退屈から逃げない

以前から右足首をブラブラさせて、いわゆる貧乏ゆすりをするクセがあるのですが、どういう時にそれが起きるのかは、自分なりに分かっています。

理由は二つです。一つは、何かにイライラしている時です。二つ目は、退屈している時です。最近では、二つ目の理由が多いような気がしています。

独りでいて、じっとしているときとかに気が付くとよくやっていることなので、別にイライラしているわけではなくて、ただただ退屈しているのです。

みなさんは、毎日どれくらい退屈を感じながら過ごしているでしょうか?以前、会社員だった頃に、テンプスタッフとして働いていただいていたセクレタリーの方がよく愚痴っていました。

彼女いわく、「やることがないのが一番つらいのよね~」。つまり、暇で退屈しているのが何より辛いということなのですね。退屈がいかに嫌な状態なのかは、みなさんもよく分かっていることと思います。

動物は退屈するということがありません。退屈は、人間だけが感じるものです。なぜなら、退屈を感じているのは自我だからです。人間だけが持つ自我は、退屈が大嫌いなのです。

もしも、あなたが日ごろほとんど退屈を感じることがないとしたら、それは幸運なことでしょうか?実は退屈などしないという自覚がある人は、自分で退屈しないように仕向けているのです。

退屈が自我にとって拷問に近いようなことだからです。気が付くと、いつも忙しく動き回っている人、常に何か考え事をしている人がいますが、そうやって退屈から無意識的に逃れようとしているのです。

それに反して、わざわざ退屈の中に入っていこうとする人たちもいます。それは、瞑想しようとする人たちです。瞑想とは、徹底的に退屈から逃げない一つの方法なのです。

私自身、自分に意識を向けているときには、決して貧乏ゆすりをすることはないのです。理由は簡単、貧乏ゆすりは何とか退屈から逃れようとする行為であり、意識的になっているときには退屈をそのまま感じているからです。

退屈は自我が存続するための作戦であり、退屈という苦痛から逃れようとして何かをし出すことで真実から目を背けさそうとしているのです。

退屈は本当につらいのですが、裏を返せば、そこにこそ真実への気づきが隠されているのです。退屈を十分に受け止めましょう。

退屈の苦痛が消えていくとき、自我としての自分の姿も怪しくなって次第に薄れていくのです。その先に、いわゆる至福が待っていてくれるのですね。

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