日頃お伝えしている非二元のことを別の切り口で見ると、次のような表現になったりもします。
普通は「私」が音を聞いている。でも実際には、音楽が流れている瞬間、「聞いている私」を探す暇がない。
映画に没入している時、主人公と観客の境界が薄れる。泣く場面では、「私は今、感情移入しています」とは普通考えない。気づけば、映画そのものになっている。
「私が呼吸している」と思っている。でも少し観察すると、奇妙なことに気づく。次の息を、誰が決めている?
寝ている間も呼吸は続く。つまり呼吸は、「私がしている行為」と言うより、世界が勝手に起こしている運動に近い。非二元は、人生全体がそうだったと気づく感じ。
波は「自分は独立した存在だ」と思うかもしれない。でも波をよく見ると、海から切り離された瞬間がない。生まれる前も消えた後も海。
波という「形」が一時的に見えているだけ。非二元では、「私」というものも、海面に立つ一瞬の模様に見える。
言語の癖として、「私が見る」、「私が考える」、「私が選ぶ」のように、言葉は全部、中心に「私」を置く構造になっている。
でも直接の経験を見ると、思考は勝手に現れ、感情も勝手に変化し、音も自然に聞こえ、景色もただ現れている。
「私」は文法の中心にはいるが、経験の中心には見つからない等々。このようにいくらでも非二元の事例を上げることができますね。参考になったらいいのですが。
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