非個人的な自己を求めて

これまでの自分の人生のほとんどを、当たり前のように「一人の個人」として生きてきて、その物語の中の人物として自分のことを見ていたのです。

そして表面的にはこれからもそれは続くのでしょうけれど、内面ではもう決してそこには戻れないような気がしています。

というのも、現実というものの本当の姿に気づき始めてしまったからです。それは本当に驚愕するようなものです。

もちろん一般常識と比べてしまえばということですけれど。真実を言ってしまえば、自分はこれまで生まれるという経験をしていないと。

もっと言えば、自分が自分の人生の主役として長きに渡り生きてきた過去などというものは存在しないということ。

今この瞬間にアクセスできるどんな記憶も、それは単なる思考に過ぎないということが分かれば、当たり前のことなのです。

今この瞬間、どこをどう探しても個人的なものは全く見つけることができないため、全てが非個人的であるとしか言いようがないのですね。

物語とともに、時間も空間も個別性も全部が消え失せてしまい、跡に残るのは純粋な非個人的な気づきだけなんだなと。

自分は身体ではないという明確な経験

先日脊椎麻酔での手術を経験したのですが、上半身は何ともないのでごく普通に術中でもお医者さんや看護師さんとお話ができるのですね。

聞いた話では、局部麻酔の方が全身麻酔に比べると麻酔が切れていく時間が長いため、痛みをあまり感じずに済むと。

ああそれは良かったと思ったのですが、術後の具合の悪さは色々あって、コレはどちらが良いというわけでもないのかなと。

私の場合、麻酔が切れていくまでの時間が平均的な場合に比べてかなり長かったようで、長時間の間ベッドの中で上半身だけの自分の感覚で過ごしたのです。

その時に思ったのですが、下半身(主に太ももの外側の辺り)を幾度となく手で触れてみたのですが、何かの物体に触れてる感じしかせず。

コレは自分の身体半分がなくなってしまったかのように感じた反面、それでも「自分」という感覚は1ミリも変化していないなと。

つまり、自分という感覚には少しも損傷がないということに気づいたのです。自分とは身体ではないということを如実に現しているということになりますね。

このような経験でも、自分は身体ではないということに気づかせてくれる絶好のチャンスになったということですね。 

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視覚体験の違いに惑わされない

時々思考実験をやるたびに思うのは、視覚というのは情報が多い分、思考に騙されやすくなってしまうなあということです。

逆に、目を閉じて思考実験をすると、あっという間に身体は消えて、自分が1人の人であるという証拠も消えていきます。

ところが、目を開けた瞬間に、一気に視覚体験が蘇ってきて、それを利用して思考があらゆる情報を持ってやってきます。

このように目を閉じた時と開けた時の違いが非常に大きいので、普段の生活の中ではほとんどが妄想の世界になってしまうのですね。

練習の方法としては、目を閉じてしっかりと思考からの情報から離れた状態を維持しつつ目を開けるようにしてみるのです。

そして、目を閉じても目を開けても、ただただ視覚の現れが増減するだけであって、それ以外は変化がないことに気づくようにする。

そんな練習をしていたら、先日この身体の中にいるという感覚があり得ないという、とても自然な気づきがやってきました。

言葉にしてしまうと、単に一つの表れでしかない身体と気づきそのものの自己の違いが明確になったということかもしれません。

そしていつもの、「◯◯な気がする」という曖昧な感覚に惑わされないようにする練習も役に立ちますね。 

高市総理大臣誕生!

とうとう高市さんがめでたく日本の総理大臣に就任しましたね。ほぼ大丈夫だろうとは思っていたのですが、ちょっとだけ心配していました。

ただこれからが大変です。というのも、高市さんはきっと財務省に対して真っ向勝負を挑むことになると思われるからです。

これまで長い間、誰も逆らうことができなかった財務省ですから、これは文字通り命懸けの戦いになるはずです。

高市さんが中心となって、これからは積極財政を強力に推し進めていけるのかどうか、ここは日本の未来がかかっていると言っても過言ではないはずです。

高市内閣が発足して、新たな閣僚人事が発表されました。私の注目するところは、官房長官の木原稔氏と財務大臣の片山さつき氏。

このお二人のタッグが、財務省に切り込んでいくことになるのでしょうね。それともうお一人、経済安保大臣の小野田紀美氏。

小野田さんは、高市さんとの連携も完璧で、高市さんに勝るとも劣らない誠意ある政治家だと思っています。

維新との連立をしましたが、それでも少数与党であることには変わらないわけで、前途多難であることは明らかですが、ぜひとも頑張って欲しいと思いますね。

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思考実験をしてみる その3

今回は、身体からやってくるあらゆる感覚についての思考実験を試してみたいと思います。

例えば、頭が痛いという経験をした時のことをリアルに思い出してみてください。私たちは自分の頭のどこかの部分に痛みを感じていると思うのです。

ところが、直接の経験に留まってみると、実際にはその不快な感覚という経験が起きているだけなのです。

その感覚には、頭という身体の部位と紐付けするどんな情報もありません。つまり、この頭痛というのは直接の経験ではないということ。

本当は、昨日のブログで説明した、あたかも頭が痛いという気がしているということに過ぎません。

あるいは、自分の肘の部分をもう一方の手で叩いて、叩かれている肘の感覚が起きていることを経験してみるのです。

この体験にもたくさんの思考による答えが混じってしまいます。自分の肘を手で叩く、というのは全てが思考による想像です。

直接の体験に留まると、なんらかの感覚がただ起きているだけに過ぎないし、その感覚が身体のどことも紐づいていないと気づくのです。

この実験は難易度が高いように感じます。というのも、私たちは自分の身体がその感覚を作り出しているという根強い思い込みを持っているからです。

根気よく、繰り返してこの思考実験をしてみてください。いずれは必ず、感覚には場所がないということに気づくようになるはずです。 

思考実験をしてみる その2

今回は、「〜な気がする」という経験について思考実験を通して検証してみたいと思います。この種類の経験は、その経験が五感を伴わない曖昧なものであることを示しています。

前回のブログで書いた思考実験では、モノの実体を経験していないことを検証しましたが、まさしくリンゴの実体があるような気がする、ということが起きていただけだったのです。

たとえば、過去のある記憶を思い出して、「〜だったような気がする」のように感じる場合があります。

これは思考によって、記憶をイメージとして捉えているため、直接の経験ではないのです。直接の経験に留まるなら、今この瞬間の明確な経験があると分かります。

あるいは、今この瞬間の経験であったとしても、五感を伴わないようなものは、やはり直接の経験ではないのです。

たとえば、自分はこの身体の中にいるような気がする、という場合、その感覚が思考によって作り出されているのです。

そのため、直接の経験のような明確さがなく曖昧な状態のままなのです。ただ、どれほど曖昧であろうとも私たちはそこに強い思い入れがあるので、それがリアルではないと気付けないのですね。

これ以外にもたくさんの「〜な気がする」を日々経験しているので、ぜひ同様の検証をしてみてください。そのどれもが、直接の経験ではないことが明らかとなるはずです。

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思考実験をしてみる その1

以下のような思考実験をしてみたいと思うので、ぜひご一緒に実践してみてください。一気に非二元に近づけるかもしれません。

客観的なものの実体を経験することはできないということを試してみます。通常、私たちは見たり触れたりすることでその対象物が存在すると実感します。

なぜなら、生まれてからずっとくり返して経験してきたことの記憶を元に、モノの実体があるということを決めつけてしまったからです。

けれども、これは実は思い込みに過ぎないのです。たとえば、リンゴを見ているという体験を例にとって考えて見ます。

そのとき、できるだけ思考からやってくる答えを使わないようにすると、リンゴを見ているという経験はないと気づきます。

実際の経験は、ただ色やその色の変化、あるいは輪郭による形という経験があるだけなのです。全く実体という経験はありません。

あるいは、リンゴを持っているとすると、その重さやツルツル感などの感覚が起きていることに気づきます。

またしても、その実体を直接経験するなどということは起きてはいないのです。触覚は1番モノの実体を想起しやすい傾向があるかもしれません。

あるいは、リンゴの甘い香りを感じているとしても、同じようにしてリンゴ本体の実体を経験することはありません。

これで分かったと思いますが、リンゴに限らずあらゆる物質の実体を経験することは決してないということに気づくことができます。

必要に応じて、リンゴ以外の別の物質に対しても同様の実験ができます。たとえば、自分の身体に対してもです。是非試してみてください。

コレ以外の経験はあり得ない

直接の経験に留めておく訓練をしていると、本当に今この瞬間にコレだけがあるということが分かってきます。

どうやったって、コレ以外が見つからないのですから。勿論、過去も未来もないし、場所というのもコレだけになるのです。

試しに今日生まれたという感覚になってみると、これまで生きてきたあらゆる経験主体としての自己が消えてしまいます。

そうなると、なんだかペラペラな中身のない自分のような感じがしてきます。これでも本当に個人としての自分がいるのかと。

結局のところ、この個人としての自分というのは、思考が作った過去の全ての経験を重ねた存在ということなのでしょうね。

経験主体というのは存在しないので、誰もコレの中には入り込む余地がありません。つまり、コレが全てなので誰も見当たらないということになってしまうのです。

コレ以外の経験は不可能だし、コレ以外の何処かもない。コレは今この瞬間の現れだし、気づきでもあるということですね。 

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今まさに時代の転換点にいる

今日本の政治がとても重要な岐路に立っている感じがしますね。もしかしたら、これは政治の分野に限らないことかもしれませんが。

つまり、ずっと負のエネルギーに汚染された人々によって、日本が彼らの支配下に置かれていたということだと思います。

それが今大きな変化のうねりのようなものが来ているのだろうなと。それが鮮明に見えているのが政治ということだと。

日本国民の敵は外国にあるのではなくて、日本の政治と政治家によるものが最も大きいという不可解な状態がずっと続いてきたのです。

詳しいことは分かりませんが、それでも見えないところで暗躍してきた負の勢力が、少しずつ弱体化しつつあるのだろうと。

来週にでも高市総理大臣が誕生することで、これまでの財務省のコントロール下にあった財政の舵取りが一新する可能性が出てきたのです。

これが、私たちの毎日の生活を豊かな方向へと舵取りすることになるのは明らかですね。こうした変化は、私たち一人ひとりについても言えるのです。

長年に渡って溜め込んできた負のエネルギーというウミを出し、そこに光を当ててクリーンにすることで、人生そのものがより軽く清々しいものへと変化するのです。

2025年の秋は、日本にとってとても印象に残る大事な時代の転換点ということになりそうです。しっかり、見守っていきたいと思いますね。

あるのはただコレ

本当はもうはっきりと分かっているんですよね。何がって?それは、何がどうなろうが何も変わらないということ。

私たちは、つい、あれが無事終われば…とか、あの懸案事項が解決したら…、政治がもっと良くなれば…などとちょっとした希望を抱いているのです。

あれがああなったら、何かが変わる。お金がもう少しあれば、もっとこうできる。あの人と結婚できれば、もっと幸せになるに違いない等々。

ところが、私がこれまで生きて来て実感していることで言えば、特に何も変わらないということなのです。

これはもう明白なんですね。きっと人間は今ある事柄になんらかの不満足を感じていて、それが克服できればもっといい人生になると信じているのです。

もうそろそろこうした悪あがきをやめて、いつでも今この瞬間にあるコレを受容することなんだろうなと。

だって、コレ以外は何もないんだし、コレではまだ足りないと言ってしまった瞬間に、自分で自分を不満の中へと陥れてしまうのですから。

コレ以外は本当に何もない。コレにつきます。あるのはただコレ。

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