日いつものように、水泳を終えた後でのんびりとサウナの中で寛いでいると、普段あまり見かけない男性と二人きりになりました。

その人は、時々小さな声でなにやら呟いているのです。つまり、独り言を言っているのです。内容を聞き取ることはできませんでしたが…。

けれども、きっと彼の頭の中で何かの考えが止まらない状態で、無自覚にそのことが口をついて出ているのだろうことは分かりました。

それほど広くない静かなサウナの中でのことなので、あんまりいい気持ちがするものではありません。終わったかと思うとまた始まるといった感じでした。

それで思い出したのですが、大学生になって初めて一人暮らしをするようになったときのことです。気がつくと、結構な頻度で独り言を言っている自分がいました。

気づいてからも、自覚があるままで独り言を言っていましたね。今思えば、きっとどこか寂しい思いを紛らすための策だったのだろうと思います。

独り言を言うときというのは、何らかの思考にとらわれている状態を暗示しているのでしょうね。サウナの彼の場合は、どうしようかと思いあぐねているようなことだったかもしれません。

私の場合は、寂しい感覚を紛らすという考えにとらわれていたということです。いつも言っていることですが、思考にとらわれてしまうのは、自己防衛の状態なのです。

思考は主体的に使ってこそ価値があるのです。使われてしまっては、本末転倒というものです。みなさんも、独り言を言っていることに気づいたら、そんな自分を静かに見てあげることです。

ただ観ることは、すべてにOKを出すことにつながるのですから。