医者こそAIに取って変わられる

小中高生のお子さんをお持ちの親御さんにとって、我が子の人生が間違った方向へ進むことなく、この世界で正しく活躍できるようにしてあげたいと願うのは当然です。

そのためには、今できることを一生懸命頑張るというのが、一番当たり前の考え方ですが、そこをしっかり見直さねばならない時代になったのです。

例えば、子供に医学部の大学に行って欲しいと願えば、それこそ大変な量の勉強をさせて、できれば多額の寄付金を払ってあげたいのです。

でもちょっと待ってください。いいですか?AIの脅威的な進化を目の当たりにすると、あっという間に有名な外科医の代わりとなって手術をするようになるのです。

当初考えられていたブルーワーカーよりも、ホワイトワーカーの方がよりAIに取って変わられてしまう公算が大なのです。

多くの人が、なんだかんだ言ったって、まだまだAIにはやれないことがたくさんあるので、大丈夫だと。

しかしその考えが、従来の文化の中でしか頭を使えない状況のままにあるのです。これから起きることは、人類史上で誰も想像すらしてなかったことなのです。

それもあと数年の間に現実になってしまうということ。私が言いたいのは、未来のために生きることを真っ先に辞めること。

今この瞬間と深く関わって生きるようにできれば、この先どんな世界になったとしても、まったく問題ないのですね。

風邪をひいて気づいたこと

久しぶりに風邪を引きました。記憶では、コロナになる前に一度風邪を引いて以来だから、7年くらいは引かずに来れたのです。

それが、今回は珍しく油断してしまったようで。これまでも、何度となく風邪を引きそうだという感覚にはなっていたのです。

その度に、速やかに葛根湯を服用して、「絶対に風邪を引かない」宣言というのを心の中でやっていたのです。

それがどうも今回は、少し遅れてしまったのかもしれません。あと半日早くに薬を飲んで宣言をしていればなと悔やまれます。

体調のちょっとした変化を見過ごしてしまったとも言えますね。たまにはこういうこともあるんだなと。

この風邪の諸症状、発熱、咳、重だるさ、鼻水、鼻詰まり、下痢、頭痛、およそ考えられる全ての風邪症状を経験しています。

ところが、以前と少し違うのはそれほど困ったなとはなっていないのです。早く治って欲しいとは思うのですが。

そこまで、強く何とかならないものかと考えずに、淡々と風邪の症状という体験が起きているだけだなと。

自分で書いていて負け惜しみのように感じてしまいますが、この体験が個人のものではないと知っていることが大事なのかもしれませんね。 

体験は意識の中に現れる

覚醒というのに憧れていると、それは何か特別な体験なんだろうと思い込んでしまっても不思議ではありません。

覚醒体験なんていう言葉すらあるくらいですから。けれども、本当の覚醒とはまったくもって体験ではないのです。

ただただ見抜くこと。体験をしている私がいるのではなく、ただ体験が起きているのだと。この違いは決定的です。

体験は気づきの場の中に現れるのです。そこをどれほど探しても、体験を自分の所有物にしようとする「私」を見つけることはできません。

比喩的な言い回しをすると、気づき(意識)が体験を通して自らを味わっていると言ってもいいかもしれません。

それなのに、まったくお門違いの「私」をでっち上げて、その全てを私が体験しているのだとしているわけです。

身体感覚と思われるものが常にやってくるので、「私」は身体の中に収まっていると感じてしまうのです。

コレは仕方のないことかもしれませんが、そのせいで誰もが人生の重みをずっしりと感じてしまうのです。

そんな長い間の勘違いを捨てて、すっきりと軽やかな感覚に戻って幼子のような気分で過ごせるようにしたいものですね。

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体験が消えていく日が来るか?

今年に入ってから、もうほとんど非二元の探究からは遠ざかってしまいました。本を読むこともないし、ワークをすることもない。

ただし、時々は非二元に触れるようにはしているのです。なぜなら、気がつくとすぐに物語の中へと埋没してしまいそうになるからです。

物語というのは、別の表現を使えば「思考体験」と呼べるかなと。それの最たるものが、映画やドラマですね。

疑似体験ではあるものの、さまざまな体験が起きるので、それを楽しんだり感動したりできるのが魅力です。

そしてそうした思考体験が起きた後に、リアルな直接体験のレベルに戻るようにするのです。これをやらないと、物語に流されてしまいます。

こうなってくると、どちらがいいとか悪いというものでもないということに気づきます。なぜなら、どんな体験であれ体験であることに違いはないからです。

体験が全てなのです。どんな体験をするかではなく、体験がただ起きているのみ。そしてその背後には、気づきがありますね。

気づいていることに気づいている、この瞬間物語から抜けていずれはあらゆる体験も消えていくのかもしれません。

今この瞬間に完全に関わる

人は誰でも自分はなぜ生まれたんだろう?とか、自分の人生の目的とは一体なんだろう?といった疑問を持っているはずですね。

明確な自覚を持っているかどうかは人によるとは思いますが、誰だって心のどこかにそうした疑問があるはずです。

それは個人として生きていると思い込んでいる自我の特徴なのです。自分や自分の人生に価値を見出したい。

あるいは、そこに大切な意味があると思いたいのです。だから、目標を持つことで、人生に方向性を持たせて心の安定を目指すのです。

日々の生活が辛く苦しい時でも、そうした目的、目標があればそれを実現するためだと思って乗り越えることもできるのです。

けれども、生まれてきた理由など最初からないし、人生に意味や価値を見出す必要すらないと聞くと、保っていた自分という存在がバラバラになって消えてしまいそうな気がします。

でも安心してください。バラバラになっても大丈夫。なぜなら、最初から誰もいないからです。自我は存在しません。

それは単なる思考による機能なのです。集中することで焦点ができて、そこに私という感覚が生まれるだけ。

ここがより明確になることで、未来志向だった生き方が変化して、今この瞬間に完全に関わって生きることができるようになるのです。

それはそれほど難しいことではないのです。大好きな音楽を聴いている時、楽しい会話に没頭して時間を忘れている時。

あるいは、山道をドライブしていてコーナーを果敢に攻めている時など、完全に未来のことが消えています。

その時、「私」という存在はどこにもいないことに誰でも気づけるはずですね。

老いを楽しむ余裕

高齢者の領域に入ってくると、自分ではまだまだ若いつもりでもそれなりの兆候というのが色々現れてくるものですね。

例えば、筋肉痛。中高年あたりから、運動した翌々日あたりから遅れてやってくるようになって、やれやれと思っていたのです。

ところが、最近では運動した数時間後には立派なやつがやってきてびっくりするのです。やり過ぎだぞって言われる感じがして…。

あるいは、新しい環境への順応力が極端に落ちてくるのです。日々ほとんど変わり映えのしない毎日を送っているせいなのか。

新しい車の運転、知らない道、新しい衣服、新しい家のシステム。こう言ったものに慣れるのに、ひどく時間がかかってしまうのです。

そしてもっと困るのが、視野が狭くなってくること。知らないものを目にしたときに、必要なところを探すのに時間がかかるのです。

ただこうした老いの様相を苦しみとして見るのか、それとも面白がることができるのかで、かなり気分が変わるようです。

若い頃の記憶というのも、今この瞬間のものでしかないことに気づけば、ただコレがあるだけであることを思い出すことができますね。

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個人という中心が薄れていく

ずっと自我から解放されて覚醒したいと願っていたのですが、そのくせ自我という自分がいなくなるというのは、一体どういう感覚なのだろう?と思っていたのです。

自分がいなくなるというのを想像できなかったわけですね。でも最近それが少し分かるようになってきたかもしれません。

自我という個人の自分はいなくなっても、誰でもない自分がいなくなるわけではないのだと。この誰でもない自分とは何か?

きっと純粋な意識のことなのではないかと。気づいているこの感覚のことですね。コレがなくなることはないと誰でも直感的に分かるはずです。

それでも個人としての自分、つまり皮膚の内側に凝縮している自分、中心があるという感覚が薄れてしまうのです。

単にそれだけなのではないかと思うようになりました。だから、自我が薄れても毎日をこれまで通り普通に過ごしていけるのです。

覚醒するというのは何かの体験が起きることではないということです。ただ個人という中心が見つからなくなること。

都合の悪いことや問題が起きなくなるということでもありません。ただ、どこかで今この瞬間にはどんな問題もないことに気づいているといった感覚ですね。

ただ体験が起きるという気づき

非二元の探究の最中に、時間も空間も物質もその実体はないということが明確になった時に、そんなことはどうやったってイメージできないとなったのです。

つまり、私たちは自分が経験してきたこと、あるいは経験はなくてもそれなりにイメージできることだけを相手に生きているのです。

だからイメージできないものというのは、まったく論外になってしまって、相手にする必要もないとなるのです。

ところが、探究の結果というのは人情のあるなしどころか、いたって非情なものであって、どれほど抗ったところでどうしようもないと気づかされてしまうのです。

どんなに自分の理性や理屈がそんなわけないと文句を言い出したところで、全てがスルーされてしまうのです。それはもう小気味いいほどに。

で諦めるわけです。人間の好き嫌いとか理性とか、そう言ったものをはるかに超越していることに気づくのですから、逆に素直にもなってしまいます。

じゃあこの人生というのは一体何なのか?これにどんな意味があるというのか?こうした疑問が結果として消えていくだけなのです。

コレは解決すべき問題などではなくて、ただ体験として起きている(ように見える)だけだということに気づくのみなのですね。

愛車を送り出す

昨年の年末あたりから急に思い立って、クルマを変えることになりました。これまで毎日乗っていたクルマと入替になるわけです。

大抵そういう時期になると、乗っているクルマの調子が微妙になってくるのですが、今回だけはびくともしないようです。

不思議なもので、クルマの中で運転しながら新しいクルマのことを話題に出すだけで、今のクルマに何かの異変が起こるのです。

もう何度となくそういう経験をしているので、今回もどうなるのかなと思って様子を見ていたのですが、今回に限ってまったく変化なし。

それと、これも初めての経験なのですが、自分の気持ちの中で初めて今のクルマを手放すことへの郷愁のような感覚があるのです。

だったら手離さずに2台持ちにすればいいじゃないとも思ったのですが、結構ギリギリまで迷ったのですが、やはり入れ替えることにしたのです。

それにしても、今のクルマは本当に悪いところがまったくなく、完璧に近い状態でよその人のところへ旅立っていくことになるのです。

柄にもなく、なんだか神妙な気持ちで送り出してあげることになりそうです。7年を超えるお付き合い、お疲れ様でした。そしてありがとう!

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自分の中心が薄れていく

自分はいないんだ、自我というのは架空の存在なんだ、という情報に触れてからどれくらい経ったのだろうと思うことがあります。

最初にそれを知ったのがいつだったかは覚えていないのですが、ただそのことがとても新鮮でしかも気持ちいいものだったことは明確に覚えています。

この悩ましい自分が本当はいないんだということが、どれほどの救いになったことか。本当に気持ちが軽くなったのです。

ところがそこからが長かった。というのも、そういう情報を聞いたところで、毎日の生活が変わるわけではなかったからです。

瞑想をしようが、osho の講話本を読もうが、特別な大きな変化はやってこなかったのです。それでも瞑想は日々断続的にやっていたのです。

そんな折に、ふとしたきっかけでこの世界には実体というものがないことに気づいて、そこから非二元の探究が始まったのです。

それからは、時空も物質も存在しないことにも気づいてしまい、どれほど頑張ったところで自我などというものの居場所がなくなったのです。

そしてゆっくりと、少しずつではあるのですが、無理なく自然と自我という自分の中心が薄れてきたのです。

自我はいなくならなくてもいいと分かったし、そこに拘る必要がなくなっていったのですね。そんなわけでみなさん、気楽に行きましょうや!