使うと増えるもの

我々が暮らしているこの物質世界においては、使えば使っただけ減るというのが常識となっています。バッテリーにしても、トイレットペーパーにしても、ガソリン、シャーペンの芯、消しゴム、何でもそうです。

使っても使っても一見減りそうにないものでも、長い間には少しずつ減少していくものです。私が今叩いているキーボードだって、何年もの間私の指で押され続けているのに変化してないように見えますが、よく見ると若干表面が摺れて減ってきているのが分かります。

しかし、使ったら使っただけ増えていくものがあるのです。それは勿論今挙げたような物質ではありません。それは一体どんなものだと思いますか?しばし、自分の胸の中で想像してみて下さい。

トンチ問題のようにも思えますが、実は心に関連したもの、気持ちとか思いとか、思考など、そういったものは使うほどに増えるものなのです。例えば、ある事柄を心配し出したら、それが益々心の中で広がっていって、その心配が胸いっぱいに膨れてしまったという経験はないですか?

これは、心配するという心のモードを繰り返し使うことで、その心配が何倍にも増えていってしまうということを意味しています。私たちは人生の中で、エゴを使いたいだけ使って生きてきてしまったおかげで、馬鹿でかい立派なエゴが作り上げられてしまいました。まさにマイナスのスパイラルですね。

逆にプラスのスパイラルがあってもいいですよね。それがあるんです。愛を育むという言葉がありますね。あれは、愛を繰り返し使うことによって、自分の中の愛が増えて大きくなっていくということを指しているのです。であれば、愛を使わない手はないでしょう。

自分の心の中を愛で満たすことができたら、どんなにすばらしいことでしょう。そのやり方はたった一つしかありません。愛を使うことを続けていくことです。愛を使うとは愛を与えると言い換えてもいいです。もしくは、もっとシンプルに愛するということです。

愛するターゲットは何でも構いません。パートナーでも家族でも、友人でも、動植物でも、この地球でも、ただ愛を与えることさえ続ければいいのです。ただしエゴを使いすぎて、それが増殖してしまっていると、愛を使うのが難しく感じるかもしれませんね。でもめげずに、身近なところから愛を使っていきましょう。

投影の続きその4

その他の投影のパターンとしては、様々なものがあります。例えば、自分の身体への直接の投影だったり、その全く逆に、自分が直接かかわってはいないような遠いところで起きてる事柄だったりと、本当に千差万別です。

自分の身体への投影としては、病気を始めとした具合の悪さや苦痛、それと怪我です。これはどういった心の闇を投影したものかというと、周りの人を悪者にして、あなたのおかげで可愛そうな自分はこんな悲惨な状態になっているんだということを知らしめたい気持ちなのです。

その気持ちが強く、切実であればあるほど、重い病気になるでしょうし、怪我であれば重傷を負うという形となって表出してしまうのです。だから、どこにも悪いやつなどいない、自分は被害者ではないということに気づけば、病気や怪我は自ずと治ってしまいます。

そして最後に、自分と全く縁もゆかりもないような事象を投影する場合ですが、これはなかなかなるほどと実感することは難しいでしょう。ここから先はある種のファンタジーだと思っていただいても結構なのですが、世の中で起きている悲惨な事件や、地震や水害などの天災など、こういったことも実は自分のうちにある何かの投影として起こるのです。

そう考えると、それでは投影ではないものって一体どんなものがあるというのでしょうか?残念ながら、実は投影でないものは何もないのです。さんさんと照り輝くあの太陽にしても、夜空に煌く星々など、この宇宙をひっくるめて全部自分の内奥にあるものの投影なんです。

でもこれをいきなり真実だと思う必要はありません。大切なのは、投影のメカニズムを忘れることなく、日々の生活にいかして隠された自分の本当の姿を見出す作業を繰り返していくことです。

投影によって闇の中に隠されていた何百、何千という自分の断片に光を当てて、一つひとつを認めてあげるとそれは溶けてなくなってしまうものもあれば、単に間違いだったとして訂正して終わるものもあります。

そうやって、全くぼやけていて何だか分からなかった自分というものの全体像が次第にはっきりしてきて、最終的には完全な自分というものを理解するに至るはずです。それが、癒しというものですし、そこにこそ真の幸せが待っていると思います。

投影の続きその3

投影の二つ目のパターンとして、周りに起きている事象そのものとして投影するという場合について説明します。

例えば、幼い頃から我慢ばかりさせられるような境遇で生きてきて、悔しくても、憎んでもそれを怒りとして表現することができずに、ずっと耐えて自分を抑えてきたような場合。そのようなケースでは度重なる自己犠牲によって、膨大な怒りが内面に溜まってしまうと考えられます。

そうすると、その怒りがはちきれそうな限界を迎えると、それを何とかして外部へ向かって開放しようとします。その時に、開放するためのきっかけとなるものを投影として外側に作り出すのです。 作り出すというよりは起こすと表現したほうがいいかもしれません。

本人にとって一番腹が立つような現実を投影として引き起こすのです。例えば、認められたい一心で人一倍頑張って仕事の成果をあげたはずなのに、どういうわけか上司には全く評価されないことが起きたり、あるいは最愛のパートナーに裏切られたりといったことです。

溜め込んだ怒りがそれほど大きなものでない場合でも、様々な投影による腹立たしい出来事が起こってきます。それこそ、店員さんの態度が悪かったり、理不尽な思いをするようなあらゆる出来事も、投影によって文句を言える状態にするための作戦なのです。

このような場合に、ただむかつく事態に遭遇してしまったとして、怒りを表現して相手を責めることばかりを続けていても何も解決しないのは当然ですね。自分の中の怒りが原因となって、それを投影することで腹立たしい事象が結果として表れているだけなのですから。

何でこんなことばかりに自分は巻き込まれてしまうのだろうとか、どこの職場に行っても似たようなことで辛くなるとか、自分の人生に共通するパターンが見つかったら、それは紛れもない投影の結果ですし、それを直視することで自分の内奥に潜む問題点が浮かび上がってきます。

その他の投影のパターンについてはまた続きとして書くことにします。

投影の続きその2

投影をざっくりといくつかのパターンに分けることができます。まず、一つ目は、周りにいる人そのもの及びその人との人間関係として投影する場合です。そして、二つ目は、周りに起きている事象そのものとして投影する場合です。そして、三つ目は、その他もろもろの投影の場合です。

一つ目のパターンはとても分かりやすいです。都合の悪い自分の部分を抑圧し、それをそのまま周りの人のいやな部分として投影するものです。例えば、自分が人を見下すという行為をしていて、そんな自分を酷く自己嫌悪するような場合、それを深く抑圧したうえで、周りに人を見下してばかりいるような人を出現させるのです。

自分は見下しなどという下劣な行為など全くしない、無関係だと思っているのですから、その人のことを自分とは違う最低のやつだと思うことでしょうね。自分はそんなひどいやつとは違う、とにかくいけ好かないやつがいたもんだと思うのです。

しかし、自分の内面に少しも人のことを見下す部分がないのであれば、見下す人をみても無反応でいられるはずなのです。いやだなと反応すること自体、自分にもそういった面があるという証拠だと気づく必要があるということです。

その上で、見下す人を見ているときに一体なんでそれが鼻に付くのかということを見つめてみることです。そうすると、自分がひた隠しにしてきたダメな自分の姿というものが浮かび上がってきます。

見下すというのは、自分を周りの人たちより高いところに置いて、安心しようとする作戦なのです。そしてそんな作戦が必要だということは、そのままの自分は弱くて、情けなくて、存在する価値もないなどと錯覚してしまっているからです。

そこを見たくない、思い出したくもない、という想いから心の奥に隠蔽してしまい、そういったどうしようもない自分を守るために見下しをしているということを本当は知っているために、見下しをしている人をみると、そのことを奥で思い出させられていやだなと感じてしまうということです。

そして最後は、なぜ自分のことを弱くて、情けなくて、存在する価値もないなどという錯覚を抱いてしまったのかというところを見にいくのです。ここから先は一人でできなければ、催眠療法などを利用するといいかもしれません。

癒しを進めて行って、そういった心の奥の自分に対する理不尽な錯覚を手放していくことができれば、周りにいる見下すタイプの人のことが気にならなくなってくるし、そういった人自体が少なくなってきたりすることになります。

投影の二つ目のパターンについてはまた書きます。

投影の続き

なぜ投影するのかということについては分かったけれど、それをいつでも認められるかというとそうはいかないものです。それどころか、元々認めたくない自分の部分を外側に見せているのですから、それが自分だとは断じて思いたくないというのが本音でしょう。

自分の周りには実に様々な人たちが沢山います。苦手な人、嫌いな人、うまが合わない人、生理的に受け付けない人、憎たらしい人、面倒な人、理不尽な人、怖い人、こういう人が自分のそばにいたら、大抵の人は遠ざかろうとします。

しかし現実の世界では、いやだからといって簡単に離れられない事情の人達もいますね。毎日顔を合わす学生の時の同じクラスや同じ部活の友人、あるいは同じ職場の同僚、先輩、上司、勿論家族にしてもそうですね。そういう場合は毎日が我慢やイライラの連続になってしまうかもしれません。

そして、その人さえ自分の周りから消えてくれたら、その人がもっとこうなってくれたなら、自分は随分と楽になれるのにと思うものです。そのような人たちのことを思うとき、それも全部自分の投影なんだと思えるかどうかです。

通常は投影だとは思えないし、思いたくもないはずです。だから、いがみ合うことにもなるでしょうし、相手を憎んで、自分のそばに居られないようにしてやりたいと思ってしまうかもしれません。それが出来ない人はただただ我慢の日々を過ごすだけかもしれません。

怒りの感情に任せて、相手を攻撃してしまいがちなのが我々人間の常ですが、ここでこの人は自分のなんらかの投影の結果なんだということを思い出して見ることです。最初は思い出すだけでもかまいません。

そこから人生の進む方向が大きく違ってくるのですから。相手を攻撃したくなったり、実際に怒りを向けてしまったり、相手の言動を許せないなど、そういう自分を責める必要は全くありません。

逆にそういう素直な自分の反応をまずしっかりと受け止めてあげることが大切なんです。出来る限り自己嫌悪を使わないように注意しながら。その上で、あの人のあんないやな面が自分の内面のどこかに潜んでいるのかとなと思ってみるのです。

そこから癒しが開始されるのです。投影にもいくつかのパターンがあり、それによりどう対処していくことが癒しにつながるかが決まってきます。この続きはまた書いていきます。

なぜ投影するのか

昨日のブログでは、人は自分の心の奥のものを外側に向かって投影し、それを周りの人として見ているため、自分が作る人との関係性やその相手自身を正面から見つめることによって、本当の自分というものを知ることができる、それこそが真の学びだというお話をしました。

今日はなぜ人は投影などというものをしているのか、ここに的を当てて見てみることにしたいと思います。例えば、こんなことを考えてみてください。自分が誰かを憎んでいるとします。でも人を憎むなんて、そんな自分であって欲しくないという気持ちが非常に強い場合、その誰かを憎んでいる自分の部分を心の奥に隠してしまうという荒業をすることがあるのです。

つまりトータルな自分の中で、都合の悪い自分の部分だけを自分からも見えないくらいに深い場所にしまって、自分は人を憎むような悪いやつではない、善良な人なのだという状態を確保するわけです。表面的な自分の心は、これでほっと胸をなでおろすことができるわけです。

しかし、これだけでは飽き足らず、もっと安心するためには、自分が隠した誰かを憎む心と同じものを持っている人を身近に居させることで、ああ、自分はあの人とは違うというようにするのです。これが投影の一つの大きな目的なのです。

まとめると、都合の悪い自分の部分をそれは自分ではないと隠すと同時に、同じものを持っている人を出現させて、自分はあんなじゃないとして安心しようとする、これが投影の目的だということです。

この作戦は二重に自分を騙しているので、なかなかたちが悪いですね。ですが、この投影によって出現した周りの人をよくよく見てあげることで、自分が隠し持っている本当の自分の姿をうかがい知ることができるわけです。

そして、実はこの世界は投影だらけなんです。もし、あなたの周りに怒りをいっぱい抱えた人がいるとしたら、それはあなたの心の中に怒りが沢山隠されているということを示していることになりますね。

もしも、あなたのお子さんが不登校になったとしたら、あなたの心の奥底に何かを訴えたいという強い思いが隠されていると思って間違いありません。だからこそ、人は自分の鏡だと言うのです。

あなたのご主人がお酒に溺れて迷惑を被っているとしたら、あなたの心の中に言うに言えない辛い思いが隠されているということかもしれません。投影のメカニズムは常に働いていますので、周りの人を見ることで隠された自分を知ることができるというわけです。

人間関係から学ぶ

人は生きている間に様々なことを学んで成長していきます。学業としての学びもあるし、仕事を通して学ぶこともできるでしょう。でもなんと言っても一番多くを学べるのは人と人との関わりあいの中でなのです。

それはなぜかと言うと、自分の心の深層にある潜在意識や無意識といった、通常自分では意識できない部分を他人に投影して見ているからです。人の心は一枚岩ではなく、自分では伺い知れない部分を沢山持っています。

他人はその未知なる自分自身の部分のことを教えてくれる何とも貴重な存在なのです。だから、他人との関係を通して、自分自身をより深く知っていくことができるということです。それが本当の学びというものです。

それなのに、人間関係に何らかの悩みを抱えてセラピーに来られる方々が大勢いらっしゃるのも事実です。もっと言うと、人間関係に全く何の問題も感じないという人を探すほうが難しいくらいではないでしょうか。

つまりそれは、自分自身の心の中で分裂が起きていて、その中で互いにうまくやっていけてない関係の意識たちが沢山いるということなのです。ものすごく修行を積んだ仙人のような人であれば、独りで山篭りして自分の内面を深く見つめることでたった一人でも多くを学ぶこともできるかもしれません。

ですが、私たちにはそれは難しいでしょう。だから、そんな難行苦行をする代わりに他人との関わりを見つめることで、仙人と同様に自分を知ることができる可能性があります。可能性があると言ったのは、そのつもりで逃げずに人と向き合うことがどうしても必要であり、それを避けていると学びは少なくなってしまうからです。

ちょっと受け入れがたいかもしれませんが、自分の周りにいるどんな人も、それに対応する部分を自分の内面に持っているということです。つまり、他人は自分ということですね。先ほどは投影という言葉を使いましたが、まさに心の中のある部分を映写して、自分の外側に映し出しているのが他人だと思えばいいのです。

これは、比喩ととらえていただいてもいいし、現実にそうなのだと思っていただいても構いません。どちらにしても、我々は人を通して自分を見つめることしかできないのですから。

なぜ投影などということを知らず知らずにやっているのかという話は次回にします。

癒しとは

自分で自分の世話が充分にできないことを依存といいますね。赤ちゃんや幼い子供であれば、当然身の回りの世話はすべて親兄弟などにやってもらわねば生きていけません。それが、少しずつ着替えや食事が自分でできるようになり、徐々に自立の道を進んでいくわけです。

そしてこの日本では20歳にもなると、一人前の大人として認められるようになり、自立した一人の人間として期待され、そのように扱われるようになります。この社会では自立するということが、認められるための絶対条件であると言っても過言ではないです。

自立といっても、経済的な自立というのもありますが、トータルで言えば精神的な自立ということになるでしょう。しかし、大人になっても、幼い頃の依存心たっぷりの意識が残っていると、時としてまるで子供じみた言動をする人もいます。

一人では寂しくていられない、たばこや暴飲暴食をやめられない、不必要な買い物をやめられないなどなど、そういった様々な依存症で苦しんでいる方は沢山いらっしゃいます。あるいは、子供のように暗いところが怖いとか、いつも不安でたまらないなど、様々な不安症、恐怖症など、大人の自分の理性ではコントロールできないくらいに強い力でやられてしまうのです。

このように、ある面では自立しているのに、ある面ではまだ依存が強く残っているという場合、ご本人はかなり苦悩するはずです。こんな場合に、その依存部分を少しずつ自立させてトータルに自立できるようにしていくのが心の癒し(セラピー)です。

トータルな自立ができた人は、この社会の中で比較的楽しく生活していくことができるわけです。では、心の癒しというのは、精神的な自立がゴールなのかというと、実はそうではありません。

癒しとは幸せになることです。心の中の依存に苦しめられている人からみたら、自立できてる人はきっと幸せなんだろうと思ってしまうのでしょうが、自立=幸福ではないのです。少し前のブログでも書きましたが、真の幸福とは永続的な平安な心です。

自立していても、一歩外に出たら7人の敵がいると思っているのでしたら、それは決して安心してはいられませんね。いくら経済的に裕福であっても、高い地位や名誉を手に入れたとしても、ただ自立しているだけでは満たされるということはありません。

実は精神的自立の先に目指すものがあります。それは、自立している者同士が互いに助け合う、つまり相互依存の状態です。自立しているといっても、完璧な人間などどこにもいないわけで、そういった部分を互いに補い合うことがより成熟した人の進む道なのです。これはただ自立している状態よりも幸福度がより高くなるはずです。

そして、ついでなので更にもっと先があるということをお話しします。依存→自立→相互依存 ときて、その次は何だと思いますか?ここからは人間業ではなくなっていきます。それは、人間を超越した何かに対するスピリチュアルな依存です。

今私が興味を持って読んでいる「軌跡のコース」には、この最終目的地まで我々が進んで行くための方法が細かく書かれています。究極の幸せを目指すための実践方法が事細かく準備されています。

私は個人的には、この依存→自立→相互依存→スピリチュアルな依存 という道は直線ではないと思っています。極端な話、最初の依存状態の人が最後のスピリチュアルな依存へジャンプして行ってしまってもいいのではないかと考えます。

そういうことが本当に可能かどうか、それは今後のセラピーによって、分かっていくことだと思っています。いずれにしても、癒しの目的は最終目的地、つまり真の幸せな人生にすることです。その方法をみなさんと分かち合っていけたらいいなと思っています。

人生は自作自演

セラピストになってしばらく経ったときに、「人生は自作自演」というコラムを書いたことがありました。今読み返してみても、真面目に訴えている自分の姿が浮かんできますね。あの頃はまだ、自分の身に起こることは自分が起こしている、そういう考え方を採用してみましょうという表現をしていました。

つまり、何が本当で何が本当でないかなどということは、追求していったところで結局何も証明などできるはずもないので、ただ幸せになるためだけに、その考え方を使って生きてみましょうと提案していたのです。

これはある意味とてもスマートなやり方だなと今でも思います。理屈で幸せになれるわけではないので、幸せになるためのツールの一つとして使ってみて下さいよって言ってたわけです。そしてそれは基本的には今も変わっていません。

変わらないどころか、益々強くなってきています。それは、自作自演、つまり自分の身に起きることは自分が起こしている、というメカニズムについて以前よりも詳細に分かるようになったという変化が自分の中に起きているのが大きいかもしれません。 なのでこの自作自演というものがより一層自分の中に深く入り込んできたという実感があります。

それでも、昨日ブログで書いたような、スーパーな理不尽さとか、困った事態とかが身に降りかかってきたときには、この自作自演の法則を忘れてしまいそうになってしまいますね。でも例外はないとして、しばらくして復帰することができるのですが、リアルタイムで意識し続けるのはなかなか困難を伴います。

なおかつ、そのことが一過性のものではなくて、継続的に起きていることであると更に自分の思いがそれを発生させているとは、思いたくもなくなってしまうのは人情でしょうね。どうして自分がこんなことを…?と思って当然です。

それでもめげずに、また淡々とこの法則のことを思い出すのです。これを解決するのは、やはり自分の中にある愛をどれだけ与えられるのかということにかかっているのでしょうね。それができるようになってくれば、理不尽さも困った事態も何もなくなっていくはずです。

理不尽なこと

理不尽なことを見たり、聞いたり、経験したりしたことのない人はいないでしょうね。それどころじゃない、毎日必ず理不尽な目に遭ってるっていう人もいらっしゃるかもしれません。

実は最近自分の身にも理不尽なことが起きていまして、でも思うところがあってそれをむげに跳ね除けずにいるのです。こういう経験は記憶してる限り初めてで、今までの自分だったらほとんど考えもせずにその理不尽さを却下していましたね。ばっさり切るというか、容赦しなかったと思います。

その理不尽さは千人の人に聞いたら千人がそりゃ理不尽だと間違いなく言うくらいのスーパーなものです。こんなことがあってさあ、これって理不尽だと思わない?などと人に確認しなければならないようなものじゃないということですね。

理不尽さを前にしたときに、どういう反応をするかというのは人によってそれぞれ違いがあると思いますが、大きく分けて三つのグループになるのではないかと思います。

一つ目は、殊更反応しないで黙ってやり過ごす、あるいは相手の言うことをきくという人達。このグループの人の特徴は、その場を丸く収めたい、相手に不愉快な思いをさせたくないなどが強いのです。従って、知らず知らずのうちに自己犠牲を溜めていく可能性が大です。

二つ目は、一つ目のグループと反応に関してはほとんど変わらない人達なのですが、そこには自己犠牲がない、つまりその理不尽さを愛のパワーで溶かしてしまうことのできる人達です。これは理想ですね。

そして三つ目は、私が属するグループですが、はっきりとした拒絶ができる人達です。この人達は、ある意味自立できている人と言えるかもしれませんね。自分の意見がはっきり言えるのですから。

一つ目のグループの人達は、そうすると依存している人達だと言えるでしょうね。そして、二つ目のグループの人達は、癒しが進んでいる人達ということになりますね。一つ目と二つ目は表面的にはニコニコしていてそっくりなことが多いのですが、心の中は随分と違います。

一つ目のグループも三つ目のグループも出来る限り二つ目のグループへと向かえれば人生がとてもすばらしくなるはずです。分かりやすく言ってしまえば、この二つ目のグループの人達は愛に溢れているので、理不尽さを感じなくて済むのです。

理不尽さというのは、理屈に合わないことで自分が不利益となるような事態から、自分を守ろうとする心の状態が感じるものなのです。だから、愛で生きれる人たちは理不尽さを感じないでいられるのです。これって、すごいことですね。

というわけで、ノーを言うのはたやすいことなのですが、敢えてその理不尽さを愛で溶かして克服したくて、今まさにその中に突入しているというわけです。でも、長い間の癖でつい理不尽さを不合理だと糾弾したくなってしまう自分がいるので、油断できないです。

そしてなるべく早くに二つ目のグループの仲間入りを果たしたいなと思っています。だから、今自分にとって、この理不尽さというのは旬のものだし、成長するためにはぜひとも必要なものだと思っています。