体験 VS 事実

深く見つめてみればすぐに分かることですが、私たちの毎日は体験から成り立っているのですが、それ以外に事実というものがあると思い込んでいます。

事実というのは、誰にとっても公平に同じ現実として起きていることです。それは、もう真実と言ってもいいくらいにガチっとしたものだと感じるのです。

私たちの毎日は、事実とか現実というもので埋め尽くされているのですが、それとは別に個人的には体験もあるということ。

そのようにして、現実というものがとにかくあって、そのほかの主観として体験をすることができるのだと。

けれども、非二元に気づいたその日からずっと、体験だけがあるということに気づいたのです。事実とか現実というものはないのだと。

この気づきはかなり決定的でした。何せ、自分の存在とはまったくかけ離れたところに客観的事実が起き続けていると感じていたからです。

それなのに、そういった事実は単なるイメージであって実在ではないと気づいたのですから、その衝撃は半端ではなかったです。

事実というのはイメージでしかありません。リアルなのは、この体験だけです。それを気づきと呼んでもいいことはすでにお伝えしてきました。

事実というのは気づきとは無関係の思考によるものでしかないということですね。そのことに気づくと非二元が身近なものになるはずです。

物理学は非二元に到達できるか?

最先端の量子物理学では、素粒子と時空は切り離せず、どちらが根本かという問いが意味をもたなくなるかもしれない、というところまで来ているようです。

つまり、物質と空間の境界が溶けていくようなのです。もちろんまだ確立した定説というわけではありません。

素粒子を従来の物質的な粒としてではなく、もっと抽象的な何か(情報や関係性)の表現形と考えているわけです。

いよいよ私たちは何から出来ているのかという根本的な問いが、より深い別次元の奥行きを持って感じられてきます。

さあこの先、物理学者たちはどのように真実を追求していくことになるのか?興味津々といったところです。

そしてきっと、どこまで行っても非二元の境地にまでは行き着くことがないのではないかと思うのです。

物理学者たちは、根本的な間違いをしているということに気づいていないからです。物理学にど素人の私が言うのは、あまりにも僭越過ぎますが…。

けれども、この世界は存在せずに、純粋な気づきだけがあるなんて、どうやっても想像もできないのでしょうね。

体験以外には何も存在しない

かつて存在って何なのだろう?という問いがやってきて、あれこれと思索していたことがありました。

そして結論としては、自分が生きている間にそんな難問に対する答えは出ることはないのだろうと思っていたのです。

ところが、ふと今その問いをぶつけられたとしたらと考えた時に、もう当たり前のように答えらしきものがあると気づいたのです。

それは、残念なことに存在というのは単なる概念でしかなかったということ。それが何であれ、その存在というものはありません。

なぜなら客観的事実というものがないからです。体験を離れて、何かが存在しているとか何かが起きるということはないのです。

それは思考が生み出した便利なイメージに過ぎなかったのです。あの頃はそんなことは夢にも思わなかったですね。

けれども今となっては当たり前のように明確になりました。思考や感情についても、それが存在するのではないのです。

思考という体験、感情という体験が起きるだけなのですね。あらゆるものも、時間も、空間も一切の存在がないということですね。

自分らしさなど堅持しない

人間には、個人個人にそれぞれの好みが備わっていて、それは決して変わるものではないと思われているかもしれません。

けれども自分のことを顧みると、時とともにあるいは年齢とともに好みも変化してきてることに気づくことがあります。

もちろん頑固に変わらないものもたくさんあるし、変わらないものの方が多いのも事実かもしれません。

ところが、誰が何と言おうと自分にとってはこうなんだと、強く思っていたとしても、ふと気づくとそれが変化していたりします。

じゃあ、あれほど主張していたのは一体何だったんだろうと。一貫性がないというのは、どうも信用されない感じがします。

でもちょっと思ったのですが、固定した個人としての自分という怪しい存在に、一貫性なんてなくても当然なのではないかと。

自分の考え方や行動パターン、あるいは正しさなどは好みなどとともにいくらでも変化しても当たり前なのかもしれないなと。

なぜなら、本当には個人などという存在はないのですから。頑なな信念さえもヒョイっとひっくり返して悠々と生きていけるといいですね。

そしてどんなことにもこだわりを持たずに、その瞬間にただ反応が起こるに任せるようにして、今年もより気楽に生きられたらいいなと思うのです。

壮大な夢物語

本当は意識があるだけで、それ以外で自分と呼べるものは何もないというところに落ち着きそうです。

私たちはこの3次元の世界に産み落とされて…、と思って生きてきたつもりになってはいるのですが、それは本当ではなかったようです。

というのも、この3次元の世界というのが、思考が作ったイメージでしかないと気づいたからです。

そして、今この瞬間にある記憶をまったく使わないでいるなら、この世界に産み落とされたということも真実ではなくなります。

自分の身体があるというのもイメージだし、1人の人間として人生を生きているというのもイメージに過ぎません。

個人というものはないし、あると信じていたあらゆる実体が幻だったと気づいて、最初は愕然としたものです。

それが不思議なことに、慣れてくると当たり前のこととして受け入れられるし、その状態でも昨日と同じように生きていくこともできるのです。

壮大な夢物語の中にいることをもっと楽しめばいいだけですね。

神は表だけのコインを作れなかったってホント?

よく聞く話ではあるのですが、神というのは万能だとか全能であるというように表現されることがありますね。

要するに、神にとっては不可能なことはないのだということを言いたいわけですね。ところがです。

この二元の世界では、神といえども不可能なことがあったのだと。それは、一枚のコインを見れば、必ず表と裏があるのだと。

表しかないコインを見たことがある人はいないはず。つまり、表だけのコインを作ることは神にもできなかったのだと。

なるほど言わんとしていることは分かるのです。けれども、それは本当のことでしょうかというのが今回の主題です。

非二元に気づくと、この二元の世界というのがイマジネーションでしかないということに気づけるのです。

表だけのコインが絶対にないのはあくまでも二元の世界でだけのこと。実は非二元ではそんなことはいくらでもあるのです。

非二元では見かけだけ、単なる現れだけのコインなので、現れている面だけがあるということになるのです。

逆に言えば、非二元では神といえども、実体というものを作ることはできないということに気付かされますね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

探究の目的は探究の終焉

物事には色々な目的があるものです。一生懸命勉強するのは、希望する学校に入学するためだし、好きな人と結婚するのはより幸せになるため。

こうしたことは、自我の目的指向の生き方からやってくるものだと思うのです。自我は大抵未来への期待を抱えて生きているからです。

では探究の目的は何かというと、これ以上の逆説はないのではと思うのですが、その目的とは探究の終焉だと言えるのです。

私の探究の目的は、生老病死という人生における4つの苦しみからの解放であり、そのためには個人性が消えること。

ところが、探究をやっていると思っているのは私という個人であるため、探究をすればするほど個人性は強くなるのです。

結果として、探究をやめることが個人性と4つの苦しみからの解放に繋がるということになるわけです。

とどのつまり、探究の目的はその探究をやめることなのですね。ただし、自分の意思で探究をやめると決意するという意味ではありません。

どうやったところで、探究ができなくなる、あるいは探究する意味が全くなくなってしまったと感じること。

こうなって初めて、自ずと探究が終わりを迎えるということです。そして、探究も探究をしていた個人も全部消えていくことになるのですね。

探究が終わるのは寂しい

一年ちょっと前から、非二元の探究をするようになって、探究というものが身近なものになったのは事実です。

ところが、そうなってみるともうずっと前から探究を続けてきたかのような錯覚をしてしまうのですね。

非二元に気づくようになる前は、ただ瞑想をすることで覚醒できたらいいなという程度だったのです。

それを思い出して、その頃は探究などという言葉では言っていなかったはずなのですね。それほど真面目に瞑想を続けていたわけでもないし。

自分で都合のいいように、過去を塗り替えていたことに気づいたのです。もう20年も探究をしてきた身なんだと。

その嘘に気づいてちょっと笑ってしまいましたね。自分が探究をしていると、他の人にも同じようにして欲しいと思うのです。

これもかなり傲慢です。同じ気持ちになって一緒にやってもらいたいという子供じみた気持ちがあるということですね。

もしかしたら、探究が終わりを迎えようとしているのかなという感覚になって、初めてそんなことに気づいたりしている今日頃です。

新鮮な感覚で生きる

先日のブログで、目を閉じていることが増えたということをお伝えしたばかりなのですが、どうもその傾向が増してきたように思います。

かなり明確に目を閉じていたい、と思うようになったのです。そして目を閉じると、なんとも気持ちがいいのです。

すごく落ち着くし、理由のない深い平安が訪れてくれるのです。そして、どこにいるわけでもないという感覚も気持ちいい。

それとは反するようなことなのですが、目を開けている時に目に入ってくるあらゆる景色が、外のものではないという気づき。

それが距離なしで感じられることで、なんとなくそれらが愛しい感じになることもあります。自分と離れていないという感覚。

実体のない単なる現れなのに、随分と端正に作り込まれているものだなあと感心してしまうこともあり。

これが全てだと分かっていながらも、もっと別のものを求めてみたり、これは気に入らないと排除したくなったりと、それはもう浅はかだなと。

そういった内面的な動きも、実は個人的なものではなかったという気づきが、自分を解放してくれるようです。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

この世界は存在しない

初心に帰って非二元という言葉をすっかり忘れて、自分にできるだけ正直になってもう一度全てを見つめ直してみると…。

やっぱり体験だけがあるということになります。同様に現れだけがあるとも言えて、どちらも同じ意味なのです。

体験という言葉を使うと、どちらかというと自分側に意識が向いているような感じがするし、一方で現れというと外側を表現しているように感じられます。

そのどちらでもない適切な言葉が見つからないので、これまでもずっとこれらの言葉を使ってきました。

体験(現れ)だけがあるということの本当の意味は、宇宙やこの世界、あらゆる物質などが何もないということです。

この体験から、我々は逃れることができません。もっと言えば、体験の中に我々の存在は含まれないのです。

だから逃れることができないというよりは、逃れるようなどんな存在もないと言った方がより適切なのです。

長年瞑想によって自我から解放されたいと思ってきたことが、非常に的外れだったという感じがするのです。

自我の居場所がないどころか、この世界全体のありかがなかったということなのですね。これはもう決定的です。