孤独を味方にする

人間は独りであるということ。正確に言うと、自我は独りであるということ。人間以外の動物には自我がないので、独りではありません。

勿論動物であっても寂しい感覚というのはあるのですが、自我が持っているような孤独感はありません。

自我はどこまで行っても孤独なのです。個人だからですね。このことを嫌がらずに深く見つめて認めること。

ひとたびあなたが独りで生きることの覚悟を持ったなら、そのときには何かが変わることになるはずです。

所詮は独りなので、必要なのは覚悟と受容だけ。もしもあなたがどんな理由もなく、自分の単純な存在を楽しむ方法を会得したら、人生は変わるでしょうね。

孤独を味方につけることができたなら、他のあらゆる依存がすべて落ちていくはずです。

依存のない人生を生きる気持ちよさは、一度味わったら二度と手放すことはできなくなってしまうはずです。

自我の解体は最大の恐怖

12〜13歳の頃から人間には潜在意識というものがあって、自分では自覚できない内面の領域があると知って、すごく興味深く感じたのを覚えています。

潜在意識という言葉の響きも何となく魅力的だったし、とにかく自分は自分のことを全部分かっていると思い込んでいたので、潜在意識の存在はショックでもありました。

今になって思うに、潜在意識という言葉は正確ではなくて、要するに自覚できずにいる潜伏しているマインドの部分ということですね。

意識という言葉の意味を正確に掴んでいない誰かさんが、そんな名前をつけてしまったのだと思うのですが、意識ではなくてあくまでもマインドのことです。

結局この潜伏しているマインドの部分と自覚できているマインドの部分とがあって、それぞれが互いのことを知らずに勝手なことを考えているのです。

この分離こそが人間を不幸にさせているし、その一方でそれがあるからこそ自我は生きながらえているのです。

自我はこの部分を見られたら解体してしまうという場所を密かに日の当たらない地下室に隠しているのです。

そしてそこを見ようとすると、最大の恐怖を感じるようにマインドの仕組みを作ったのです。

だからもしもあなたがその恐怖にめげずに、マインドの全部に光を当てて見てしまえば、自我は消えて即座に覚醒することになるのです。

今地球上にいる人の誰もがその恐怖に負けて何千回何万回と生まれ変わってきたのですね。自我の防衛は凄まじいものがありますね。

今回も負けちゃうのかな。

一番不要なのは自我

これを書いている日のお昼前の出来事です。いつものようにスポーツクラブから事務所に向かうクルマの中で、なんの理由もないのに急に満たされた気持ちになったのです。

筋トレをしてサウナで汗を流して、それなりに気持ちいい状態で運転しているのですが、それは毎日のことなのでそれが原因ではないと思うのです。

ただいつもは前後にクルマがいるのに、その時だけなぜかどこにもクルマが見えない状態になったのを覚えています。

で周りが静かになった感じがして、これ以外にどんなものを期待できるだろうという気持ちになって、ああ満たされていると分かったのです。

あの感覚は以前にも何度か経験したことがあるのですが、ふいに自我が活動を停止している状態になるのかもしれないですね。

そうなると、すべてが満たされていて自分は何もする必要がなくて、ただそのままに在るだけでOKというのが分かるのです。

あの感覚は、いつも混んでいる交差点に差し掛かったときに終わってしまったので、きっと数十秒程度の短い間のことだったのだと。

これが自分だと思い込んでいる自我が何かの拍子にその働きを停止してしまうと、きっと誰もが似たような感覚になるのだろうと思うのです。

この世界で一番不要なのはこの私(自我)なんですね。残念ですが、もう疑いようのない事実です。

鏡のような眼

鬼束ちひろさんの月光という昔のヒット曲があるのですが、メロディが大好きなだけじゃなくて、出だしの歌詞も気になりますね。

『I am GOD’S CHILD(私は神の子)
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろというの?)
こんなもののために生まれたんじゃない』

自分は神の子なんだけど、こんな酷いところに産み落とされて、一体どうしろって言うの?冗談じゃない。的なことを訴えているようで。

人生が上手くいかなかったり、不自由で仕方なかったり、苦しみばかりがやってくるようなら、確かに神を恨みたくもなりますね。

私たちは嫌なことがあると、自分を恨むか他人を恨むかのどちらかになるのです。上の歌詞はどちらかというと、後者の方かもしれませんね。

けれども、人生がトラブル続きだったり、不自由で生きづらかったり、苦痛に喘ぐとしたら、それはどちらのせいでもありません。

それは自我のせいなのです。自我と自己を同一化したことによるのです。世界が腐敗したように見えるのは、自我の眼によるもの。

もしも自我の眼の代わりに、鏡のように目の前に来たものをただそのままに写す眼を持っていたなら、この世界に良いも悪いもないと気づくことになるでしょうね。

ただあるがままのあなた

私たちはいつも理想を追い求めているものですね。理想という言葉を使わずとも、本来あるべき姿のようなものを何に対しても無意識に持っているのです。

たとえば、理想の夫婦とはこうあるべき、理想の親とはこうあるべき、理想の人間とはこうあるべき等々。

嘘をつかない、人に優しい、寛大な心、勇気ある行動、愛に溢れた人、何となく無造作に挙げてみたのですが、こんな人が理想の人物像の一つかもしれません。

その反対に、理想からかけ離れた場合だってあるのですが、もしかしてこちらの方が挙げ出したらキリがないかもしれません。

で、最近よく考えることなのですが、理想的とかあるべき姿とかというのはただ自分や社会にとって都合がいいということではないかと。

自然の中にはあるべき姿もそうでないものもないなと思うのです。人間だけがそうした分離を生み出す張本人なのです。

何かと生きづらい人というのは確かにいて、でもそれは単にこの社会に適合していないというだけで、あるべき姿ではないとは言えないのではないかと。

社会の多数派とか社会における正しさを物差しにしてあらゆるものを裁くのをやめたなら、あるべき姿なんてものは最初からなかったと気づくはずなのです。

今あなたがただあなたのままで在ること、それ以外にはどんな価値も正しさもないと気づくなら、すべての問題は消えていくことでしょうね。

ブログタイトルの意味

このブログの題名である「癒しから覚醒へ」には、どんな意味があるのか?それを今一度確認しておきたいと思います。

私自身が自分で経験した実体験から言えば、マインドを癒していくことはこの複雑な社会で生きている人々にとっては必要不可欠だと思うのです。

誰もが大なり小なり心を病んでしまった状態で生きているからです。私たちがこれが自分だと思い込んでいる自我というのは、社会によって作られたのです。

だからどんな社会かによって、人々が病む平均値のようなものが変化するのです。仏陀が生きていたころは、きっともっともっと社会は単純だったはず。

だから誰もがちょっとの努力によって、深い瞑想に入っていくことができたのです。ところが現代人はそうはいきません。

社会の中で防衛しながら生きていくためには、必死で思考を働かせていなくてはならないのです。だから瞑想が苦手になってしまったわけです。

つまりは各々が充分に瞑想の中に入っていけるレベルになるまで、癒しの作業を継続して進めていく必要があるのです。

けれどもそれだけでは、満たされることもないと知ったのです。癒しというのはマインドを癒すことであって、マインドから解放されるわけではないからです。

マインドを相手にする癒しをどれほど進めて行ったところで、マインドはマインドのまま君臨するのです。

どこかでマインドを観る側になって、マインドとの距離を作り出す訓練が必要になるということ。それが覚醒への道なのです。

私たちはマインド(自我)から離れて、自分の本質に気づくことでしか、つまり覚醒することでしか真理を知ることはできないのです。

あなたがあなた自身に気づいたとき、死ぬことからも生まれることからも解放されることになるのでしょうね。

歪んだ眼を開眼する

拒食症の人が体重35kgくらいでガリガリになっていたとしても、鏡に写った自分の姿を見て、もっと痩せなければと思ったりするのです。

それは思い切り歪んだ心の眼を通して見ているからですね。心の眼というのは元々が歪んでいるのです。

そう言った現象を投影と呼んだりします。つまりマインドの強い想いのようなものを反映する形で外界を見てしまうということです。

要するにあるがままを見ていないのです。これは何も拒食症の人ばかりではなく、多かれ少なかれ誰もが必ずやってしまっていることなのです。

投影をしていない人はいません。自我は必ず投影するのです。投影は外側の世界に内面を映し出す現象なので、ひどく歪んだ世界を見ていることになります。

それと同じようにして、自分自身のことについても自我はあるがままを見ることができません。

たとえば他人の存在価値については気づいているのに、自分自身の存在価値には気づけないでいる人がたくさんいます。

他人がある行為をしたときに普通に許すことができるのに、自分がそれと同じことをしたときには決して許すことができないなども同じ理屈です。

長いことかけてでっち上げてきた自己イメージが否定的なものであると、人はそれに影響を受けて自分のことを正当に評価してあげることができなくなってしまうのです。

そうなると可哀想なのは本人ですね。外側に対して投影するにしても、自分自身に対して自己イメージを投影するにしても、私から言わせればあまりにも理不尽です。

一刻も早くその歪んだ眼を大きく開いて、ただあるがままをそのままに見ることができるようになってほしいと思いますね。

時空は思考の活躍場

時空は思考にとって必要不可欠なものだということに気付いている人は少ないかもしれません。

ちょっと分かりづらい話しかもしれませんが、結構大切なことなのでちょっと書いてみようと思います。

自我は思考の寄せ集めです。だから思考が働く環境がなければ、自我は存続することができないのです。

その思考が活動するために必要となるのが、時間と空間なのです。多くの人にとって時空は元々宇宙としてそこに実在するものだという認識なのです。

けれども、思考活動というのは移動するベースが必要なのです。その移動は、空間の中を移動する場合もあるし、時間の中(過去と未来)を移動する場合もあります。

そのどちらの移動要素もなくなってしまうと、思考(自我)は立ち往生してしまい、終焉を迎えることになるのです。

だから私たちはいつもあっちへ行ったりこっちへ来たり、過去へ戻ったり未来へ行ったりを繰り返すのです。

思考が落ちたとき、思考とともに時空も落ちることになるのです。瞑想する人は表現しなくてもこのことを体験しているのです。

そのとき、自分はどこへも移動できないことを知るのです。位置も大きさもないものは移動することが不可能だからです。

それが今この瞬間に在るということの気づきですね。

ハートは覚醒してる

「やみ」という字は、「闇」と書きます。門構えの中に音が閉じ込められているので、「やみ」というより静寂って感じがしませんか?

この論理でいくと、「やみ」という感じは門構えの中に「光」と書くべきだといつも密かに思っています。

こんなことをつらつら理屈っぽく考えているのが、私の自我の特徴ですね。そういう微妙な不条理を見つけるのが好きみたいです。

今年の12月に公開される映画「えんとつ町のプペル」の主題歌の中に、こんな一節があります。

「ハロウィンの夜にやってきた
体がゴミのゴミ人間
えんとつ町は大騒ぎ ひどいニオイさ
「臭い 臭い」と囃されて
キミは外にハジかれる
一人ぼっちのゴミ人間
だけどどうだ?

ゴミの体のその奥には
綺麗なハートがある
ごらん、体の汚れなんて洗えばこのとおり
見た目なんてどうだっていいのさ
キミはとても素敵」

身体はゴミで出来ているから臭くて仕方がないのだけれど、奥には綺麗なハートがあると言うわけです。

ここで勘違いしてはいけないのが、綺麗なハートがあるのはゴミ人間だけではなくて、どんな人間のハートだって綺麗だということです。

ハートは常に覚醒しているからです。それに対して、マインド(頭)だけが思考まみれになっているのです。

頭から抜け出してハートの中に落ちるとき、非二元の世界が突然姿を顕すことになるのですね。

なんてことを考えているのも私の自我の特徴かもしれません。