真理を求めるのをやめること

私たちはいつも真理を捜し求めています。この真理を時として正しさと勘違いしてしまうこともありますが、それでも究極のところでは真理を探究しようとするのです。

それは意識せずとも、自分の人生やこの世界、社会全体の中に真理を見出してはいないということをどこかで悟っているからだと思います。

この世界においては、何か物質的なものを欲して、それを求めた結果、それを手に入れることは不可能ではありません。

お金にしても家にしても、それなりに努力することによって願望を達成することもできます。ところが、真理だけは違います。

真理を捜し求めて、それを手に入れられるかと聞かれたら、それは不可能だと答えることしかできないのです。それはとても簡単な道理です。

なぜなら、求めているのは私たちの心であり、思考であるわけですが、それ自体が真理の中にはないからです。もしもそれが真理の一員であるなら、真理を求めるはずがありません。

真理ではないとどこかで察知しているからこそ、真理を捜し求めてしまうのです。従って、真理でない心が求める真理を手に入れることはできません。真理でないものが、真理になることはないからです。

実はとても逆説的なことなのですが、真理を捜し求めることをやめたときにこそ、真理を見出すことができるということです。

真理を求めること自体が真理から遠ざかってしまうということを言っているのです。求めることを諦めたとき、その心を手放すことができたときに、そこに真理があったと気づくはずなのです。

求めることを手放したときに、それまで求めていたものが向こうからやってくるというのは、何とも皮肉なことですね。でもこのことは、自分の意志の力で寝ようとしても寝られないということと同じです。

寝付くときというのは、寝るということを求める思いを手放すことができたとき、それが自然とやってくるのです。真理もそれと同じだと思えばいいのです。

私たちは求めることをやめたとき、あらゆるものをすでに持っていたことに気づくということです。確かに皮肉なことではありますが、求めなければ救われるということはどれだけ幸運なことでしょうか。

やや面倒な自分を発見

最近、というかもうかなりの期間と言ってもいいと思うのですが、あれほど大好きだったテレビをあまり見ることがなくなってしまいました。

3.11の直後はかなりニュースに釘付けにはなっていたものの、内容があまりにひど過ぎることが分かってからは、それもほとんど見ることがなくなったのです。

たまたま昨晩、ずっとファンだったあるお笑い番組をまたやるということを知って、数日前からとても楽しみにしていたのです。

急いで用を終わらせて、準備万端整ったところでその番組を見たのですが、どうも以前のようには大笑いすることができなくなっていることに気づきました。

ネタがつまらないということではないと思いますし、確かに番組の途中ではゲラゲラ笑い転げたりもしていたのですが、何かが以前とは違っているのです。

それは、自分の中の何かが変わってしまったというのが本当のところなのかもしれないと気づきました。お笑いは今でも大好きなのですが、それだけでは物足りなさを感じてしまうのです。

以前ならお笑いだけで生きていける、というくらいに思っていたものが、それだけでは不満を感じている自分が確かにいるということに気づいたのです。

自分が楽しい時間を過ごすというのは大切なことです。リラックスできる、快適な時間を持つこともとても大事なことですね。でもそれだけでは、満たされないということです。

少し面倒なことになってきたという感じもしないではないのですが、でもそればかりではなくて、もっともっとある意味貪欲に自分の気持ちが自然と向く方向を見てみようと思うのです。

それは、今までの自分の人生にはあまりなかった不慣れなことなのかもしれないですが、それでも少しずつそちらの方向に向かっていっているような気がします。

力まず、自然体でいて、それでも心のどこかが熱くなれるような、そんなことを探し始めているような予感がしています。

どうなろうとも、そろそろ放射能もそれほど怖い年齢でもなくなっているので、これからの人生は思い切り何かのために生きれたらいいなと思うのです。

変わらぬ自分

私たちは年齢を重ねるごとに、様々な経験を積むことによって知識や知恵が豊富になったりして、立派な大人へと成長していくわけです。

幼い頃は、暗いところが怖かったのに、全く大丈夫になってみたり、ひとりで留守番ができなかったのに、一人が快適に思えるように変化します。

すぐに気分を悪化させるような自分だったのが、よほどのことが起きない限りはかなり冷静に対処することができるようになったり。

そうやって、ありとあらゆるところが未熟であったのに、少しずつゆっくりとではありますが、成熟した人間へと向かっていくのです。

しかしながら、自分の心の中心の部分を見つめてみると、あの幼かったころと何ら変わっていないのではないかと思われてきます。

一人の人間としては、対外的にも内面的にも大きく進化しているのでしょうけれど、自分のコアとなるところは、あの頃のあの自分が以前と何も変わらずにあるのです。

それは、正確には自分が何歳のときのことかはわかりませんが、突如として「ここに自分というものがいる」ということを知ってしまった、あの時の自分なのかもしれません。

そのときにこそ、この自分という自意識が発生したのでしょうけれど、それが自分であるとの思いそのものはきっと死ぬまで変わらずにあり続けるということなのですね。

あの時以降に起きてきた自分の変化というのは、本当の変化というよりもそのコアの部分の上にいろいろなモノを付加していっただけなのではないかと感じるのです。

そうやって考えてみると、この自分との付き合いは本当に長きに渡って合いも変わらずに続いてきたのだなと思うのです。

そして、そのコアの自分はこれからもこのままにいるし、そのまま死んでいくことになるのだろうと。そのときには、全く変わることのない自分にご苦労様と声をかけてあげるかもしれません。

セラピストという仕事

急に気候が暑くなったせいか、何となく身体がだるくて仕方ありません。こうした外気温の変化に身体がついていけてないなあと感じることは今までにもよくありました。

ところが、クライアントさんを前にしてセッションをしているときには、不思議と大丈夫な状態になるのです。というより、身体のことを若干忘れてしまうといったほうがいいかもしれません。

こうしたことは誰でも経験していることで、明らかに風邪を引いて高熱が出ているとか、具体的な病気の症状があり、それがとても辛いような場合を除いては、その間だけは元気になってしまいます。

自分でもゲンキンなものだなあと思うのですが、それでも意識的にそうしているわけでは決してないので、セッションが終わるとまた具合の悪い状態へと戻ってしまいます。

そういう意味からすると、仕事というのは本当に自分にとって助けになってくれるものなのだなと思うのです。

勿論、いやいや続けている仕事の場合であったとしたら、そうはいかなくなるかもしれませんが、自分の場合はある意味とても楽しむことができるので、そういった現象が起きるのだと思っています。

本当だったら、気分のすぐれないときには仕事をせずに、一人静かにしていたいと思うのが当たり前なのでしょうけれど、私の場合はそうではないということです。

適度にクライアントさんとの時間を持たせていただくことが、健康上とてもいいし、自分にとって大事なことなのだとつくづく感じるのです。

身体のことばかりではなくて、クライアントさんが抱えておられる様々な問題を疑似体験させていただくことによって、とても多くの経験をさせてもらえるという利点もあるのです。

セラピストという仕事を大変な仕事だと思ってる方が沢山いらっしゃるのを知っていますが、実は自分にとってはメリットばかりなのです。

明日も私の健康と貴重な経験のために、クライアントさんが来てくださることに感謝せずにはいられません。

ガイガーカウンター

福島第一原発から飛び散った放射性物質が、徐々に、そしてじわじわと全国に広がりだしているように感じています。

ここ東京においても、下水処理場からかなり高い放射線量が検出されるようになってしまいました。それは当然といえば当然の成り行きです。

というのも、例えば私が部屋の床を雑巾がけしたとすると、雑巾に付着した放射能は雑巾を水洗いしたときに下水へと流れていきます。

そうしたことが各家庭で起きているのは事実なわけですし、吹き溜まりのような場所に溜まった放射性物質が雨などによって、側溝などから下水に流れ込むことも想定されます。

したがって、それほど高い線量ではない地域であっても、下水処理場へ向かうまでにそれは密度を高めていくはずなのです。

下水処理の段階で、汚泥焼却などによって放射性物質は煙の粒などと一緒にまた拡散していくわけで、今は福島第一原発からの放射能よりもそうした二次的な拡散にも注意する必要があると思うのです。

そんなこともあり、実際に身の回りの線量を測ってみたいなと思って、武蔵野市議会議員にガイガーカウンターを貸して欲しい旨メールしたのですが、なしのつぶてでした。

仕方なく、自分で購入しようかと思い、ネットでめぼしいものを見付けておいたのですが、その直後に中部大学教授のT氏のブログで推奨ガイガーカウンターとして紹介された途端に、納期が9月になってしまいました。

これは買うなってことかなと思って、今諦めようかどうしようかと自分の心と格闘中です。今までの例でいくと、本当に必要なものは必ず何らかの方法で手に入ることになることも分かっていますので。

生きている間に、ガイガーカウンターを必要とするような日が来るとは、予想すらしていませんでした。これは、国家レベル、あるいは人類レベルでの大量の膿を出す時期がやってきているということなのだと思っています。

良心的な人たち

殺伐とした世の中においても、どこにでも必ず良心的な人というのはいるものです。そういう人たちを見ると、何だか心を暖かくさせられる思いがするのです。

もう随分昔のことですが、バスで帰宅途中のことでした。バリッとしたスーツを着込んだいかにも紳士に見える中年の男性が、立っている自分の前の座席が空いたときに、隣にいたラフな服装の若者にどうぞとその席を譲っているのです。

その姿がびっくりするほどの低姿勢で、あれほど礼儀正しく席を譲られたら誰でも驚いてしまうと思うのですが、その若者もびっくりして、自分は座らないからという意思表示をするのがやっとのことでした。

それでは座らせていただきますというような挨拶をして、その紳士はようやくその席にすわったのです。その一連のやりとりを見ていて、思わず「すごい!」と感心してしまいました。

まだ若かった自分も、できたらその人のような中年になれたらいいなと思ったものです。その一方で、会社の中で野心的な人というのはどうも、そのような良心的な人とは違うと感じていました。

野心があるというのは決して悪いことではないと思うのですが、自分がこの人は良心的な人だと感じる人の中には野心的な人が少ないというのが本音だったのです。

今は超大企業になってしまったマイクロソフトは、その昔かなりあくどいやり方でライバルの会社を買収したり、倒産に追い込んだりということがありました。

法律に触れるぎりぎりのやり方で、野心的にどんどん発展していったさまを見てきた記憶があるのです。つまり、野心的な企業が良心的な企業だと感じたこともなかったと思うのです。

そういう意味では人と同じだなと。例えば、政治家になる人は元々野心的な人が多いのでしょうけれど、その中でも特に野心的な人物というのは、私からみると良心的な感じがしない場合が多かったと思います。

なぜ、野心的なことと、良心的なこととは両立するのが難しいのかなと思うのです。それはきっと、両立する条件というのが、私心を手放すことだからではないかと。

自分の利益のための野心とは、けっして良心的にはなれないということかもしれません。誰かのため、公のために私心を手放した上での野心的な振る舞いこそが、良心的な心と一つになれるということなのでしょうね。

自由に生きる

子供のころに白いスピッツの雑種犬を飼っていたことがありました。今から思うととてもかわいそうなのですが、自分は友達と遊ぶことに夢中でほとんど散歩をしてあげることもなかったのです。

彼は時々、みずから首輪をはずして大喜びで近所を走り回ったりすることがありました。飼い主としては、心配なので何とかしてつかまえようとするのですが、ぎりぎりのところまででスルッと逃げられてしまうのです。

一度そういう状態になると、なかなか捕まえることができずに、随分と手を焼いたと思います。でも、彼の身になって考えればそれも当然のことですね。

来る日も来る日も毎日、鎖に繋がれて自由にあちこち歩いたり走り回ったりすることもできなかったのですから。

偶然に首輪がはずれて自由の身になったら、それは嬉しくておいそれとつかまっては堪らないというのも分かるというものです。

そのときの彼のはしゃぎようと言ったらなくて、普段の鬱憤を晴らすがごとくにあちこちに飛び跳ねて遊びまくるのです。

それでも、目の届かないような遠くに行ってしまうことはありませんでしたので、いつかは捕まってしまい、また元の不自由な生活に戻されてしまうのでした。

彼と比べて自分は毎日なんて自由な生活をしているんだろうと、しばしそのことに思いを巡らしたこともあったと思います。

しかし、今になって自由というものをよく見つめてみると、物理的には確かに自由を満喫しているかもしれませんが、心の自由についてはどうでしょうか。

人はいろいろな制約を自分に課して、その枠内で何とか生きているのではないでしょうか。自分の命がもうすぐ尽きると分かったら、もう少し自由な気持ちで生きることができるはずです。

それなら、今日からでも自分の心の不自由さをよく見て、そうした自分で自分を縛っている原因を突き止めて、そこから開放されるようにしてみることは無駄なことではないはずです。

どうせ一度の人生です、もっともっと自由に何事にも縛られずに、人から何と思われようと気にせずに自分の人生を楽しむことにしようじゃないですか。

明け渡し

奇跡のコースでは、私たちの役割はたった一つしかないと教えてくれています。その役割とは、聖霊(自分の心の中にある真実の部分)に自分自身を明け渡すということ。

私たち人間にはさまざまな能力があります。思考することや、話すこと、身体を使って運動したり、何かを感じることなど。

そうした自分の能力を丸ごと聖霊に委ねること、どうぞ使って下さいと聖霊に対して明け渡すことが、私たちの唯一のするべきことだと言うのです。

そのためには、自分にはいろいろなことが分かっているという思い込みを手放すことがどうしても必要になるのは明白です。

なぜなら、自分の能力で理解していると思っていること、独自の判断や思考によって実行することができるという思いをもったまま、明け渡すなどというのは到底不可能だからです。

私たちが、自分には何が正しくて何が間違っているかを判断できると信じていることは、聖霊からするとたった一つの基本的な間違いから生じることだと分かっているということ。

それは、私たちの本当の姿、本当は何者なのかということについて、大変な間違いを犯している、ただその一点だけが訂正されるべき唯一の間違いであるということです。

それ以外のことはまったく取るに足りないことであり、つまり正しいとか間違っているということを判断することさえ、意味のないことだと言うことなのです。

だとすれば、私たちが有しているすべての能力の使い方自体を改める必要があると分かります。自分には本当のこと、真実についてはさっぱり分かってはいなかったと認めること。

その上で、すべての真実を知っている聖霊に自分自身を明け渡すこと、そのことによって聖霊の邪魔をしないで済むことにもなるのです。

ということは、聖霊は自分の役割を私たちを通して実行することになるのです。間違っても、聖霊の役割を自分たちの役割と混同しないようにしたいものです。

流れの中で

私たちは、自分のことを尊重することは大切なことだと信じていますが、そこにはもしかすると大きな間違いが潜んでいるかもしれません。

それは、自分という存在は単独で価値があると思おうとすることと同じように思えるからです。実は、私という存在というのは与えられたものを与えるという連鎖の途中にあるということ。

その流れを堰きとめてしまうと、自分を含めたすべての価値がなくなってしまうのです。与えることは与えられることと一つであると分かれば、手に入れることで満足するという発想こそがその流れを止めてしまう元凶であると分かるはずです。

この時間の世界では、与えることが先に起きて、その後に与えられることがやってくるように知覚するようですが、本当は同時です。そしてその流れの中にこそ、自分を含めた価値があるのですね。

このことは、この世界の経済のメカニズムにも同じような部分があると見て取れます。つまり、自分や家族の未来を守るためにせっせと貯金をするということは、お金の流れをそこで堰きとめるという面があるのです。

経済の活性化はお金の流れをよくすることが絶対に必要なことなのは言うまでもありません。日本という国は世界一の借金大国なのですが、国民の貯蓄という面ではとても金持ちでもあるのです。

それは、個人の幸せを重んじるあまりに、一人ひとりが防衛にエネルギーを注ぎ込み過ぎてしまい、もっと大きな有機体としての国家などのことを疎かにしてしまっているということです。

それは実は本末転倒であり、有機体を全体としてみたときに、その中を新鮮な水が流れ続けることによってのみ、私たちは意味があるということを思い出す必要があるのです。

人との活動的な関係性の中にこそ、与え与えられるという流れを継続することができるのです。そこにこそ、私たちの全価値を見出すことができると思うのです。

そしてそれは、一人ひとりが満ち足りた心でこの人生を生きるということに直結すると思うのです。それを忘れないように、この現実の世界で自由に泳いでいきたいものです。

一つの心

十分に自己愛を見出すことによって、私たちは自立した人生を送ることができるようになります。何よりもまず自分の心や身体を大切にして、自己犠牲を排除することによって快適な人生になるわけです。

しかし、個体としての個人が自立して他と明確に区別されるようにして存在するためには、相当に我が身を守り続けることが必要なのです。

そのためには、自分と他人の違いというものが是非とも必要となります。人はそれぞれの差異によって、比べることが可能となるからです。

本当のことを言うと、そうしたたゆまぬ努力、他人とは違うということに対する警戒を怠らないようにエネルギーを使わなければ、個の存在は怪しいものとなってしまうのです。

それは、例えば透明な水の中にさまざまな色のインクを一滴ずつ垂らすとすると、しばらくの後にすべてのインクの色が混ざり合って、水全体が一つの色に溶け合ってしまうことに似ています。

もしも、そうさせずにおこうとしたら、つまり一つの色のインクが他の色のインクと混ざらないようにするためには、それ相当の仕組みを用意しなければなりません。

インクごとの比重を変えるとか、インクとインクの間に油のような溶け合わない層を作っておくとか、それは大変なことですね。

沢山の色のインクが、一つの水槽の中で互いに交じり合わずに固まりのまま、互いに別々の場所を占有しているさまを想像してみてください。

なかなか綺麗なものを想像できるかもしれませんが、その裏には巧妙な仕掛けがあるということです。私たち人間についても全く同じことがいえるのです。

個人としての自分が他と混ざらずに個として存続するためには、それぞれの違いを識別して、比較して、それを競争することで自分を防衛するという必要があるのです。

それが人類がずっと続けてきた戦争であるし、常に誰かを間違っていると裁こうとする思いであるとも言えるのです。

本当は、そうしたことを潔く手放してしまえば、すべてのインクが交じり合うように、私たちの心はたった一つだったということを思い出すことができるはずなのです。