体験があるだけで体験者はいない

私は以前、数時間程度の短い時間でしたが、完全にこれまでこれが自分だと思っていた自分が不在になったことがありました。

戻ってきたときに、私(というエゴ)は、自分はすごい体験をした!と思ったのです。でもしばらくして、不在であった自分が体験しているわけはないと気づいたのです。

つまり、体験は記憶として残っているのですが、それをエゴは私が体験したというようにすり替えてしまうということに気づいたのです。

そしてそうしたすり替えは、生きている限り日常的に続けているのですね。目を覚ました私、食事している私、歩いている私、怒っている私、旅行に行った私等々。

そうやってエゴは肥大してきたというわけです。けれども、冷静に見つめてみれば分かることですが、私が体験したというのは事実ではなく、思考だということです。

思考によって思い込むことはできるのですが、いないものが体験者となるということは不可能なことですね。エゴにとってはとても受け入れがたいことですが…。

ブッダが2500年も前に言っていたとされる、「行為はあるが行為者はいない」というのは、まさにこのことだったのですね。

私からあらゆる体験を引き算したとき、後に残るのは一体何でしょうか?それが私たちの本性ということだと思うのです。

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