可愛そうに負けないというモットー

随分前から自分の中で、「可愛そうに負けない」ということを一つの信念として生きてきたように思うのです。

それは裏を返せば、誰かのことを可愛そうと思ったら、その相手にとってより辛くなるようなことを言ったりやったりしないようにする、という自分がいるからでしょうね。

でも、相手のことを思ってという、一見思いやりのようにも見える自分の言動というのは、結局のところ自己防衛でしかないと気づいたのです。

可愛そうな相手に手を差し伸べるということを否定しているのではありません。それは、当然といえば当然のことです。

けれども、自分の本音を抑え込んでまで、自分の本当の意に反してまでとなると、これは自己防衛になってしまうということです。

可愛そうな相手を助けてあげられないばかりか、相手を余計に傷つけてしまう自分に我慢ができないだけなのです。

それは自己否定や罪悪感を引き起こし、それを味わいたくないがために自分を抑圧するという自己防衛に走るのです。

人の愚痴など本当は聞きたくないのに、聞いて欲しいと辛そうな人から頼まれてしまうと、いやといえずに延々と聞いてあげてしまうなどは、この典型例と言えます。

可愛そうに負けないというのは、可愛そうだと感じるその気持ちから決して逃げずにいるということです。その気持ちを払拭したくて、行動しようとするのをやめるということです。

そうしておいて、やってくる罪悪感を今度は正面から感じきるのです。そうやって逃げずにいれば、防衛よりも本当の思いを選択することができるはずです。

つまり、もうあなたの愚痴は聞きたくないと、はっきりと言うことができるようになるということです。それは、愚痴を聞いてもらえなくなったその人のためにもいいことだと分かるはずですね。

自分という自覚の必要性 その2

昨日のブログでは、何かを学習したり習得するためには、自我は本質的には必要ないのだということをお伝えしました。

自我が消えている瞬間の方が、何事もうまくやれるということも私たちは経験として知ってもいるくらいですね。

それならなぜ、自我は知らぬ間に芽生えてしまうのでしょうか?自我とは、ほとんど自己防衛と同じ意味だとも言えます。

自己防衛しない自我というのは、原理的にあり得ません。私たちが無防備でいるときには、必ず自我がどこかへ行ってしまっているのです。

自我の自己防衛システムが激しければそれに比例して、自己犠牲が起きてきます。そこに人間に固有の苦しみがあるわけです。

動物には苦しみというものはありません。あるのは単なる痛みです。それが肉体的なものであれ、知能の高い動物の心の痛みの場合であれ。

彼らは私たちと同じように痛みを感じますが、そのことで精神的な苦しみを持つことはありません。それは、自我を手放した聖人、あるいは賢人のようなものです。

それならなおのこと、どんな目的で自我を持ってしまうのか?その答えをいくら求めても、求めているのも自我だし、答えようとしているのも自我なのですから、永遠に回答はないのです。

敢えて言えば、一度自我を持つことで個人という思考の虜になり、ありとあらゆる苦悩を経験した末に、自己の本質を思い出すことをしたかったということなのかもしれません。

それにしては、人類の苦しみは半端ではないですね。でもそれも、物語を抱きしめている自己の視点から見れば、丸ごとOKでしかないということです。それが本当の救いですね。

自分という自覚の必要性

私たち人間と他の動物との最大かつ決定的な違いとは、自我があるかないかという点です。自我とは、自分、あるいは自分がここにいるという自覚のことです。

人間は他の動物と違って言葉を話すこともできるし、多くの複雑な能力を身に着けることもできます。芸術面にしても、スポーツでも、科学やその他あらゆるジャンルにおいてもです。

ということは、単純に考えれば、自分という自覚を持つことによって、人間は能力を飛躍的に向上させていくことができるように思えます。

けれどもそれは本当でしょうか?本当に何かを学習していくために、自分という自覚が大きな役割を持っていると言えるのでしょうか?

たとえばピアノの演奏を習っている場合、もしもライバルに負けたくないという気持ちがあって、一生懸命に練習して上手になったとします。

この場合には、ライバルを意識しているのですから、自分がピアノを弾いているという自覚がそこにあるのは明白です。

したがって、自分が弾いているという自覚がピアノの習得に役に立っていると言えるでしょうね。しかし、そんなライバル心によって真に熟達したピアノ奏者になれるのでしょうか?

私たちは生まれてから数年もしないうちに、気が付いたら言葉を使って話をするようになっています。つまり、明確な自覚がないままに、言葉を学習しているわけです。

言語というとても複雑で難しいものを幼い私たちは無自覚のうちに体得してしまうのですから、本当にすごいことですね。

結局、自我は部分的には学習意欲に一役買うことはできますが、ただそれだけです。実は、学習する対象への興味があれば、自覚はなくても高度に能力を高めることはできるのです。

逆に自分という自覚が能力を制限してしまうケースをたくさん知っています。なぜなら、自覚は本来自己防衛において必要なだけだからです。

どんなジャンルであれ、頂点を極めた人の意識はきっとその瞬間、自分という自覚の外に在るのだと思います。

ブラッシュアップしたグループセッションを企画します

数年間続けてきた各種講座を、昨年の秋にやったカウンセラー養成講座を最後に止めてしまいました。

ワークショップも昨年の夏に開催したのを最後に打ち切ってしまいました。何だか変わり映えがしないという感じがしてきたこともあったのです。

やっぱり個人セッションが一番だし、癒しの基本はそこにあると思うようにもなったのです。それで、この半年くらいは来る日も来る日も個人セッションに明け暮れています。

そうなると、今度は何となくまた講座やセミナーといったグループセッションを復活させてもいいかなという気持ちになってくるから不思議です。

自分でもとても贅沢だと思うのですが、同じことを繰り返していると違うことをやってみたいと思うようになるのですね。

一対一で、一人のクライアントさんと真剣に向き合うというのが、私はものすごく好きだというのを実感しています。

だから、どんなクライアントさんが相手であっても、気づきの多い貴重な体験をさせてもらえる個人セッションが大好きなのです。

欲張りなのかどうかは分かりませんが、その上でまた少しブラッシュアップした何らかのグループセッションを開催できたらいいなと思っています。

これに参加していただいたら、心の癒しについての充分な知識が身につき、実践を通して自己の本質にも気づける、そんなグループセッションを企画してみたいと思うのです。

そのときには、是非足を運んでいただきたいと思っています!

世間知らずと傲慢さの違い

みなさんは、世間知らずというのと傲慢さとの区別が明確につくでしょうか?もしかしたら、曖昧な部分も多分にあるかもしれませんね。

世間知らずというのは、もっとズバっと表現してしまえば、「無知」ということです。経験が足りなかったりして視野が狭いままであれば世間知らずの言動をすることになります。

たとえば、幼い子供が親から教えてもらった駅の名前を全部覚えて言えるようになったとしたら、自分は駅名を全部言えると自慢するかもしれません。

この場合は、自分が覚えた駅名が日本の全部の駅名ではなかったと知ることで、恥ずかしい思いをすることになるかもしれません。

そんな子供がいたら、可愛らしいと思うのが通常の感覚だと思います。なぜなら、そこには無邪気さを感じることができるし、子供は当然のごとく世間知らずで無知なのですから。

けれども、その子供が自分はみんなと比べてすごいんだというような言い方をするようになったとしたら、傲慢な匂いが少しし出すことになるのです。

つまり、世間知らずだけならただの無邪気な可愛らしさだけですむのに、本人が無自覚であろうとそのことを自己防衛に使い出したとたんに、否定的に見られてしまうということです。

「傲慢」という言葉の意味を辞書で調べてみると、「おごりたかぶって人を見下すこと」、あるいは「偉そうな態度・振る舞い」などと書いてあります。

それはまさしく、分かりやすい自己防衛の典型例なのです。洗練された自己防衛システムでは決して使わない作戦ですね。

単なる世間知らずであれば、それは無防備さの象徴であり、傲慢さが見えるようになったら自己防衛システムが活動しだしたということです。

自分にはどうも傲慢なところがあって困ってるというなら、それが本当の傲慢さなのか、それとも単なる世間知らずなだけなのか、よく見極めてみることをお勧めします。

もしも、世間知らずな幼い頃の自分が表面に出るだけなら、その無邪気さはあなたの宝物だと気づくことです。否定ばかりするのではなく、目を見開いて自分をしっかり見つめてあげることです。

エゴはエゴ自身のことを否定する

私たちは、周りにある何かを否定的に見ることによって、自分を肯定しようとするのです。そればかりか、自分自身のことも否定しています。

そうやって、自分を否定できる自分(の部分)は肯定できると信じているのです。結局、否定とは、否定している主体を肯定しようとすることなのだということに気づくことです。

そして、自分のことを肯定しようとする試みは、その裏に否定していると言う事実が隠されていることにも気づく必要があるのです。

自分のことを徹底的に否定しているからこそ、自分以外の誰かのことを否定せずにはいられないのですから。

自分をもっと何とかしたい、より良い自分になりたい、もっと自分を改善したいという思いは、その土台に自己否定が強くあるということです。

自己否定をやめなければいけないと信じている人がたくさんいます。けれども、自己否定してしまう自分を否定するなら、それは同じことなのです。

私たちは、エゴを何とか手放してよりすばらしい人間になりたいと願っていますが、それこそがエゴの自己否定に違いありません。

否定はエゴの専売特許なのです。エゴはエゴ自身を否定しているのですから。私たちは自己否定をやめる必要などありません。

ただ、自己否定している自分を認めて受け入れるだけでいいのです。人物の根っこはエゴでできているのですから。

必死に自己否定をし続ける幼い意識(思考)を丸ごと見てあげることです。そうやって、何から何までOKを出せる本当の自己が在ることに気づくことです。努力などいりません。

本能的自己防衛と心理的自己防衛

人間である私たちは、他のすべての動物と同じように生物としての防衛本能を備えています。そうでなければ、種の保存が成立しないからですね。

それは、熱いものに触れたら反射的に手を引っ込める動作をしたり、苦い味のする食べ物を吐き出そうとするといった原始的なものです。

つまりそれは、生命を維持するために必要となる反応を司る部分と言えます。この自己防衛には元々思考は使われないので、赤ちゃんがゴキブリを怖がることはないのです。

ところが、成長段階のある時期から人間だけが、心理的な自己防衛をするようにもなるのです。その正体が自我(もしくはエゴ)と言われる自意識です。

それは思考と密接に結びついているので、たとえば親がゴキブリを極端に怖がる姿を見るうちに、そこに思考が介入することでゴキブリは危険と決め付けるようになるのです。

そうやって、生後自分を守るためのルールをせっせと作り続け、私たちは他の動物とはまったく異なる防衛システムの中で生活するようになるのです。

それ以降は、本能的防衛と心理的防衛の両方を使いながら人生を生きていくことになるのですが、普段の生活の中で、不安や恐怖が大きければ、それだけ心理的防衛の方を優先して使うようになってしまいます。

その両者のバランスがあまりにも崩れてくると、精神的な苦しみがその分だけ大きくなって行ってしまうことになるのです。

そして、あまりにも心理的防衛にばかり依存した生活が続くと、今度は突然本能的防衛が優先されて、一時的にそれまでの生き方に待ったをかけられることになるのですが、その状態のことを鬱症状と呼びます。

鬱は病気と言われていますが、心理的なメカニズムが分かってしまえば、当たり前のことが起きているということに気づくことができますね。

硬直したものの見方

人間というものは、自己の本質への気づきを通して、世俗的な心の部分が消えていってしまうものだとの間違った思い込みを持っている人がいます。

確かに私自身も、かつてそのように考えていました。イエス・キリストにしても、仏陀にしても物欲などまったくなくなってしまった人物の典型だと考えられるからです。

もう少し近い人で言えば、ラマナ・マハルシなどはいつもフンドシ一丁で、片手に水が入ったヤカンをぶら下げて、杖をついて歩く姿が印象的でした。

勿論私が生まれる数年前に彼は亡くなってしまっているので、そのような姿は写真でしか知らないのですが…。

けれども、その一方で同じインドの賢者である OSHO は素敵なクルマを嬉しそうに運転したりしてる姿を知っています。腕には結構高そうな時計をはめていたりして。

精神性の高さというのは、心の豊かさであり、物質的な豊かさなどはもっての他と思いがちかもしれませんが、そうした決め付けこそがエゴの作戦なのです。

エゴはいつも「こうでなければならない」という「たが」を嵌めたがるのです。そして、そのルールから逸脱したものは、ホンモノではないとして否定するのです。

お金儲けに命をかける賢者というのは、あまり聞いたことがないのは間違いないところですが、経済的に豊かであっても何の問題もありません。

覚醒するためには、難行苦行が必要だとの思い込みと似たようなところがあるのでしょうね。思考の外からあるがままを見れば、もっとずっと肩の力が抜けたものの見方ができるはずです。

徹底的にあるがままを見る

私たちは一生を通して、いろいろな体験をしたり見聞を深めながらも、人物として成長していくのです。考え方や生きる姿勢などが変化することもあるはずです。

けれども、人生のどこを切り取ってもまったく変わらない自己がいつもそこにいたということに気づいているでしょうか?

その自己は今も、10年前も、5歳のときであろうと、少しも変わらずにここにいたのです。それは間違いなく人物などではなく、その変化する人物を変わらずに見ていたのです。

常日頃自分のことを一人の人物として認識していながらも、表現しようのない形も姿もない自己は確実にいつもここに在るのです。

その自己から自分という人物を見ると、自分は絶えず自分自身を何とか改善したいと思っているし、そのために様々な努力をしていることに気づきます。

それが自己防衛としての色合いを濃くしだすと、人物の自分は苦悩することになってしまいます。でも、彼はなかなかそれを止めることができないでいます。

本当の自己は、そうした自分をあるがままに見ているだけです。殊更に肯定的に見ようとすることも、否定的に捉えることもありません。

ただただ、その時々の自分を丸ごとあるがままに見ているだけなのです。そこには、信念も、意志も何もありません。

徹底的にどんな自分であろうと、そのままを見ているのです。人物の自分がそのことに気づくと、本当に救われる気持ちになれます。

人生の不思議

幼い頃からお金に困ったことはなかったのですが、さりとてお金持ちの家庭に生まれたわけでもなく、経済的にはごく普通の生活の中で育ちました。

特にお金持ちに憧れるということもなく、普通に生きていければいいなという、いたって欲の少ない自分だったと思います。

ところが、子供の頃からクルマに興味を持っていたためか、実際に自分で運転できるような年齢になったころからカッコいい外車に乗ってみたいと思うようになりました。

かつて、スーパーカーブームがあったのを懐かしく思い出しますね。でも高級車は普通のサラリーマンにはちょっと手が出ないのです。

たまたま外資系のIT業界で仕事をするようになって、急に金回りがよくなったことがありました。年収が桁違いによくなったばかりか、ストックオプションという何ともお得な制度があったのです。

最後に会社を辞めるときには、今では想像もつかない億という単位のお金が入ってきたことがありました。勿論半分は税金で持っていかれましたが。

けれども、そうしたあぶく銭は、その名のとおりいつしか泡と化して跡形もなく消えていってしまいました。

そうして現在の経済的にピーピーの状態に至るのですが、最近では連絡も途絶えていたある大金持ちのクライアントさんがいらして、その方から先日突然メールがあったのです。

そして、何と以前世話になったからという理由で、私に譲りたいものがあるということでした。ここではまだお話しできませんが、きっとそれはお金に換算したら私が100年働いても手に入らないくらい価値のあるものなのです。

13年前に入ってきた億というお金が、かすんでしまうくらいのものなので、人生の不思議を感じずにはいられません。

今のセラピストの仕事を続けていくのかどうか、しばらく真剣に考えてみる時期がやってきたのかなと思っているところです。