正直になると見えてくるもの

生まれた瞬間から、一瞬たりとも途絶えることなくずっと続いている体験だけがただあった、ただそれだけなのですね。これが本当のことです。

ところがある時から、その体験をしている自分がいるという途方もない発想の転換をするようになるのです。

そしてその全ての体験を自らのものとして、成長するのです。親から言われたこと、先生から教えてもらったこと。

友達やテレビやネットから仕入れた新しい情報など、そして本が好きな人はあらゆるジャンルの書籍からの情報を取得するのです。

そして多くの情報に触れて、それをそのままに信じ込んでいってしまうのです。そしてそれが本当のことだと思って生きているのです。

さらには、自分だけでなくてそうしたあらゆる情報を他人と共有することで、その信憑性はさらに高くなるのです。

そうなると、もうそこから抜けることはほとんど不可能になってしまうのです。つまり、本当に知っていることと、情報として得た知識との区別ができないままに、生きることになるのです。

だから、そこのところをあるがままに暴露されたとしても、それを信じようとしなくても不思議なことではありません。

もう分かったと思うのですが、これが初めて非二元の話を聞いたほとんどの人の反応なのです。そんなバカなことはないとバッサリと切り捨てるのも当然なのです。

それでも、自分に対して100%正直になって、知らないことは知らないと認めることができると、新たなものが見えるようになってきます。

これはとても新鮮な体験です。あらゆる「自分の◯◯という所有」が単なる概念だったという気持ちよさ。時間も空間も概念でしかなかったという、どうしようもなさ。

自分という個人が成立しないという深い安心感。その結果、全ての抵抗が止んでいくことになるだろうという、嬉しい予想もやってきますね。

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非二元を思い出せばこっちのもの

この二週間余りの間、ずっと風邪の症状があって熱がなくなってからもダラダラとした何となく気が晴れないという状態なのです。

しかも徹底的に用がない生活なので、終日じっとして時々動画を見たりしてほとんどの時間は横になっているのです。

だからなのか、今度は運動不足になっていたりしてスッキリしないなあ、でも生活は続いていくなあというある種贅沢な悩み。

こんな何もない毎日を過ごしていたら、頭が腐って使い物にならなくなるんじゃないかなと思ってみたり。

そういえば、非二元のあの感覚もちょっと忘れていたなと思い出して、しばらくの間探究をしていた頃の感覚になったのです。

そうすると、やっぱりそれは楽にしてもらえるんですね。ああそうだ、これ全部が幻想だしこの気の晴れない感覚も個人のものではないと。

そこまでやってくると、少し気になっていたあれやこれのことも全く気にならなくなるし、身体の変な感じも割と平気になるのです。

誰もいないし何も起きてはいないというのは、最強だなと。全てはほんのひとときの意識の夢だったんだなと。これ以上の平安はないですね。

風邪が長引いている

風邪を引いてしまったなと思ってしばらく寝込んでいたら、急に体温が39℃になったのでびっくりして病院へ行ったのです。

すると、記憶している限りでは初めてインフルエンザに罹ってしまったようで、5日分の薬を出してもらって、日々静養していたのです。

すると、あっという間に今度は平熱へと下がり、アレこんなものかと拍子抜けするくらいだったのです。

もう治ったと思って、スポーツクラブに行ってサウナだけ入って帰ってきていたら、どうも身体の具合が悪い。

もう大丈夫だと思って、クライアントさんの予約も入れ出したところで、これは万が一にも風邪を移してしまったら大変だと思って、急遽予約をキャンセルしました。

風の諸症状はすでに治っているのですが、どうにも気分がすぐれないのです。一日静かに横になっていたら、わずかに汗ばむような状態に。

セッションを取りやめておいて本当に良かった。自分は問題ないと思っても、相手のあることですからね。

なんだか、風邪を拗らせてしまったのかわかりませんが、もう少しの間ゆっくりと症状と向き合っていようと思います。

いつか探究は終わるもの

積極的に非二元の探究をしていた頃は、日々とにかく気づいたことを何でも動画に挙げたりブログに書いたりしていました。

もうないんじゃないの?と何度となく思ったことがあるのですが、その度にそんな心配はどこへやら。

いつも必ず、これは伝えておきたいと思われるような気づきがやってきたのです。自分でもそれは不思議なことでした。

ところが、やっぱりというのか当然というのか、以前のような探究が影を潜めるようになると、これといった新たな気づきがなくなってきたのです。

それでも何もないということにはならなくて、それなりにああこれを伝えよう、ああこれも書いておこうというのはあったのです。

けれども、この2週間くらいの間ちょうど風邪を引いて寝ていたりしたこともあって、新たに気づくようなことはなくなっていました。

そうなると、わざわざ動画に挙げる必要性がなくなって、このブログでも書かなくてもいいかなとなってしまい。

こうした探究というのは、こんな感じで終息していくことになるのかなあなんて思っています。終わりが見えた感じはまだないのですけどね。

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非二元の探究は健康な時にやるべし

身体は健康である限り、その存在を主張してこないというのは本当ですね。内臓も調子がいいと、どこにあるか分からないくらいだし。

歯なんて虫歯にでもならない限り存在感ないし、目だってゴミでも入らない限りは感覚はないと言ってもいいくらいです。

それはきっと、不具合がある時にそれを知らせるという目的があるのでしょうね。分からないまま過ごしてしまわないように。

ここが悪いということに気づけば、それなりのケアもできるわけで。それと同じなのかどうかは分かりませんが、自我も似たような傾向にありますね。

肉体的にも精神的にも健康を害してしまうと、「私」が目立ってくるのです。「私」の自己主張が激しくなるのです。

それもやっぱりケアして欲しいという現れなのかもしれません。ということは、具合が悪い時にこそ、自我の存在が希薄でいられたら素晴らしいということかと。

心身共に健康的な状態では、自我は比較的静かでいられるということです。このような時こそ、非二元の探究には最適なんだろうと思います。

誰もいないけど、気づきだけがある

自分のことを身体だと思っているなら、他人のことも身体だと思うのは当然のことですね。でも自分のことを意識だと思っているとしたら、他人のことはどう見えるのでしょうか?

きっと同じ一つの意識であると認識するのではなかろうかと思うのです。ところが、やっぱり他人を見る時には身体を見てしまう。

だって誰それと会うと言った時には、互いの身体が出会うことが必要ですからね。もしも完全に身体から解放されるとしたら、どうなるのだろう?

そんなことをつらつら考えていたら、普段から自分のことを身体だと思い込んでいることが当たり前のこととして受け止められるようになりました。

身体を頼りにして生きているということですね。自分はこの物理的な身体だという思い込みは、相当に頑丈だったということです。

一旦それをよ〜く認識した上で、他人と一緒にいてもそこには自分も含めて誰もいないということがはっきりするようです。

誰かと一緒にいて、直接の経験に留まるようにすると、そこには気づきだけがあることに再度気付かされますね。

体験だけが常にここにある

非二元の探究を通して気づいたことというのは、本当にシンプルなことでしたね。それは、海岸に出向いて今海が目の前に広がっているという事実があるわけではないということ。

真実は、眼前に海が広がっているように感じる体験が起きている、ということだったのです。たったこれだけのことでした。

ところが、このことを何度上手に伝えようとしても、伝わるものでもなかったのです。あらゆるものの前提が変わってしまったからです。

その前提というのは、世界がこのように身の回りに存在するというイメージです。このイメージはもう絶対的なものでした。

この前提があまりにも強固なために、これを崩すことができないのです。何せ、自分が生まれる前からこれはあったとさえ感じるからです。

ですが、私たちの日々の生活にその前提は不要なのです。体験が起き続けているだけだと分かったからです。

私たちが思い込んでる事実とか現実というのは、空想によって作り込まれたものに過ぎなかったということ。

ただあるのは、コレとしか言いようのない、単なる体験だったのです。この体験だけが常にここにあるのですね。

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起きることを起きるに任せる

今回珍しくインフルエンザに罹ってしまい、もう少し早めの対処ができたのにと悔やんだりしたのです。

けれども、ここで思い出すことがありましたね。それは、全ては全自動で起こっているという事実です。

私たちは、自分が日々の人生の舵取りをしている、毎日何百何千という意思決定をしていると思い込んでいます。

ところが、本当は最初に物事が起きて、そのすぐ後でそれは私が決断したことだという思考が起きるだけなのです。

主体としての私は、全て思考による後付けでしかありません。そのことをついつい忘れてしまって、悔やむことになるのです。

起きることを起きるに任せるという大切な真理を、少しの間忘れていました。今回も思い出せて気持ちが楽になりましたね。

非二元の探究を通して分かったことが、こうやって日常の生活に生かせるのはとてもありがたいことです。

そしてもちろん、悔やむことすら全自動で起きていることに過ぎないのですから、ここには思い悩むようなことは一つもないということですね。

肉体と五感は無関係

非二元に気づいていく段階で、さまざまな驚くような発見がありましたが、その中でも衝撃的だったものの一つが、肉眼で見ているということの嘘でした。

モノの実体がないということが明らかになったので、自分の肉体も実体があるわけではないということになったのです。

ということは、目という実体もないことになって、結果として視覚というのは肉眼を使っているわけではないということになったのです。

これは視覚だけではなく、聴覚や触覚などあらゆる感覚についても同様であって、この肉体といわゆる五感は無関係だったわけです。

この時点で二元が消えていくわけです。感覚器官を用いて感覚情報を取得しているという事実はなかったのですから。

さあここで困りました。では五感は一体どこからやってくるというのでしょうか?この質問に答えはありません。

理由はまったくもって不明ですが、それはただ起きてくるものとしか言いようがないのです。しかもそれが個人のものであるわけでもない。

それがなんとも清々しい感じがします。個人性という自分の中心が消えていく感覚を味わえるのですからね。

インフルエンザが起きている

久しぶりに風邪を引いてしまったということを一昨日書きましたが、大したことないだろうと鷹を括っていたのです。

ところが、あれよあれよという間に高熱が出てきてしまって、こりゃちょっとダメだなと思って、夜病院に駆け込んだのです。

すると、B型インフルエンザであることが発覚しました。記憶では、インフルエンザもコロナも一度も罹ったことがなかったのに。

日頃人と接することが極端に少ない生活をしているので、よほどのことがない限りは大丈夫だろうと思っていたのです。

なので、いったいどこから感染したのかが不明なのです。いくら巷で流行っているとは言っても、ウイルスが空中を浮遊しているわけでもないのに。

理由はともかくもう結果は出てしまったので、粛々と静かにウイルスがしずまってくれるまで、家の中で大事を取ろうと。

若い頃と違って、何もすることもなく1人じっとしていられるので、病気になっても精神的には楽なものです。

そして、やはりこうした体験がただ起きているだけという地点にいられることは、決定的に気持ちが軽くなりますね。

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