一日一食にしてみたら

半年前くらいから、ほぼ毎日通っていたスポーツクラブを辞めて、運動不足になっていたのと、普段から食べ過ぎなのかなというのが重なって、体重が増加してきていました。

身体も何となく重い感じだし、お腹周りがかなり太くなってしまったこともあって、そろそろどうにかしたいなと思っていたのです。

そんな折、ある動画で一日一食にしたら何を食べてもガンにならない、と言っている医者がいたのです。

これはいいと思って、早速実践してみているのですが、これがなかなか好感触なのです。身体が軽く感じるし、体調もいい。

多少の空腹感はどうしてもやってくるのですが、それも大したものではありません。元々朝食は食べないことが多かったし。

昼食をリンゴ半分程度にすることで、夕食がいつもより美味しく感じられるのも嬉しいのです。そして少しずつですが、体重も元に戻りつつあるのかなと。

年齢が年齢だけに、基礎代謝がうんと減ってきているので、それほど食べなくてもいい状態になっているのが分かります。

食べなければ食べないほど健康になる感じがします。来月からまたスポーツクラブにも復帰するつもりでいます。

寒い毎日が続くと、どうしても暖をとりたくて多めに食べてしまうということが起きるようで。いつまで続くか分かりませんが、この一日一食生活を継続できたらいいなと。

勿論、何が本当に身体に良いかは人によってまちまちなので、全ては自己責任でということになりますね。

「誰かがいる」って不可能なこと

「体験だけがある」ということをずっと言い続けてきた結果、この体験をしている誰かがいるということが言えなくなったのです。

この「誰か」とは一体何なのだろう?と言う素朴な疑問がやってきたのです。なぜなら、体験主体を一度も見たことがないと気づいたからです。

過去のあらゆる記憶も、誰かの記憶ではないし、痛みも喜びも誰かのものではないのです。勝手に思考がやってくるし、感情も湧き上がるだけ。

体験の全てが自動で起きてくるだけなのですね。体験の中に私を見つけたことは、かつて一度もなかったということです。

誰かがいるということが、決定的に不可能だという気づきがやってきたと言ってもいいかもしれません。

「誰か」はあり得ない。だから、「私」もあり得ないのですね。嘘だと思うなら、自分がいると思うところを探してみてください。

絶対に自分を見つけることはできないはずだから。で何か変わることがある?と見つめたら、実際にはこれまで通りの人生が続いていくのですね。

ただそれを人生と呼ぶのはどうなのだろう?という感覚が強くなっていて、やっぱりそれはただ体験が起き続けるということです。

中心が薄れていく

これが「私」と思っている自分には、何となく中心があるように誰でも感じているのではないでしょうか?

それこそが自我の正体なのです。自分というのはしっかりとした明確な存在であり、そこには中心と思しきものがあるのだと。

けれども実際には、自我というのは思考の塊のようなものであって、そこに私たちがイメージしている実体のようなものはないのです。

そのことを簡単な図で示してみたので、下図をご覧ください。中心部には確かに円があって、そこがこの図の中心のように見て取れます。

周囲にある一本一本の線は思考を意味していて、無数の思考が絡み合って自我が成立することを示しています。

ここで、この思考を外していくとどうなるでしょうか?結果は明白です。そこにあると思っていた中心(円)は跡形もなく消えてしまうはずです。

これが自我が幻想に過ぎないということの意味なのです。思考の連鎖があたかも中心があるかのような錯覚を与えるのです。

非二元の探究においても、この自我の中心が薄れていくような感覚を味わうことができるのですね。

AIはいずれお金の価値をなくす

最近のAIの進化が凄まじくて、今後はその勢いに更に拍車がかかって、きっと想像を上回るような驚異的な進化がやってくるでしょうね。

特に、AI自体が次世代のAIを開発するようになった時に、つまりその進化が人間の手を離れるようになったら、もう全く予想ができなくなるわけです。

しかも、AIとロボットの合体によって、あらゆる仕事を人類に代わって成し遂げるようになるはずです。

そうなると、人間は仕事をする必要がなくなります。AIに仕事を奪われるという側面もありますが、もう一つはお金を稼ぐ必要がなくなるのです。

なぜなら、AIロボットの発達は仕事の生産性を驚異的に高くするので、物価は限りなく低くなっていくからです。

テスラやスペースXのCEOであるイーロン・マスクは、「AIの進化はお金の価値をなくす」と断言しています。

しかも、それは20年後くらいにはやってくると言っています。人類は労働から解放されて、働きたい人だけが働く世界がやってくるのです。

多くの人々は、ただ自由な人生を気の向くままに生きるようになるのです。その時に、今の私のように探究をライフワークにする人も増えるような気がしますね。

なぜなら、何者かにならねばとか、何かを達成しなければといった欲望が小さくなってしまうからです。

ただし、希少性を争う強烈な自我にそそのかされる人々もいて、全てが万事丸く収まるということにはならないかもしれません。

この世界がどのようなものになったとしても、最終的には人間(自我)の欲望が小さくならない限りは、不平不満がなくなることはないのでしょうね。

非二元はマルチモーダル

最近の目覚ましいAIの進化の特徴とも言える言葉にマルチモーダルになったというのがあります。

ここで言うマルチモーダルとは、マルチ(複数)の異なるモード(情報形式)を同時に扱うと言うことを指します。

たとえば、テキスト(文章)、画像、音声、動画、その他の情報を統合して処理することができるわけです。

画像を見て説明文を書くとか、音声を聞いて文字起こしする、動画を見て内容を要約すると言ったことです。

このマルチモーダルのイメージを非二元に当てはめることができるなと思ったのです。二元の世界では、見る=視覚、聞く=聴覚、触る=触覚なわけです。

ところが非二元では、見ている主体も、聞いている主体も、感じてる主体も実体としては存在しないのです。

実際には視覚+聴覚+触覚が一つの現れとして起きていると言うことですね。つまり、マルチモーダルに立ち現れている一つの体験となるのです。

これまでお伝えしてきた非二元は一様であると言うこととも繋がることですね。空に浮かぶ雲と空腹感は一つの現れなのです。

本当のところ、マルチモーダルと表現したくなるのは二元の発想なのです。非二元がすでに「そうである」ことを、思考が追いかけて名づけた言葉です。

実際には、ただコレがあるとしか表現することができないのですね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

無理なく自我の不在に気づく

非二元に気づく以前の私の探究というのは、ひたすら自我が幻想であることを見抜くためのものでした。

手段はもっぱら瞑想に励むことでした。なぜなら、それ以外のどんな方法も思いつくことができなかったからです。

歴史上の覚醒者のほとんどが、瞑想や座禅によって悟りを開いたと聞いていたからですが、指導者不在の中での瞑想は遅々として進まなかったのです。

そして非二元の気づきらしきものがやってきたわけです。それは自我からの解放という目的とは異なるものでした。

自我の存在云々以前に、この世界の実体が存在しないということの気づきだったからです。こうした気づきを自我が邪魔をすることはなかったのですね。

だから自我のままで、十分に余裕を持って非二元の探究を進めて来れたのです。そして自分の中で、この世界の不在が定着して行ったのです。

そして、外側の世界が不在であることを通して、それなら内側の世界もあるはずがないという決定的なものが見えてきたのです。

自我でいながらにして、自我の不在を明確にすることができたのです。そして、外側も内側もない世界に残るものがあるのです。

それが体験であり現象だったのです。そしてそれは純粋な気づきでもあるということになったのですね。

ここへ来てようやく、ただ純粋な意識、気づきだけがあるというのが究極の事実であると言えるのでしょうね。

体験を説明するのは難しい

体験だけがあるという前に、そもそも体験とは一体なんなのだろうか?ということについて明確にしておきたいと思います。

私が今分かっているレベルでは、体験というのは時間でも空間でも物質(素粒子)でもない何か。

時空と物質に依存することなく起きるように見えるもの。このような定義ができるのかなと思っています。

体験についてはこれまでどんな科学者も触れることはなかったのです。科学者は分かったつもりで終わっているのです。

そして唯一体験が依存しているのは、気づきなのですね。気づきがなければ体験は起きようがありません。

体験あるいは現象は気付きと同義語と言っても過言ではないかもしれません。体験あるいは現象をこれ以上うまく説明する術がありません。

説明することができないのに、それだけがあって、それ以外がないのですから驚きです。加えて、体験には気づきが必須ですが、気づきに体験は必須ではないのでしょうね。

映像のスクリーンは体験の場のようなもの

非二元の説明の中で、「体験しかない」ということを繰り返しお伝えしているのですが、それを別の言い方で説明してみたいと思います。

一番分かりやすいのは、スクリーン上に映し出される映像です。スクリーン上には、映像以外はありません。

つまり、「映像しかない」と言えるのです。映像の中身にはそれこそあらゆるものが含まれますね。

人間ドラマかもしれないし、大自然の映像だけかもしれませんが、その場合は物語は入ってくることはありません。

そして映像には必ず、それを体験(観る)する体験者が必要です。映像だけが単独で存在することはできないからです。

これが二元の世界です。一方の非二元においては、体験者がいるという体験が起きているように見えるのです。

その映像の中に体験者が含まれているわけです。そして、スクリーンこそが映像に気づいている意識であるとも言えますね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

二元の世界は目的と手段でできている

昨日のブログでは、自我の生き方というのは目的と手段の分離が一般的だというお話をしました。

一方で、目的と手段が一つであり、つまりは目的も手段もないような状態というのは、無我の状態になるということでした。

苦しみの原因は自我であることから、無我の状態になれるのであれば、それは私たちにとって理想的であることになります。

ではそのコツは何かというと、非常にシンプルに好きなことをただやるということになるのですね。

何かをしている理由を問われても、ただそうしたいからしていると言えるのであれば、これは目的も手段も消えていることになるからです。

幼い子供がよく絵を描いている姿を見ると思いますが、その子が絵を描く理由はないのです。ただ、描きたいから描いているのです。

これが無心の状態になっているわけです。ここにはどんな苦しみも発生することがありません。

ところが、上手に描いて褒められたいと願うようになると、褒められるという目的のために絵を描くという手段を使うことになり、突然自我の領域に変化してしまいます。

そうなると、絵を描くことがつまらなく感じられるようになって、絵を描くことをやめてしまうようになるのです。

自我はいつでも自我の領域に本人を戻そうと画策していることに気づくことです。そして注意深く、目的と手段が分離していないかどうかを確認することです。

この場合は、褒められて安心したいという防衛が、入り込んだ結果だと理解する必要があります。

非二元を思い出して、物語の中にどっぷり浸かってしまっていたことに気づくことでも、それを回避することができるはずですね。

非二元では目的と手段が一つになる

私たちは、一般的にお金を稼ぐという目的のために働くという手段を取るし、空腹を満たすために食事をするのです。

このように、自我というのはいつも目的と手段のペアで生きていると言えるのです。その目的を達成するために手段があるのだと。

目的と手段が綺麗に分かれているわけです。これがほとんどなのですが、たまには目的と手段が一つになっている場合があります。

たとえば、ギターを弾いてみたいという時、ギターを弾くことが目的であり、そのための手段はギターを弾くことなわけです。

そうした時には、目的は目的ではなくなり、手段も手段ではなくなってしまいます。つまり、ただそれが起きているということ。

そしてここには、自我の姿はありません。つまり無我の境地でいる時には、必ず目的と手段が一つになっているのです。

大笑いしている時というのは、ただ大笑いしているだけであって、笑う目的も笑うという手段もありません。ここに自我の戦略はありません。

ただし、作り物の笑いの場合には、嫌われたくないという目的のために笑いという手段を取ることとなり、目的と手段は分離するのです。

覚醒するという目的のために瞑想という手段を取る。覚醒というのは自我からの解放を意味するので、自我から解放されるために自我の生き方をしているのです。

目的が消えた時、自動的に手段も消えていくわけです。これが二元が非二元になるということを意味しています。

毎日の生活の中で、目的と手段が一つになっている、あるいは双方が消えている時だけ、あなたは輝いているのですね。