個人としての自分を追い詰める

ゆっくりと時間が取れる人生になってきてくれたので、有り余る暇な時間を使ってじっくりと自分自身と向き合ってみようと。

まず自分が所有していると思うものを全て傍に置いて、残った丸裸の自分となって、それとしっかり対峙するのです。

膨大な記憶がフワフワと雲のように浮かんでいるけれど、それにも触れないようにするのです。もちろん思考についても同様にして、傍に置いておきます。

五感や身体感覚などが随時起きているのですが、それも自分のものではないとして、そのままにしておくのです。

つまり体験が途切れることなく、ずっと起きていることに気づいているままにしておくのです。

それでも自分はいるような感じがあるのですが、それが本当に個人としての自分なのかどうかを検討してみます。

すると、もうすでに個人であるという証拠がどこにも見当たらなくなっています。それでもいるように感じてしまうこの自分とは一体何なのか?

このように厳密に自己を追い詰めていくと、結果的には意識(気づき)だけが残っていることに気づきます。

これはなくならない。なぜなら、発生したことがないのだから消えることもできない。ただあり続けるのですね。

自分が気づいているのではなく、気づきだけがあるのです。それを自分と呼ぶのが相応しいのかどうかという問題だけなのかもしれません。

体験とは意識の中に現れる現象

非二元の説明の時にいつも言っている、体験だけがあるという場合の体験とは、無限の意識の中に現れる現象のことを指しています。

それは理由なくただ現れては消えて行くのであって、そこにはどんな原因も説明も不要ですし、理解もできません。

それが体験であって、実はそれ以外は一切合切がないのです。あるというのであれば、それは妄想でしかありません。

極端に聞こえるかもしれませんが、これが正直になった時の事実です。コレしかないというときのコレも同じものを指します。

思考の想像力というのはとにかく凄まじいものがありますね。私たちの毎日の生活は、それの上で動いているのですから。

それを外すことは一般的には不可能なことのように見えます。けれども思考の中身を見ずにいることができれば、直接の体験がそこには待っています。

それは自我の我々にとっては非常に味気ないものです。なぜなら、色や形、音、感触、痛み、そんなものしかないのですから。

しかももしかすると、そう言った現象すら本当はないのかもしれないですね。そこは究極的には意識だけが残るのですが、ここにはまだ光を当てられずにいます。

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意識の中で私という体験が起きている

私たちは常に自分ありきの考え方をしています。自分には、意識があって、考えることもできて、人生のあらゆる決断をする主体なんだと。

自分には心もあって、感情が出てくることもあるし、気分が揺れ動いてみたり、気持ちが高湯することもあるのです。

自分の身体からやってくる身体感覚や、五感を通してあらゆる外部の情報を取得しつつ、自分独自の体験をしているのだと。

けれども、これは事実のように感じているだけで、想像の類でしかありません。本当は、そうした「私」という体験が意識の中に起きているのです。

いつも言っているように、体験には二種類があって、一つは直接の体験であり、そこには誰もいないし、何もないのです。

もう一つの体験は、思考体験です。つまり、思考を駆使した物語の体験です。そして、そこにこそ「私」という自我としての体験があるのです。

私が意識を持っているのではなく、意識の中で私という体験が起きているのです。この両者の違いは決定的ですね。

このことが明確になると、非二元がなんなのかが分かる様になるはずです。

意識は照らす

「見つめるものは拡大する」という言葉があるのですが、これは誰もが大なり小なり経験していることだと思います。

どういうことかというと、ジ〜っと見つめるとそこがクローズアップされていくということ。これは意識の機能なのかもしれません。

意識がそこを照らすという言い方もできますね。つまり、集中するとその部分だけにスポットライトが当たるのだと。

だから、その部分が強調されて知覚されるわけです。これは自然なことなのかもしれませんが、その功罪があるという話です。

功罪の功の方は、そこをしっかり見たいわけですから、その部分だけが強調されれば都合がいいのです。

一方の罪の方ですが、例えば身体のどこかに痛みがあるような時に、そこが気になって常にそればかりを気にしてしまうと、痛みが拡大されてしまうのです。

身体に意識を向けてしまうと、身体が強調されることで自分は身体だという感覚がそれだけ強くなってしまうわけです。

そう考えると、自分は身体ではないという感覚を維持するためには、なるべく身体の健康を保っている方がいいようですね。

精神の健康についても全く同様のことが言えます。心身ともに健康なときほど、非二元の感覚に無理なく入っていけるとも言えますね。

AIは主観的体験(クオリア)を持つようになるか?

何か分からないことがあると、AIに聞いて教えてもらうということが、多くの人たちにとっての日常になりつつあります。

そして、AI相手に会話が弾んだりすると、端末の向こう側に誰かがいるんじゃないの?という気持ちにさせられたりもします。

でも誰もいないことは、百も承知しているわけです。今のところですが、AIに意識があるとは誰も思っていません。

けれども、そのうちすぐに本当に意識がないのか知りたいという日がやってくるはずです。その時、私たちはどうすればいいのか?

有名なものには、チューリングテストというのがあります。でもきっとどこまで行ったところで、主観的体験(クオリア)を持つのかどうかを判定する術はないと思いますね。

実のところ、このような話自体が物語の中の一つに過ぎないわけで、つまり非二元的に見ればAIなんてものもないのです。

だから、AIが自我を持つようになるのかどうかという問題自体が見当たらなくなってしまうのです。

非二元を前にすると、つまらないかもしれませんが、AIが人類を征服するようになろうが、宇宙人が襲来して来ようが構わないということですね。これ、最強です。

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「私」は心的活動のプロセス

我々が「私」だと思っているソレには、中心というものがありません。なぜなら、実体がないからですね。

それなのに、そもそもなぜ一塊りの存在のように感じることができるのか?ここが非常に悩ましいところです。

でもよく見つめてみると、ソレは何らかの仕組み、メカニズム、あるいは心的活動のプロセスと言えるかもしれません。

仕組みやプロセスであれば、実体がないのは当然です。何かの働きに過ぎないからです。私たちは自動車を一塊の存在と見ています。

もちろんボディがあるからですが、それにしてもそれ以上の何かを感じるのではないでしょうか?それが車の働きによるものです。

動くというプロセスが起き続けているだけなのですが、そこに何かがあるように感じてしまうわけですね。

けれども、ボディ以外の内部の複雑な部品を一つ一つ解いてバラバラにしたところで、そこには何も見つかりません。

それと全く同じなのでしょう。1人の人間としての機能が起き続けているだけで、それをバラバラに解体したところで、何も見つけられないのと同じです。

たまにですが、自分を一人のまとまった存在としていられるようにしようと、企てていることに気づくことがあります。

自我としては、そうした涙ぐましい努力を裏で行なっているということですね。そうでもしないと、崩壊の憂き目に遭うとも限らないからですね。

「個人性」の嘘を暴く

誤解を恐れずに、非常にシンプルに言ってしまえば、苦しみから解放されるためには、コレ一択しかありません。

それは、「個人性」の嘘を暴くということです。多くの人たちがより幸せになるためには?「ということばかりを考えているのです。

けれども、そこには大きな罠が転がっています。なぜなら、その幸せが一過性では困るということを忘れているからです。

一瞬の快楽、ひとときの幸せでは私たちは満足することはできません。その後にやってくるであろう苦しみを恐れているからです。

であるなら、幸せになるためには?という発想から、どうしたら苦しみから解放されるか?ということを考えるべきなのです。

かつてブッダが言っていた「生老病苦」という人生の苦しみからいかにして解き放たれるかを真剣に考えるべきなのです。

そしてその答えは、たった一つ。冒頭触れた「個人性」が幻想であったことを見抜くこと。これ以外にはありません。

何を手に入れても、どんな自分になれたとしても、そこに個人としての自分がいるのであれば、必ず苦しみはついてくるからです。

そして、私が知っている限りにおいて、この「個人性」は幻想に過ぎないと気づくための最善の方法は非二元に気づくことなのですね。

余計なものを足さない

二元から非二元へと移行するときにピンポイントで理解しておかなければならないことがあるのです。

それは、知覚や感覚というのは単にそれだけでしかないということ。ここが本当に肝になるところかもしれません。

私たちの一瞬一瞬の生活には、知覚や感覚が絶対的に必要です。けれども、多くの人にとってそれにそれ以上の意味を付加してしまっているのです。

それは、例えば視覚について見てみると、「何かが見えている」という視覚が起きているだけなのです。

ところが、そこにまったく異なる次元の事柄を追加してしまうのです。それは、「だからそこに何かが存在する」と。

つまり、「見えている=モノが存在する」という飛躍が起こるのです。「聞こえている=音が存在する」も同じことです。

身体感覚についても同様です。「頭痛を感じている=自分の頭部に痛みが起きている」のようにしてしまうのです。

けれども、真実は「見えている」のは単に視覚が起きているだけだし、「聞こえている」のはただ聴覚が起きているだけ。

「頭痛を感じている」のはただそのような感覚が起きているだけなのです。これ以外はどんな説明もリアルではなくなってしまいます。

真実はあまりにもシンプルなのですね。

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苦しい時こそ非二元は役に立つ

もしもあなたが、何らかの罪悪感に苛まれていたり、自己否定感や自己嫌悪感に悩まされているのなら、非二元を思い出してください。

あなたが何を感じようと、その感じそのものはリアルなものですが、それを感じることになった原因というのは全て幻だと気づくからです。

自分は少しも人のため世のためになっていないと感じたとしても、そうした物語そのものが存在しない妄想なのです。

単なる夢だと理解できれば、穏やかな状態に戻ることができます。昨夜みた悪夢が現実ではなかったと分かれば、なんでもないのと同じです。

もしもあなたが、人生そのものを謳歌しているのでしたら、非二元は不要なものですね。なぜなら、その瞬間がまさに非二元だからです。

けれども、自分への後悔や存在否定のような理不尽な思いを抱いて、そこに閉じ込められているとしたら、非二元が役に立つ可能性があります。

結局は、人生を生きている誰かはいないし、あなたもあなたの人生も幻想でしかなかったと気づけば、全ての問題は消滅してしまうはずですね。

無防備になると人気者になれる!?

風邪の症状が長引いていて何もすることがないので、持て余す時間をどう使おうかと考えたりするのですが、そういう時に限って何もしたくないのです。

それで普段は見ないような長尺のYouTube動画を観たりしたのです。一人は男性で、無人島に行ってたった独りで何泊もするサバイバルドラマもの。

そうしたら似たような動画がおすすめに上がってきて、それは若い女性がこれもたった1人で冬の雪山深くに車で入っていくのです。

そして誰もいない極寒の山中で、車中泊をするというもの。こんなところで、悪者に出会いでもしたらどうするのだろうと、親戚のおじさんのような心配をしてしまうのです。

こうしたやりたがりの若者がたくさんいて、人はそうした人たちの無邪気で無防備な姿に憧れるのでしょうね。

自我というのは面白いもので、自分の真骨頂である自己防衛が目立ってくると嫌な気持ちになるのです。

そして、利己的な人間を忌み嫌うわけです。実はそれこそが自我の本性だということを自らがよく知っているのだなあと。

だからそれと真反対な人の姿を見て、いい気持ちになりたいのですね。そこをうまく突いてあげると、有名なユーチューバーになれるというわけですね。