トータルで見る眼を養う

私が小学生の頃、毎週見ていたテレビアニメに鉄腕アトムというのがありました。最近の若い人が知っているかどうかは定かではないですが、当時は誰もが知っているアニメ界のヒーローでした。

10万馬力の力を持つという触れ込みも、強いものに憧れる男の子には、とても魅力だったのだと思います。先日テレビを見ていたら、そのアトムという人造ロボットについて、作者の手塚治虫さんが次のように言っていたと放送していました。

「アトムはまだ不完全だ。なぜなら、彼は正しい心しか持っていないから。」主題歌の中にも、こころやさしい科学の子という部分があって、常に正義の味方なのですが、それは不完全だと言っているのですね。

完全さというものは、そこにあらゆる要素があってのことだということ、つまり全体性ということなのです。人間の心には、愛と恐怖の両方があるということです。

クライアントさんの中には、自分の心の中には邪悪な部分、どす黒い部分、醜い部分があって、そういう悪の部分を何とかして善へと変えていきたいと思っている人がいます。

理想となる自分の人物像をいつも掲げているわけですね。そうして、現実の自分とのギャップに思い悩み続けているのです。これって、何かおかしくないでしょうか?

人にウソを言ったり、相手を裏切ったり、恨んだり、憎んだり、嫉妬したり、無視したり、殺意を感じたり、こうしたことの言動力は単なる恐怖心なのです。

人間の思いや行動にはすべて理由があります。邪悪さというのは、単にそこに愛が欠落しているということに他なりません。アトムみたいな子がいたら、それは人間ではなくて人の形をした天使になってしまいます。

自分のすべてを受け止めることです。受け止められないと主張しているその思いも含めて、受け止めてあげればいいのです。自分のことも他人のことも、トータルで見る眼を養うことです。

恐怖で愛を包むことはできなくても、愛で恐怖を包み込んでしまうことはできるのです。それが、全体性(トータル)で見る眼なのです。

自分の心を揺さぶること

十分に泣くことができない人は、思い切り笑うこともできなくなってしまいます。怒りをそのままに感じることができなければ、大喜びすることもできなくなるのです。

男は泣くもんじゃない!などと決めつけたのは大馬鹿のやることです。子供に聞くと、大抵は泣いたら負け!と思っていることが分かります。

弱虫と思われたくないから、泣くのを我慢するわけです。そうやって感情を抑圧し続ければ、感動することもできない扁平な心の持ち主になってしまいます。

そして、いずれはダムが決壊して溜め込んだ感情は一気に溢れ出すことになるはずですし、場合によっては激しい爆発が起こることもあるでしょうね。

感情が湧き起ることは、人としてごく自然なことのはずなのに、なぜそれを異常なまでにコントロールしようとするのでしょうか?以前、感情は心の特効薬(http://members.jcom.home.ne.jp/fosawa/column/kanjou.htm)というコラムを書いたことがありました。

やってくる感情がたとえどれほど気に入らないものであったとしても、それをそのまま見てあげることです。やってきた感情に対して何もしないでいれば、それは必ず感じることになるのです。

そうすれば、感情は川を流れる水のように流れ去っていくのです。どこかで堰き止めてしまったり、川幅を狭めて流れる勢いを小さくすれば、川の水は淀んで腐り出すのです。

まずは、川の表面を流れる水だけでも、スムーズに流れるようにしてあげることです。そうすることで、次第に川の深いところの水さえもその勢いにつられて、うまく流れるようになるものです。

それには、日ごろから自分の感情に揺さぶりをかけるように仕向けることです。感動する物語を観たり、読んだり、泣けて泣けて仕方ない映画やドラマを観たり…。

そうやって少しずつ表層での感情の流れをよくしてあげることです。そのうち、つられて自分が一番見たくない、都合の悪いかつての感情さえも流れ出すはずです。

あなたが長い間かけて溜め込んできた感情によって、あなたの身体を貫通させてあげるのです。

不幸への条件付けに気づく

私たちは、幼いころに病気などで具合が悪くなったりすると、親や周りの人たちがいつもより優しく接してくれるということを知っています。

私は風邪で熱を出して寝ていると、バナナを食べさせてもらえるのでした。あの頃は、今と違ってバナナはそこそこの高価な食べ物だったので、嬉しかったのを覚えています。

日頃満たされない思いを持ちつつ生活をしていて、病気になるといい思いができるということを何度も経験してしまうと、潜在意識が病気を作るということが起きたりします。

それは、疾病利得という言葉で言われることなのですが、病気になった方が健康な時よりもご利益があるということです。そのご利益を得ようとして、本人の自覚がないままに病気になったりすることが起きるのです。

またその逆に、自分がものすごくうれしいことがあったりして、有頂天になっていたりすると、今度は親や周りの人たちから冷たい態度を取られたりということもありますね。

簡単に言ってしまえば、それは嫉妬だったり、やっかむ気持ちから辛く当たられてしまうということです。つまり、人は苦しめば優しくされ、喜べば冷たくされるという経験を繰り返しすることになるのです。

そうした経験がたび重なることによって、私たちは表面的には幸せになりたいと願いつつも、心の奥では安心したくて苦しむ方を選択してしますのです。

苦しんだ分だけ、人からサポートを受けられるし、親切に扱われるということを知っているからです。人から無視されたり、ひどく否定されることで傷つきたくないのです。

だからこそ、私たちのベースは不幸なのです。残念ながら、これは子供のときの体験から得た知恵でもあるのです。自分を守るためには、不幸でいる必要があるという思い込みが作られてしまうのです。

こうしたことが世代を越えて、この世界にずっと引き継がれてきてしまったのです。私たち一人ひとりが、心の中にこうした条件付けを自ら植えつけてしまったことを認識する必要があるのです。

そして、甘い言葉を言って近寄ってくる人や、あなたを気持ちよくさせてくれる人を相手にする代わりに、あなたが喜んでいるときにこそ、心の底から一緒に喜んでくれる人と共に生きることです。

全体を見る眼

幼いころというのは、とにかく無力で大人に100%依存しなくてはならない状態なので、その依存相手が自分にとって安全なのか危険なのかを見極める必要があるのです。

安全だと判断すれば、とりあえずそのまま安心していればいいし、危険な人だと判断すればできるだけ近寄らないような方策がとれるわけです。

どうにも困ってしまうのは、安全か危険かの判断ができない場合ですね。だから、子供は周りにいる人たちを、どちらかのグループに、強制的に仕分けしてしまうのです。

それが自分の親であろうと、先生であろうと友達であろうとです。けれども、人はそれほど単純な生き物ではありません。機嫌がよければやさしくしてくれるし、不機嫌なときは怒るかもしれないからです。

大人に成長すると、私たちはたとえ好きな人であっても、気に食わない部分を持っていることを知っているし、どれほど嫌いな人であっても優れたところを持っていることもあると分かってきます。

つまり、人を全体として見ることができるようになるのです。どこか相手の一部だけを切り取って評価するのは、得策ではないということに気づくわけですね。

ところが、幼いころの分類ルール(安全と危険)にいつまでも乗っ取られていると、そうした全体として人を見ることができなくなってしまうのです(これは、防衛機制の中の「分裂」と呼ばれるものです)。

そうすると、敬愛していた人のことを突然否定する気持ちになってしまったり、信じていたはずの人を急に信じられなくなったりと、いわゆる反転することが起きてきます。

つまり、どちらかの極端に振れてしまうわけです。また、現実に自分のことを徹底的に否定してくる人が現れると同時に、一方では自分を崇拝して褒め称えてくれる人が出てきたりするのです。

幼いころの「分裂」による見方が、そうした現実を起こすことになってしまうのです。その原動力は恐怖なので、否定する人たちも褒め称える人たちにも愛はありません。

成熟した心は、人に限らず何であろうと全体として捉えることができるのです。あなたの身に起きたどんなことであろうと、人生という全体枠でとらえることができれば、否定的な見方をせずに済むはずです。

全体を見る目を養うことで、多くの問題は問題ではなくなってしまうのです。

自我の正体を暴く

私たちの心の中に棲んでいる自我とは、まことに不思議なものですね。なぜなら、自我とは単なる思考の積み重ねによって出来上がったものだからです。

それなのに、それ自体の存続をかけて一生懸命戦っているのですから。自我にとって、最大の武器は死の恐怖です。もしも、死に対する恐怖がなければ自我は崩壊してしまうはずです。

そのことを説明したいと思います。通常私たちは、死ぬ可能性が高くなればなるほど、それだけ危険を感じるのですが、それが死の恐怖からきていることは明白ですね。

死が怖くなければ、危険などという概念すらなくなってしまうからです。死んだあとには、何の恐怖も感じるはずもないのに、死ぬことが怖いというのは実は不思議な現象だと思いませんか?

それはともかくとして、実は私たちは危険を察知しているときほど、自分の存在をはっきり意識しているのです。確かに自分はいる、その自分の命が危ないと感じれば、当然自分へと意識が向くのです。

それは、そのまま自分が存在するということの証明になると自我は思っているのです。守るべき自分がいるからこその恐怖心だというわけです。

だからこそ、自我を存続させるためには、死への恐怖が絶対的に必要なわけなのです。そして、死を恐れるからこそ自分を防衛しようとするのです。それが自己防衛ですね。

ということは、自我の存続のためには決して自己防衛をやめてはならないということになります。つまり、自我がユートピアを求めることは決してないということです。

自我は、そもそも周りが危険だから自己防衛するのだというように吹き込みますが、実は自我そのものの存続のためにのみ、自己防衛をし続けているということです。自我はそのことをひた隠しにしています。

だから、人類から戦争がなくならないのです。これは、自我の宿命であり、恐怖こそが自我の原動力であるということに気づくべきなのです。

自我は思考を使い、一瞬の安心が得られるということを餌にして、常に私たちを自己防衛の中へと引き込み続けるのです。それが、心の平安からは程遠い苦悩の人生へといざなうのです。

あなたの本質は自我ではありません。自我の正体が暴かれれば、自我は消えていく運命にあるのですが、その時自我の正体を暴こうとするあなたもきっと消えていくはずです。なぜなら、それも自我の一部だからです。

自我の消滅

osho の言葉に次のようなものがあります。

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あなたが長い間自分を見つめると、

いわゆる自我は消えてしまう。

それは惨めさからの本当の自由だろう。

愛は残るだろう-それは誰か他の人に向けたものでもなく、

自分に向けたものでもない。

愛は誰かに向けるものではない、

なぜならば、向ける対象はないからだ。

愛がそこにある時、何かに向けられていない時、大きな至福がある。

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瞑想するときに、単に無念無想になるのではなく、ひたすら自分を見つめてみるのです。そうすると、深いところで自我と触れ合う瞬間、とても居心地の悪い感じがします。

それは、自我が自分の正体がばれてしまうことを恐れるからです。自我の根っこをつかもうとすれば、それはするりと身をかわそうとします。

結局、自我の正体とは思考であるために、実体がないということに気づいてしまうということです。幻想を生かしておく唯一の方法とは、それをしっかり見ないでいるということに尽きるのです。

自我が消えるまでもなく、薄くなっていくだけで自我が抱え込んで決して見せようとしない自分の惨めさも、小さくなっていってしまうのです。

自我が消えてしまったとしても、愛はただそこに在り続けるのです。というより、雲が消え失せたときに自動的に青空が現れるのと同じように、自我が消えてしまえば瞬時に愛が顕われるということです。

その愛とは、対象物を持つこの世界の愛情のようなものではありません。愛は、一人称のことを言うのです。つまり、「不二」ということです。

それは、私たちが求めている幸福ではなく、永遠の至福のことでもあるのです。

退屈から逃げない その2

昨日のブログで、退屈は真実への大切な入口だということを書きました。けれども、私たちは一般的に退屈しているなんて勿体ない、もっと活動的に人生を生きるべし、と教えられて育ったのです。

誤解のないように、このことについてもう一度書こうと思います。何をするにも気だるくて、やる気が起きなくてじっとしていても、人は退屈してしまうはずです。

そんな怠惰な毎日を奨励しているわけでは決してありません。ここでの要点は、ただ退屈から逃げないという、その一点なのです。

自分の気持ちに正直に、日々を活動的に生きることはすばらしいことです。他人から見ると、とても忙しそうに見えたとしても、心が充実していればいいのです。

過去と未来へと思考により流されてしまう代わりに、今この瞬間にできるだけのエネルギーを向けていられるのなら、それは本当に満たされるはずです。

そこには、退屈という恐怖から逃れようとする要素はないはずです。人間のタイプによって、より動的な活動的な人と、その逆により静的な人がいるものです。

したがって、その人の人生がどのように他人の眼に映ろうが、大切なことは退屈から逃げようとすれば、真実への気づきは延期されるだろうということなのです。

何かに一生懸命取り組んでいるとき、私たちは防衛という思考からしばし離れることができるのですが、残念ながらそれは一過性のものに過ぎません。

何もすることがなくなって、手持無沙汰がやってきたときには、その退屈から逃れようとして誰かにメールをしたり、テレビを見たり、本を読んだり、出かけたりして時間を潰そうとするのです。

ときには、特別する必要があるわけでもないと思えたときに、何をするでもなくその退屈の中に自ら入って行ってみて下さい。何ともイライラしだすかもしれません。

その時にチャンスがやってきます。イライラするのは、思考の中にしか活躍の舞台のない自我が刺激を欲して右往左往している瞬間なのです。

退屈だ~と叫んでいる張本人を見つけてみようとすることです。そして、そこには本当は何者もいなかったということに気づくはずなのです。自我とは、所詮そういうものなのですから。

退屈から逃げない

以前から右足首をブラブラさせて、いわゆる貧乏ゆすりをするクセがあるのですが、どういう時にそれが起きるのかは、自分なりに分かっています。

理由は二つです。一つは、何かにイライラしている時です。二つ目は、退屈している時です。最近では、二つ目の理由が多いような気がしています。

独りでいて、じっとしているときとかに気が付くとよくやっていることなので、別にイライラしているわけではなくて、ただただ退屈しているのです。

みなさんは、毎日どれくらい退屈を感じながら過ごしているでしょうか?以前、会社員だった頃に、テンプスタッフとして働いていただいていたセクレタリーの方がよく愚痴っていました。

彼女いわく、「やることがないのが一番つらいのよね~」。つまり、暇で退屈しているのが何より辛いということなのですね。退屈がいかに嫌な状態なのかは、みなさんもよく分かっていることと思います。

動物は退屈するということがありません。退屈は、人間だけが感じるものです。なぜなら、退屈を感じているのは自我だからです。人間だけが持つ自我は、退屈が大嫌いなのです。

もしも、あなたが日ごろほとんど退屈を感じることがないとしたら、それは幸運なことでしょうか?実は退屈などしないという自覚がある人は、自分で退屈しないように仕向けているのです。

退屈が自我にとって拷問に近いようなことだからです。気が付くと、いつも忙しく動き回っている人、常に何か考え事をしている人がいますが、そうやって退屈から無意識的に逃れようとしているのです。

それに反して、わざわざ退屈の中に入っていこうとする人たちもいます。それは、瞑想しようとする人たちです。瞑想とは、徹底的に退屈から逃げない一つの方法なのです。

私自身、自分に意識を向けているときには、決して貧乏ゆすりをすることはないのです。理由は簡単、貧乏ゆすりは何とか退屈から逃れようとする行為であり、意識的になっているときには退屈をそのまま感じているからです。

退屈は自我が存続するための作戦であり、退屈という苦痛から逃れようとして何かをし出すことで真実から目を背けさそうとしているのです。

退屈は本当につらいのですが、裏を返せば、そこにこそ真実への気づきが隠されているのです。退屈を十分に受け止めましょう。

退屈の苦痛が消えていくとき、自我としての自分の姿も怪しくなって次第に薄れていくのです。その先に、いわゆる至福が待っていてくれるのですね。

極端は極端を生む

人の心というものは、決して一枚岩ではありません。大抵は、相反する主張があって互いに対立していたりするものです。右がいいというものがいれば、左だと主張するのです。

好きという思いがあれば、その影で嫌いという気持ちがあるのです。ただし、一方は心の奥に隠されてしまって片方だけしか自覚していないということが多いのも事実です。

だからこそ、気づいていただこうとしてこんなブログを書いているわけですが、そんなことは分かっていると思いつつも、実はすぐにこうしたことは忘れてしまいがちなのです。

そうして、都合のいい自分の側ばかりを優先して使おうとするのです。人に好かれる性格の部分を全面に出して、逆の部分は抑圧されてしまうということがあるのはそのためです。

元々物静かで大人しい子供であっても、その奥にはその反対に活発な部分だってあるのです。そして、人が人生を清々しく生きるためには、適度に相反する両方の自分を使ってあげる必要があるのです。

仕事に行って頑張りたいという気持ちがあれば、必ずその逆の行きたくないという思いも持っているのですから、たまには仕事を休んであげるということでバランスが取れるのです。

ところが、私たちは幼いころからすでに、そうしたバランスを欠いた生き方をするように仕向けられてしまうのです。なぜなら、親の期待に応えようとするからです。

親や社会が自分に望むような自分になろうとして、心のバランスを失ってしまうことが多いのです。敏感で素直な子供ほど、そうした傾向が強くなってしまいます。

そうして、あまりにも極端に走ってしまえば、もう片方が極端に抑圧されることになってしまうのです。それが限界を迎えると、一瞬にしてもう片方の極端へと移行してしまいます。

それが、鬱症状であり、場合によっては極端な形の問題行動として起きてきます。鬱症状になれば、人は身体が動かなくなり、心は無気力状態となり、すぐにそれと自覚できるはずです。頑張るの反対は頑張らないだからです。

反対に自覚できないのが問題行動です。問題行動は、鬱症状のようには明確ではありません。特に身体の症状として表面化させるものについては、単なる身体の不調、あるいは病気という判断をしてしまいがちです。

自分の心や体に関して、不自由さがつきまとうなら、それは問題行動です。それは、何等かの理由であなたが一方の極端を続けてきた結果だと理解することです。

「惨めさ」を正面から見る

セッションでもこのブログでも、今までに何度も繰り返しお伝えしてきていることですが、癒しにおけるキーワードは自分の「惨めさ」です。

それは、誰もが惨めな自分を心の奥に密かに隠し持っているからです。それと同時に、それは最も見たくない自分、決して認めたくない自分の姿でもあるのです。

だからこそ、その惨めな思いをひた隠しにしておいて、自分は決して惨めな奴なんかじゃないということを証明しようとして躍起になっているのが人生なのです。

その思いが強ければ強いほど、その努力と頑張りは涙ぐましいものになるのです。そして、残念なことにその目論見はいつか必ず失敗してしまいます。

なぜなら、心の奥に隠したものは何であろうと、現実の体験として遭遇することになるからです。つまり、自分の惨めさを思い知らされる事態が起きてくるということです。

そもそもなぜ誰もが惨めだという思いを持ってしまうのか?それは、自我の発生と共に自分がこの世界から分離したちっぽけな無力な存在だという思い込みが起きるからです。

そしてその時、誰よりも自分を守ってくれると信じていたい両親からも、残念ながら自分を守らねばならないということに気づいてしまうからです。

それがどれだけショックで、どれほど惨めなことか。私たちの大多数はそのことをすっかり忘れてしまっています。両親の想いと、子供の意志とはいつも異なるのです。

子供は、自分の思う通りに生きることが次第にできなくなっていき、そのことも自分の惨めさを更に積み重ねる結果となってしまうのです。

自分は惨めではないということの証明をしようとすれば、必ず過去と未来へと意識が向くようになってしまいます。それこそが、不幸の根源であることは昨日のブログでも書きました。

ずっと隠してきた「自分は惨めなやつ」という悲惨な思いと感情を正面から受け止めることです。逃げずに見ることができれば、それだけ投影されて現実となることも少なくなるのです。

「惨めさ」、それはただの思い込みであり、その大元となるこの世界からの分離というもう一つの思い込みと共に、それらが真実ではないということを理解する必要があるのです。