「不幸」のありかに気づくこと

私たちの「不幸」はどこからやってくるのでしょうか?それは、とてもシンプルです。自分の願いが叶わなければ、自分の欲求が満たされなければ、私たちは不幸を感じるのです。

また、たまたま自分の思い通りのことが起きたとしても、その時は喜べるのですが、次は思い通りにはならないだろうことを知っています。

だから、せっかく願いが叶ったと思っていても、心のどこかでは未来に満たされない事態がやってくることを想定してしまっているので、100%の心で喜ぶことなどできないのです。

何から何まで、いつも願望が叶う人生など決してあり得ないということを、誰もが熟知しているのです。ということは、私たちの不幸は確定しているようなものです。

つまり、願望や欲求があればあるほど、不幸はそれだけ大きく自分にのしかかってくるということです。私は、癒しても癒しても、不幸がなくならないことを身を持って体験しました。

セッションでやっている心理療法というのは、何か特定の問題が生じているときに、その原因を過去に探って、苦しみをできるだけ緩和することが目的です。

そして、目の前の不具合が解消されていけばいくほど、今度は逆に「不幸」である自分の心に気づいていってしまうというジレンマがあるのです。

なぜなら、私たちは心を癒して行ったところで、自分が持っている願望や欲求を手放すことなど、到底できないからです。

この一見どうしようもない「不幸」から脱出するためには、たった一つの方法しかありません。それは、願望や欲求が生き延びる過去と未来に意識を向けないということ。

私たちは、過去に体験した快楽を未来に失いたくないという欲求を持っているし、未来に対しては今よりも苦しみたくないという願望を持っているのです。

こうした思考に乗っ取られたら最後、必ず不幸がやってきます。けれども、過去でも未来でもないたった今、この瞬間に意識を向けていられるなら、どこにも不幸はありません。

不幸のありかである過去と未来は、現実ではありません。現実にたった今起きていることをただ見ているとき、そこには決して不幸が入る隙間はないのです。

「しなやか」であること

人生には、いろいろな事が起きますね。自分が能動的に動こうとして起きてくる様々なこともありますが、自分は殊更何もしようとしなくても、起きることがやはり起きてしまいます。

誰でも自分に都合のいいことがたくさん起きて欲しいと願っていますが、それも必ずどこかの時点で期待は裏切られたりするものです。

予期せぬ出来事に揉まれながら人生が続いていくのです。それは、たとえば海面に浮かんでいる瓦礫のようなものかもしれません。

瓦礫は、潮の流れに乗って水平方向へと流されながらも、同時に絶えず波に弄ばされながら上下運動を繰り返しています。

けれども、瓦礫と私たちが根本的に異なるのは、私たちは常に一喜一憂しながら毎日を送っているということです。時には、潮の流れに逆らって一か所に留まろうとしたりします。

自分に都合のいい波がやってくると悦び、いやな波に襲われれば逃げようとして苦しむのです。都合のいい波が沢山やってくる人生を幸福な人生だと思い込んでもいるのです。

だからこそ、いずれはやってくるいやな波によって、不満を感じるのです。一つひとつの波の好き嫌いは当然あっていいのですが、人生を全体として見てそれを信頼することができたら、波を見る目は俄然変わってきます。

トータルで見ると、真に都合の悪い波などというものがなくなってしまうからです。大いなる意志に誘われている自分の人生に信頼を寄せることです。

激しく波にもまれているときには、なかなかそうは思えないものですが、それも人智を超えた何かに揺られていると感じることができれば、どの波も必要なものだったと分かるのです。

あなたの心を頑なにしているものは、生きることの恐怖です。絶対的な信頼の欠如なのです。自分の身は自分で守らねばという涙ぐましい努力をやめられないのは、そのためなのですね。

どこに流されていこうが、どんな波にもみくちゃにされようが、人生をトータルで見渡すことができたら、根っこの微動だにしないでいる、自分の本質が見えてくるものです。

硬直化せずに、抵抗せずにいればいるほど、それを直接体験することができるはずです。しなやかで柔軟な心でいることで、どんな波もお友達にしてしまえばいいのです。

この世界に遍在する全体性

普段私たちは、あまりにも当然のこととして気にもしていないことがあるのですが、それは自分は一体全体どこにいるのか?ということです。

そのことを一度でも追及したことがある人なら分かるはずですが、本当はそのことを知らないのです。誰も、自分がどこにいるのかを特定できないのです。

逆に言えば、そのことに気づきたくないので、知っているふりをして生活しているのです。自分がどこにいるか分からないということが、それほど都合が悪いことなのですね。

何となくぼんやりと、自分とはこの身体に違いないと感じているために、もうそのことには一切触れないようにして生きているのですが、でも自分は身体そのものだとは思っていない人も沢山いるはず。

それなら、自分はこの身体の中に入っているのか、それとも身体の外にいるのか、あるいは身体から離れたどこかの場所にいるのか、それくらいは見つめてみてもいいはずです。

そうすると誰もが自分の正体を肉眼では見ることができないという、あまりにも不自然とも言える事実にすぐに直面してしまいます。

どれほど不自然だとしても、それ以上追及しないのが普通です。ここの当たりに、もうすでに真実がその姿を露呈しているのですが、多くの人はここを見過ごしてしまうのです。

けれども、ただ逃げないでいるだけで、自分をどこにも見つけることができないという事実に気づいてしまいます。気づきとは、これほど単純でシンプルなことなのです。

あなたが、この世界のどこにも自分を見つけることができないということは、例えていえばあなたが寝ている間に夢を見ているとして、その夢の中に自分が登場するはずですね。

その夢の中の登場人物である自分が、ふとしたきっかけで「これは夢だ」と気づいてしまったとしましょう。その時、その夢を眠りの中で創り出している本当の自分を見出すことができないはずです。

それと全く同じなのです。結局、本当の本当のあなたの正体とは、この世界を包含する実存なのです。この世界のどこにも遍在する全体性であるということです。

問題行動は心の叫び

私の知り合いの男性で、実家で家族と暮らしている間は、無類の劣等生だった人がいるのですが、彼は高校を卒業すると同時に上京して一人暮らしをしながら、予備校生として勉強し出したのです。

すると、あれよあれよという間に成績がトップになって、結局東大医学部と慶応医学部に合格してしまったのです。勿論、それはたまたま運が良かったということではなく、予備校の講師からこの成績ならどこの大学でも受かると太鼓判を押されていたということです。

彼は変わった人で、せっかく合格した大学を中退して独自の民間療法を立ち上げて、それを生業としている人でした。彼は、実家で暮らしているときにわざと勉強しなかったわけではありませんでした。

親兄弟や親せきなども全員が東大卒という頭のいい一族だったのですが、彼だけはいくら叱咤激励されても一向に成績がよくなることはなかったそうです。

その理由は、彼の話しを聞いてすぐに理解することができました。それはつまり、成績が悪いのは問題行動だったのです。成績が悪い子供の彼を周囲は否定し続けたのですね。

自分は勉強したくないという本音をあまり表現することなく、悶々としながらも表面的には一生懸命勉強していたのです。それが悪い結果を導いてしまったのです。

つまり、勉強は嫌いだからということを徹底的に表現することができていたら、きっと彼はたとえ勉強せずともかなり好成績を取ることも可能だったはずなのです。

けれども、自分を騙して勉強したために、自分の本当の気持ちを激しく抑圧してしまったために、影なる反抗勢力となって問題行動が起きてしまったということです。

上京して一人になったおかげで、彼にプレッシャーを与える家族がいなくなったおかげで、素の自分に戻れたのでしょう。だからこそ、彼本来の能力を思う存分出し切ることができたのです。

問題行動は、本人の自覚なく起きてしまうので、一番困ってしまうのは本人自身なのです。問題行動は、あらゆることに見受けられますが、基本的には親への訴えですので、反社会的であったり、それを知ったら親が心配したり悲しんだりするようなことでなければならないのです。

もしも、あなたがそうした類のことをやめられずにいるとしたら、間違いなく問題行動であると思っていいのです。問題行動は、自分の人生を棒に振らせることにもなりかねませんので、その原因となる親への不満、訴えたい気持ちをよく思い出して、それを全面的に味わって、受け入れていくことです。

そうやって、心の癒しが進んでいくことで、少しずつ問題行動は緩和されていくはずです。

バランスを取るためには… その2

昨日のブログでは、バランスを取ることの大切さとその方法について書きましたが、今日もそのことについて、別の事例を使って書いてみたいと思います。

スピリチュアルという言葉が流行って、もう随分と時が経ちますね。私たちは、誰が何と言おうとこの身体と共にこの生を生きているはずなのに、そのことを軽んじてスピリチュアルな生に傾く傾向があるようです。

本当は、フィジカルとスピリチュアルがともにバランスよく意識されていることが自然であり、最も生を満喫できる最善の方法なのですが、どうも片方に偏重ぎみなのです。

高度成長期には、たくさん働いてたくさんお金を稼いで、欲しいものを買って、夢のマイホームを建てて…、その先に幸せが待っているという期待で生きていたかもしれません。

そうしたある種の物欲合理主義が行き詰った末に、今度は精神的な面にこそ価値があるとして、スピリチュアルな人間がより高貴なのだとばかりに、変わってしまったのだと思うのです。

けれども、それは片方に挫折したので、もう片方へとターゲットが移っただけで、結局はバランスが取れていない状態は何も変わってはいないのです。

このブログで繰り返し書いている、私たちの本質に気づくことは、けっしてスピリチュアルなことではありません。本当の私たちの姿とは、心のことでも精神のことでもないからです。

物質的なものと精神的なものは、この世界での現象に過ぎません。したがってどちらかに重きを置くのではなくて、その両方をバランスよく生きることこそが、生を満喫することに繋がるのです。

そのバランスを取る最前の方法こそが、自分の本質に気づくことなのです。それは、決してスピリチュアルなことではありません。勘違いしないことです。

物質的なものと精神的なものの双方を丸ごと受容している自分の本質に気づくことは、何にも代えがたい本当の人生の目的なのだと思います。

バランスを取るためには…

今日もバランスの話しをします。勿論、バランスを欠くといろいろ厄介なことの多い人生になってしまうということです。この世界は二元性でできています。

右があれば左があり、上があれば下があるという具合です。片方だけということは絶対にありません。それが、この世界の鉄則です。

もしも、疑うのでしたらとことん例外がないか捜してみて下さい。決して見つからないはずです。で、話しを元に戻すと、その二元性の中で上手にバランスを取ることがとても大切なのです。

例えば、私たちの心の中には、純粋で正直な幼い子供のような部分と、理知的で分別のあるルールを重んじる大人のような部分とがあります。

これも一つ対のようにして存在しているものです。そのどちらか一方に偏った生活をしてしまえばどういうことになるか、はっきりしています。

前者ばかりを優先させれば、いつまでも野生児のような社会不適合者となってしまうでしょうし、後者ばかりを優先すれば、あまりにも生真面目でルールばかりを重んじるつまらない人になってしまうでしょう。

そして、特に後者の場合、前者の部分、つまりもっとも自分らしい素直な部分が犠牲を強いられてしまうために、病気になったりストレス過多になって、必ず具合が悪くなるはずです。

そうして、いつかは必ず自己犠牲のかたきをとるかのように、大爆発が起こり、それがひどい鬱状態を作り出したり、激しく感情が噴出するといったことになってしまうのです。

バランスを上手に取るためには、心の中にいつもバランスを見ている存在がいなければなりません。それは、放っておいてできるものではないため、意識的に作る必要があるのです。

その役割を担うのが、昨日もお話しした「見る」という立場です。自分の心の在り様をいつも見ること、心の声にいつも耳を傾けて聞いてあげること。

そして、それこそがあらゆるものを受け止めるということに繋がるのです。見る立場になるためには、思考から抜けている必要があることも付け加えておきます。

なぜなら、思考を使って見てしまえば、そこには必ず裁くという作業が発生してしまうからです。それでは、見られる側に逆戻りしてしまいます。

あなたの心の中をいつも見る(観照する)意識を作ってあげることです。今この瞬間も、つまりこのブログを読んでいる自分と何かしらの反応をしている自分を見ていることです。

現在を満喫する

私たちは、絶え間なく思考を活動させていることに普段あまり気づいていません。なぜなら、そのことに気づいた瞬間には、そこからは抜け出せているからです。

それを明示的に行うのが瞑想ということですね。瞑想を奨励する人が多いですが、それは思考の罠からなるべく抜け出すためなのです。

思考は、実は現在にはいることができません。というよりも、思考は過去と未来を作り出す張本人なのです。実は、過去も未来も現実にはありません。

「過去とは過ぎ去った現在であり、未来とはこれからくる現在のこと。」これは、osho(あるいは老子)の言葉ですが、非常に的を得た表現ですね。

つまり、私たちが現実の世界で生きているのは常に現在(今)でしか在り得ず、過ぎ去った現在やこれからくる現在を疑似的に体験させるのが思考なのです。

この思考が作る疑似体験の要素には、愛は入っていくことができないのです。なぜなら、愛は現実体験であって妄想の中にはないからです。

思考が作る疑似体験は、シンプルに表現してしまえば、恐怖がその原動力となっているのです。つまり、私たちが過去を追体験しているとき、その主な目的とは恐怖からの逃亡、自己防衛であるということです。

簡単に言えば、思考は恐怖と一体であり、無思考は愛であるということです。純粋な愛を感情と勘違いしていることが多いのですが、愛は私たちの本質の別名に過ぎません。

エゴが繰り出す思考に巻き込まれてしまっていると、現在(今)という唯一実体験できる大切なものを見失ってしまうことになるのです。

それでは十分に生を生きていることにはなりません。そうならないために、無防備に生を楽しむために、なるべく無理のない方法を実践することです。

その一つが、瞑想ということになるのですが、忙しいあなたのために、毎日一定の時間瞑想する気になれないあなたのために、より簡単でいつでもできる方法をお伝えします。

それは、思考を観察しようとする態度です。思考に巻き込まれてしまうと、過去と未来へと流れていってしまうので、その思考を見る立場にいるようにするのです。

そうすると、思考を止めようとせずとも、思考は自然と緩んできて現在を生きる邪魔をしなくなります。そうやって、思考に巻き込まれなければ、現在という生を十分に満喫することができるのです。

今日はお休みします

今日は参りました。どうしてもネットが繋がらなくて、こんなのは初めてです。で、仕方ないので、ケータイから書いてアップしようと思ったのですが、タイプするのがシンドイので、このブログお休みします。

こういう日がたまにはあってもいいのかなと…。

気が向いたら今日中に再度アップするかもしれませんので、チェックしてみてくださいね。

自分を不幸に導く信念、信条

もしもあなたが、自分の人生はいつも不自由で生きづらい、頑張っても結果が出ず、努力しても逆効果のように益々辛くなってしまうと感じているのでしたら、その原因は一つしかありません。

それは、あなたが正しいと思って信じている、あなたの信念や信条に根本的な原因が潜んでいるということです。一見すると、周りの環境や誰かのせいにしたくもなるものです。

あるいは、自分には運がない、天に見放された人生なのだとか、自分の性格が悪い、自分はもっと努力できるはずなのにそれをさぼってやらないから、苦しい結果になるのだと考えているかもしれません。

私たちは、恐怖や不安から身を守りたくて、独自の正しさで身を固めるのですが、その鎧こそが不幸の権化であることには決して気づこうとしないのです。

なぜなら、それを頼りに生き抜いてきたのですから、これからもそれを信じて生きていく以外方法がないと思い込んでいるのです。

本当は、薄々気づいてはいるのですが、もしもはっきりと気づいてしまうと大変な恐怖感と戦わなくてはならなくなってしまうことを知っているので、分からないふりをしているのです。

でも安心して下さい。恐怖はあるかもしれませんが、それは一時的なものに過ぎません。少しずつ実績を作っていくことで、それほど無理しなくても、それまで縛られていた不要な思い込みから解放されていくはずです。

実績とは、握りしめていた信念、信条、自分の正しさに違反した生活を送った際に、自分が想定していたような恐ろしい結果には決してならないことに気づいていくということです。

あなたの思い込みは、幼いころの実体験や、親からの刷り込みでしかありません。すべては過去からやってくる実態のないものにコントロールされているということです。

あなたが大事にしている、あるいは日ごろ意識している信念、信条をリストアップしてみるのです。そして、それがどうして自分の心の中にしっかり根付いているのかも、解明することです。

さらに、その考え方は本当に自分を満ち足りた人生へ誘ってくれるものなのかどうか、よくよく見極めることです。これは、それほど難しいことではありません。

時間はたっぷりありますので、ゆっくりと時間をかけて、一つひとつ検証してみることですね。もしも、独りではやりにくいということでしたら、セラピストの力を借りることも一つの選択だと思います。

一方の極端は他方の極端に移行する

この写真は、スポーツクラブから事務所に戻る途中に、車中から信号待ちをしている隙にシャッターを押したものです。違法とか、そういうのを度外視して危険でした。

走るたびに、左右に揺れるのを見ながらでしたので、車間距離を取って走ったのですが、歩道を歩いている人も驚いて過ぎ去るのを見送っていたくらいです。

きっと、解体業者が建物を解体した後に出るがれきを二度手間になるのを嫌がって、無理やり積んで一度で処理しようとした結果なんでしょうが、あまりに極端過ぎますね。

よく見ていただければある程度分かりますが、トラックの荷台の高さの三倍以上は積んでますね。何事も極端に走ると、いいことはありません。

物事は何であれ、一方の側へ極端に寄ってしまうと、必ずあっという間にもう一方の極端の側へと持っていかれてしまうのです。このトラックであれば、極端に積めばいつかは崩れてしまうことが起きるはずです。

こうしたことは、私たちの生き方にも当てはまるものです。たとえば、根を上げずに頑張って、それが極端までいけば、いつか必ずその反対に身体が動かなくさせられてしまいます。それが、鬱症状ですね。

人に嫌われないようにと極端に頑張ると、どこかで本当の気持ちが爆発してしまうことだってあるでしょう。それはまるで、手の長~いやじろうべいが、左右に大きく揺れてしまうことに似ています。

ただし、極端な生き方でたった一つだけプラスになることがあるのです。それは、真反対の極地へと持っていかれたときに、大切なことへの気づきがやってきてくれるのです。

それでも、その気づきを得るための痛手は相当なものになるでしょうから、お勧めは決していたしません。セッションでの癒しは、そういう野蛮なことをせずに気づきを得るためのものですので、勿論そちらをお勧めします。