「すべて」=無限

全体、あるいは「すべて」という概念は、無限でなければなりません。なぜなら、「すべて」というものが有限であるとしたら、その限界の外側というものを意識しなければならなくなるからです。

従って、「すべて」ということは限りがなく、ありとあらゆるものを包含するということ、「すべて」に含まれないものはないということです。

当たり前と言えばそうなのですが、しかしよく考えてみると私たちには、この「すべて」の正体である無限ということが本当には理解できません。

なぜなら、自分という存在を有限のものだと信じているからです。有限である自己が、無限について理解するということは原理的に不可能なことです。

従って、私たちが理解しうる無限とは、有限のものが沢山集まった末にあるものだという明らかに間違った概念に基づいているとも言えます。

私たちは心情的にも、無限は困ると思っています。もしも宇宙の広さが無限だとすると、それは本当に理解を超えてしまうことになるのです。

しかし、そのくせ有限のものについては、やはりその限界の向こうがあるはずだから、それは「すべて」ではないということも分かっています。

このようにして、私たちのマインドの中ではどうしようもない矛盾が生じているということです。何かがおかしいと結論付けざるを得ません。

何がおかしいのか、それは最初に戻って自分を有限の存在だと信じてしまったことにこそ、元々の矛盾の原因があると考えるのが順当です。

ということは、自分を無限の存在だということに気づくことができれば、矛盾を抱えて苦しむこともなくなるわけです。

そしてそのことを本当に思い出すことができたら、有限という概念には何の意味もないということにも気づくのかもしれません。

真の自己を見ると、それはいつも自分が無限であることを教えてくれるように感じます。その感覚を疑わずに、より明確に浸ることができるようになりたいものです。

真の民主主義

先月の初めだったと思いますが、国際テロ組織アルカイダのリーダーであるウサマ・ビンラディンがアメリカの部隊によって殺害されましたね。

ビンラディンは、アメリカで起きた9.11同時多発テロを指揮したリーダーとして、国際手配されていたわけですが、アメリカ側は彼を追い詰めて殺害するまでに約10年かかったということになります。

そして、聞くところによると、彼は殺害されたときには家の中にいて、武器を持ってはいなかったという情報もあるようです。

それが本当だとすると、アメリカの部隊、これは背後にはアメリカ政府があるわけですが、丸腰の人間を殺害したということになり、民主主義の精神が揺らいできます。

攻撃のできない相手をその家族も含めて、全員射殺してしまったということは、彼の血筋を一刀両断したかったということは確実です。

きっと彼の子供たちは、裁判になれば無罪となって、ビンラディンの意志が受け継がれて、これからもアメリカ国民がテロの標的になる可能性が大きくなることを危惧したからでしょう。

確かに、アメリカ政府の考えを理解することはできますが、日本を含めた民主主義の国家としてこのようなことが容認されるはずはありません。

勿論、正当なプロセスを経て、裁判を行ったうえで死刑が宣告されるならいいのですが、いかなる事情があろうとも、生きたまま捕捉することができる場合での殺害となると、大問題です。

今後、この事件がアメリカ国民によってどのように扱われていくのか、単に国民の敵をやっつけることができてよかったということで済んでしまうのか、とても気になるところです。

彼らの民主主義が本物なのか、ニセモノなのか、それが暴かれることになると思います。そして、我が日本は大丈夫でしょうか。

もしも、この事件が日本で起きたとしたらどうなのか、一度じっくり考えてみることも無駄ではないと思っています。

貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)

今までに我々人類が作り上げてきた物語には思わず引き込まれてしまうような興味深いものがありますね。それは、神話だったり小説や童話にいたるまで様々なものが数多く生み出されています。

その中には、貴い生まれの者が流れ流れて遠い国までさすらうといった種類の話しが沢山ありますね。そういう物語のことを、貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)というそうです。

貴種とは、つまりは貴い生まれ、王子や王妃などに代表されるような位の高い家柄の人のことです。そういう人(子供の場合が多い)が、流離の旅に出る譚(お話し)だということ。

辞書には、次のように書いてあります。「本来高貴な生まれの子女が、事故や陰謀により陥った不幸な境遇で育ちながら、旅・冒険・活躍をする」、と。

主人公自身は、自分の家柄のことなどは知らないままに平民の中に混じって苦労しながらも、徐々に活躍していくといったものです。

「奇跡のコース」のテキストの中には、この貴種流離譚のことを思い出させるような内容が時々出てきます。例えば、次のような表現があります。

『分離状態とは、いわばきわめて重要なものから小さなものへと身を落としたようなものだ。』我々人間というものは、本当の自分の姿のことを忘れて、卑小なものへと身を落として生活していると言っているのです。

本当の自己とは、神の子としての真の神聖さを持っているし、分離という悪夢から目覚めたときにはすべての人は一つの心として分かち合っていることを思い出すことになると言っています。

私たちのこの人生という、冒険活劇が一体いつまで続くのか、それは一重に私たち自身が本当の自分のことを思い出そうとするかどうかにかかっているのです。

そしてそのときには、貴種流離譚のような物語の最後のように、本当の心の平安を思い出し、すべての苦しみから解放されることになるのでしょうね。

全体性と個体性 その3

昨日の続きです。

私たちの身体を作っている60兆個のすべての細胞には、身体全体の情報である遺伝子が一つの例外もなく組み込まれていて、そのために個体性と全体性がみごとに調和しているというお話しをしました。

一つひとつの細胞がただそれ自身のために生存しているのではなくて、全体を生かすためにだけ生命活動を続けているということ。

そして、そのことは私たち一人ひとりの人間についても同じことが言えるはずだということです。それなのに、私たち人間は個々の命こそが最も尊いものであると勘違いしてしまっているのです。

その理由は、細胞にとっての遺伝子に当たる全体(この世界、あるいはこの宇宙)に対する情報(知識)を失ってしまったと思い込んでいるからなのだということです。

もしも、その知識に目覚めることができたら、自分の使命が何なのかということを完全に思い出すこともできるようになるはずなのです。

それは、すべての人々に共通に分け与えられているもの、完全に分かち合うことができるものを探すことによって、全体に対する知識を思い出せるはずだということ。

もしかしたら、それはある種の神聖さであったり、純粋な愛の心であると言えるのではないかと思うのです。

なぜなら、そうしたものこそレベル付けや段階というような概念がないものだからです。度合いというものがある場合には、完全な共有は不可能になってしまいます。

目の前にいてくれる、その人の中にそうしたものを見出すことができたら、それが全体性への目覚めなのではないかと思っています。

そのときにこそ、私たちは自分という個体が100%全体のためにあると分かるのです。自分のために生きるのではなく、全体のためにこその個体であると気づくということです。

それは本来の自分、本当の自分の姿を思い出すことでもあり、そのときにはこの世界での自分の生のあり方が根本から変わってしまうかもしれません。

そして、それはきっと心からの平安、完全に満たされた心の状態に一瞬にして到達することができるのではないかと信じています。

全体性と個体性 その2

昨日の続きです。

私たちの身体を作っている60兆個の細胞の一つひとつが、個体としての機能を従順に果たしながらも全体としてうまく機能しているのは、それぞれが身体全体についての設計図である染色体という遺伝子情報を基にして機能しているからだというお話しをしました。

どの一つの細胞をとってみても、その細胞の存在目的は全体としての肉体のためであるということが明確になっているということです。

そうやって全体性と個体性が見事なまでに調和することで、一人の人間の身体が成り立っているわけです。

そして、私たち人間といえども、全体としてのこの世界というものと個人としての自分という個性の双方を知りつつ生きています。

しかし、人間一人と細胞一つの一番大きな違いは、個体一つの存在目的にあります。私たち人間は、個人の命ほど大切なものはないという根深い信念を持っています。

全体のために存在するというよりも、個体そのもののためにこそ命があるという信念であるわけです。この人と細胞との存在目的が正反対になってしまっている理由とは何でしょうか。

それは一重に、私たち人間が全体についての情報、つまり細胞で言えば身体の設計図である遺伝子情報を忘れてしまったからに違いありません。

もしも、その情報のことを思い出すことができたら、私たち一人ひとりの心の持ち方、あるいはそれを基にした生き方が全く変わってくるはずです。

本来の私たちの存在目的に目覚めるためには、是非とも細胞にとっての遺伝子情報、つまり全体性についての情報を思い出さなければならないということです。

そしてそれを思い出すヒントが遺伝子にあります。それは、あらゆる細胞に完全に共有されている情報だという、その一点なのです。

つまり、私たち一人ひとりが誰一人として抜け落ちることなく、全員に共通のものとして持っているもの、それを探せばいいと言うことになります。

個々によって違いを発見できるようなものではなく、逆に完全に一致しているものとは何かを知るためには、それを自分ひとりのうちに見出すことは不可能だと分かります。

明日に続く

全体性と個体性

誰もがおよそ知っているように、我々の身体は60兆個の細胞から出来ています。それは70億を超えそうだと言われている世界の人口の数と比べても、相当に天文学的な数字なわけです。

ところで、その一つひとつの細胞ごとに、これもよく知られているように染色体と呼ばれる遺伝子が組み込まれています。

これは、表現を変えて言えば、個々の細胞自体が身体全体の設計図をそれぞれに持っているということにもなるわけです。

例えば、爪の細胞の一つをとってみても、脳内の一つの細胞をとってみても、身体全体はこのように出来ているという全く同じ一つの情報を保持しているということ。

だからこそ、60兆個の細胞一つひとつが、それぞれ独自の機能を果たしながらも、全体としては一人の肉体としての生命活動を続けることができるのです。

そうした、全体性と個体性という両極端とも言える二つのものが、何の問題もなく、あるいは互いに連携することによって完璧な肉体があるということですね。

細胞同士は、どれがどれに依存するという一方通行的なものは一つもなく、それぞれが相互に依存しあって生きているということです。

個々のどの細胞一つとってみても、それらはすべて全体のためにあるということが明確になっています。決して、その細胞がそれ自体を生かすためにあるのではないと知っています。

なぜなら、細胞の一つとしての存在理由はまったくないからです。細胞はその機能を果たしながらも常に全体を存続することだけが唯一の存在理由であると分かっているのです。

なぜそうした、唯一の目的を忘れることがないかといえば、個別に大元からコピーした染色体をそれぞれが持っているからに違いありません。

このことをよくよく見つめているうちに、それは私たち人間の本質と同じなのではないかということに気づかされることになります。

明日に続く

視野の広がり

人は誰でも自分が信じていることを正しいと思いたいはずですし、実際に思ってもいます。そういうものがその人の生きるうえでの礎(いしずえ)となっているのですから。

自分があることに対して、何が正しいことなのか分からないということはいくらでもありますが、しかし正しいと思っていることを信じないでいることはできません。

誰に何を言われても、自分の信じること、自分がこれが正しいことなのだと思っていることを曲げない人がいますね。悪く言えば頑固者ですし、よく言えば優柔不断ではないはっきりとしたものを持っているということになるわけです。

人をどちらかのタイプに分けるとすると、正直申せば私はかなり優柔不断であると告白せねばなりません。

特に若いときには、誰かがこれが正しいと言えば、なるほどそうかもしれないと思い、別の人が別の物事を正しいと言っていれば、今度はそれが正しいと思ってしまうということが多々あったからです。

自分でも、何でこんなに固定した考え方をすることができないのか不思議でした。例えば、神を信じるかと聞かれても、あるときにはいるかもしれないと思い、またしばらく時が流れると神など信じないということもありました。

それが年齢を重ねるごとに、少しずつ「変わらないもの」が自分の中に出来てきた感じがします。それでも、このまま死ぬまで考えが変わらないだろうとは全く思えないのです。

それよりも、あることを正しいはずだと信じていたとしても、いろいろな経験や気づきなどによってそれまでよりも大きな視野で見ることができるようになった時に、違った見方ができるようになるということが沢山ありました。

それは正しいと信じていたことが間違っていたということではなくて、その範囲では相変わらず正しいと分かると同時に、もっと広い視野で見たときに場合によっては正しくなくなるということがあると分かったのです。

最近そうしたことが急激に増えているような気がしています。こうしたことが今後も続くのであれば、今まで以上にこれが正しいなどと太鼓判を押すことはできなくなります。

でも逆に言えば、実は自分がどうなるのかとても楽しみでもあるのです。今までまったく気づけなかったことに気づくことができるとしたら、それは本当に楽しみです。

心の柔軟性

今まで沢山のクライアントさんとご一緒に、心の癒しを進めさせていただいて来ました。それはもう、ありとあらゆる問題についてつぶさに向き合ってきたと思います。

そうした多種多様な問題には、直感的にとても大変だと思えるものから、それほどの大問題でもないと感じるものまでありました。

そして、当然大変だと思われるような問題こそ、改善していくのに相当の努力や時間が必要になるだろうと予想するわけです。

ところが、実際にセッションを重ねていくと、私のそうした予想がいつも当たるとは限らないのです。すぐに改善されるはずと思っていた問題がいつまでも続くことがあったり、その逆に深刻な問題と見えるものがあっという間に改善するということもあるのです。

なぜそのように、私の予想通りには癒しが進まないのかということを考えてみると、実は問題の解決、あるいは改善の鍵となるのはその問題の深刻さではなくて、クライアントさんご本人の心にこそ大切な要素があると気づいたのです。

癒しというのは、ある意味それまでのクライアントさんが信じてきたこと、あるいは生き方、考え方というものを変えていく必要がどうしてもあるのです。

従って、深刻さが大きいときには、それだけご本人は追い詰められているために、それこそなりふり構わずに私のセラピーに賭けてくださるのです。

本当は、今までの人生で信じてきたことなどを、他人である私にこうして下さいと言われただけで変えるということはとても難しいことですね。

でも切羽つまると人はとても大きなエネルギーを使うことができるし、また硬くなっていた心を柔らかくして、目新しい考え方などに順応させようとするのです。

それこそが、癒しを進める原動力であるし、もっとも大切な鍵となることだということです。心が柔軟な状態であれば、それだけ受け入れる能力が高くなるということですね。

転移について

セラピスト(カウンセラーでもいい)というのは、とかくクライアントさんから投影される立場にあるのです。それを心理学では転移と呼んでいます。

転移というと、なにやら特別なことのように思えますが、ごく普通の人間関係における投影と全く同じです。ただ、クライアントさんは何らかの問題を抱えてセラピストのもとに来るわけですから、投影しやすい状態にあるというのは十分に考えられることです。

肯定的な転移もあれば、否定的な転移もあり、それこそありとあらゆるクライアントさん自身の心の問題を映し出す鏡として使われてしまいます。

この仕事を始めて間もないころ、ネット上での中傷的な内容の書き込みをされたこともありました。HPの掲示板などへの書き込みで、いわれのない否定的な言葉を書かれたこともありました。

自分もただの人間ですから、それはいい気持ちがしないことも多かったのですが、転移であることが分かっていたので、半ば興味深く見ていたのを覚えています。

個人セッションの中で直接的に怒りをぶつけられることもたまにはありました。途中で帰ってしまわれたり、遠まわしに二度と来ない旨を言われたこともありました。

それが、気がついたらそうしたことがどういうわけか影を潜めてしまい、最近ではあからさまに否定的な転移をされる経験が非常に少なくなりました。

そう思っていた矢先のこと、多分一ヶ月くらい前だったと思いますが、とある人のネット上での書き込みをたまたま見付けて読んでいたときのことです。

名前は伏せてありましたが、明らかに私のことについて書かれていて、それもこれでもかというくらいに大々的に否定した文章になっていました。

その人の名誉のために、私との関係については言えませんが、とにかくそれは単なる否定というよりは憎しみに満ちた思いで書かれているように感じました。

そこに書かれていることの中には、きっと当たっていることもあるのでしょうが、それでもその人の悲痛な叫びを感じて、とても悲しくなりました。

まだまだ、転移はされるようですが、心底からいたわりの気持ちで受容したいと思います。その人の心が一日も早く、救われることを祈るばかりです。

ストイックな生き方

ストイックというのは、禁欲的とか自制的なというように、つまり自分自身に厳しくある事を指すのだろうと思います。

そうすると、自分は完全なる非ストイック的な人間だと言えると思います。言い方を変えれば、快楽的であって自分を律することがとても苦手なのです。

そのことについて、取り立てて自分を責めるということもないのですが、最近自分とまるで正反対とも思えるあるストイックな人について知るようになって、しばし考え込んでいるのです。

そのストイックな人は、傍らから見る限りにおいては非常に魅力的なのです。単に自分には無理だからという理由で羨望するから魅力的に映るのか。

それとも、自分の心の奥にはそうしたストイックな生き方を本当は望んでいる部分があるということなのか、調べてみたいと思ったりしています。

ただ、生まれてからずっと変わらずに快楽主義的な生き方をしてきたわけで、それを急に180度変えるということは実際不可能ですね。

セラピストの立場として、クライアントさんと向き合うときには、口が裂けてもストイックな生き方を提案するということはありません。

なぜなら、ストイックであるためには自分の心身の自然な欲求を抑えてしまう必要があるため、一つ間違えるとそこに自己犠牲が発生する可能性が高いからです。

したがって、ストイックな生き方をわざわざこんな形で取り上げるようなことも今まではありませんでした。しかし、長い間セラピストをしてきて、癒しの王道から少しはずれる可能性のあることにも興味を持つようになったということかもしれません。

だから、人には決してお勧めすることはないのですが、自分の場合についてのみ、ほんの少しだけ、なんちゃってストイックなるものを考案して、実践してみたらどうなのだろうかと思っているのです。

なんちゃってという枕詞をつけるくらいですから、それこそストイックな生き方とは正反対であることが露呈してしまってますね。