内と外の関係性

誰の心にも必ず怒りがあります。どんなに心穏やかな人であっても、また本人が自覚できていようがいまいが、必ず怒りのない人はいません。

その怒りは時として、憎しみや妬み、嫉み、いわゆる憎悪と呼ばれるものに変化したりするものです。そうなると、なかなか心の中から拭い去ることが難しくなります。

なぜ怒りというものがあるかというと、それは人として自分の命を守らなければならないという本能によって起こるのです。だからこそ、怒りのない人はいないと言ったのです。

その怒りを感じるときの視点というのは、大抵が内側から外側に向かっているというのも事実です。つまり、外側で起こったことに意識が向けられているのです。

その場合、自分と外側で起きたこととは本質的には無関係であると信じています。それはまるで、自分がいてもいなくてもこの宇宙があると信じているのと同じようなものです。

その自分とは無関係な外側の何かが、自分の存在を脅かすとみなすので怒りを覚えて自分を防衛しようとするということです。

だから怒りというのは決して悪いものではなくて、逆に正当なものだということです。しかし、問題は正当であったとしても本人が幸せを感じることができないということです。

怒りを減らすには、努力ではなくてちょっとしたコツが必要なだけです。それは、自分と外側で起こることが無関係ではないとみなすことです。

逆に、自分の想いというものが今まで無関係に見えていた外側の事象を起こすことになるのだという理解をするのです。

この方法を自分のものにできると、次第に心が癒されてくるのです。なぜなら、自分の人生を外にいる誰のせいにもすることがなくなるからです。

自分の身に降りかかるとんでもないことでも、外側の何かのせいにすることができなくなるのです。そうなると、少しずつですが、怒りが収まってくると同時に感謝の気持ちすら出てくるかもしれません。

これは努力でできるものではなく、自然とそうなってきます。自分がやることはほんの少しだけ、ちょっとだけ、外側に起こることは自分の内側からやってくると見ることです。

すべての源泉は自分の内側にあるとみること。これが心穏やかに過ごすことができる唯一の方法だと言ってもいいと思いますね。

無邪気な自分への帰還

自分がハイハイしている赤ちゃんの頃に、田舎の叔父さんが撮ってくれた白黒の写真があって、それはもう間違いなく56年前の写真なわけです。

その叔父さんはカメラが趣味だったようで、それを大きく引き伸ばしてくれていたのです。その写真の自分の姿というのは、あまりにも無邪気に笑っている幼い男の子なのです。

もちろん今の自分とは似つかわしくないのですが、でも心のどこかにわずかに、その頃のまったく屈託のない純粋だった感覚についての記憶があるようなのです。

あの自由さ、なにも怖がっていない、それこそ生まれたばかりの子犬のような人懐っこさ、そうした記憶のようなものがあるのです。

自分がここにいるなどという自覚は全くゼロで、ただただ楽しいし、嬉しいし、何もかもが興味深いという気持ちでいっぱいだったのでしょうね。

それがどのくらいの間続いたのかは定かではありませんが、いつの頃からか自分のことを恥ずかしいと感じることが起こったのです。

この恥ずかしさは幼い子供の人見知りそのものとは違います。明らかに、今まで無心に遊べていたはずが、なんだかそれだけではいられないような居心地の悪さを感じるようになったのです。

それがつまり、自分がここにいるという自覚の始まりです。それが、恥ずかしさというものを生み出してしまったのです。

もちろん、この自覚がなければ自我は発達しなかったわけですから、人として生きていく上で絶対的に必要なことなのです。

でもその代償は本当に大きかったといわざるを得ません。あれほど、屈託なく楽しい日々を過ごしていたはずなのに、自分がここにいると自覚した瞬間から生きることがぎこちなくなってしまったのですから。

ぎこちないというのは、不必要な力が身体や心に入ってしまうことです。それは、たとえようもないくらいに、重苦しいものを背負い込んだと言ってもいいかもしれません。

そうやって自我の成長とともに、大人になっていくのですが、実は私たちの人生でもっとも大切なことは、ここに自分がいるという自覚を持ちながらも、あの幼い頃の無邪気な心へと戻っていくことなのです。

私は是非それを叶えたいと思います。それも、ただあの感覚を思い出すだけで、できるような気がしています。それが人としての唯一の進化ではないかと思っています。

情報隠蔽

あまり気にしていなかったせいもあるのかもしれませんが、気がついたら計画停電の話はなくなってしまいましたね。

それは勿論そんなものはあっては困るので、ああ助かったと思っているのですが、どうも解せない感じがしてしまいます。

東京電力のサイトには、みなさんの節電の効果によって、計画停電をする必要がなくなった旨の説明が簡単に書いてありましたが、不思議ですね。

気がついたら、そのサイトの火力発電についてのページがすべて消えてしまっていました。なんだか、こうしたことはドラマとか映画の中だけのことなのかと思っていたのですが、現実に起きるものなのですね。

どう考えても、都合の悪い情報の隠蔽をしたとしか言いようがないのではないかと思います。この年齢になって初めて体験した新鮮な驚きです。

火力発電をフル稼働させると、電力が足りないというのが嘘であることがばれてしまうからなのでしょうか。不必要な計画停電をでっち上げることまでして、原発の必要性を訴えたかったのかと疑いたくなります。

この社会に疎い自分でも、いくらなんでもおかしなことがたくさんあることに気づきだしてしまいました。今までには、あまりこうしたことはありませんでした。

大手マスコミも一緒になって、電力会社や政治家が本当の情報を発信しないということを、これほどまでにありありと感じたことはなかったですね。

これは、人の心のメカニズムとまったく同じことが起きていると思えます。私たちの心も同じように、認めたくないことを隠すということをずっとやってきているんです。

自分だけは違うと信じている人がいるかもしれませんが、それは自覚できてないだけだと思った方が間違いないでしょうね。人は必ず、見たくないものは闇に葬ろうとするのですから。

私たち一人ひとりの心の中から、そうした闇の部分が少しでも光に照らされて明るみに出てくるようにならないと、こうした国家レベルの隠蔽作業は今後も続くのだろうと思わざるを得ません。
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勇気ある姿

たくさんのクライアントさんとご一緒にセラピーを進めさせていただいていて、いつも感じることなのですが、人の無防備な姿ほど美しいものはないんだなって。

無防備になると、どこかからか勇気が湧いて来るのです。あるいはその逆もあるかもしれません。勇気を持って逃げずにいると、無防備な状態になるとも言えますね。

クライアントさんが勇気を持って、恐れていることと向き合っている姿は本当にすばらしいと感動するしかありません。

恐れの対象はさまざまあるのですが、罪悪感や自己嫌悪、自己否定感などが中心となるかもしれません。こうした感情は、時として死ぬことよりも強烈に怖いのです。

死ぬことと比較したら何も怖いものなどないはずと思うのはただの理屈です。実際には、自分は駄目な奴なんだと思う気持ち、惨めさや情けないと感じるのが死よりも辛い場合もあるのです。

それを正面から受け止めるくらいなら、どんな自己犠牲もいとわないというのが生きる支えになっている場合があります。

しかし、自己犠牲を我慢するのは決して勇気ではありませんね。忍耐強いということは強さではなくて、弱さではないかと思うのです。

逆に、自分の弱さを正面から見て、それをしっかりと認めてあげられることが強さであり、勇気があることではないかと思います。

今までに何百回もそういうクライアントさんの姿を見てきて、自分は本当に幸せだなと感じます。みなさんから勇気をいただくことができるのですから。

すばらしい体験を一緒にさせていただけることにも本当に感謝しています。セラピーというのは、感動の連続であると言えます。

「OK」を出す

23日(土)は3ヶ月ぶりのヒーリングセミナーの日でした。前回、前々回と15名程度の参加があったので、今回もそこそこ集まっていただけるのかなと思っていたところ、予約の連絡をいただいたのがたったの6名でした。

そして何と、そのうちの2名は出席できず、結局4名で午前10時から午後5時までみっちりやることになってしまいました。

私はまだ欲があるので、できるだけたくさんの人たちに参加をして欲しいと思っているのですが、まさかこんなに少人数で実施することになるとは思ってもみませんでした。

それでも、始まってみると、やはり必要なことは起きるものなのですね。自然の成り行きに任せていると、今回のテーマは「OKを出す!」ということだったと分かりました。

今までのセミナーでは、何とか自分を癒して少しずつでも改善していくためにはどうしたらいいのかということに重点を置いていたと思います。

今回はどちらかというと、今あるがままの自分を丸ごと受け止めて、どんな自分に対しても「OK]を出すという方向に行きました。

ある意味、これは究極のことであり、自分でもよくもそんな方向へと向かったなと驚いています。知らぬうちにそうしたことが起こるのですね。

人は罪悪感を原動力として、それを少しでも感じないですむようにとルールを作ってそれを守ろうとしてしまうのです。

それを真面目に守れば守るほど、当然のことながら自己犠牲を強いる結果となってしまうために、いずれは破綻します。

なんらかのルールを作って、それを死守しようとする気持ちの根っこには、自分を責める気持ちが強くあるものです。それに対して全面的にOKを出すということ。

そのことによって、ルールを守る必要性をそれほど感じなくさせることができるのです。それはきっと、なんともすがすがしい生き方ができるようにしてくれるはずです。

どんな自分にも、まんべんなく「OK」を出してあげること、これをできるだけ続けてあげることです。きっと、多くの重荷を下ろすことができるようになるはずです。

この世界で起きること

生きていると、全く予期しないようなことでも、起きるときには起きるものです。仮にある程度予期していたとしても、望まないことが起きるとダメージになります。

今回の大震災もそうですね。三陸海岸沖で大きな地震が来るというのは、歴史上分かっていたことですし、地震学者もある確率では予想していたことです。

一人ひとりの人生には本当にいろいろな事が起きてきます。本人にとっては望むものであっても、まったく望まないような辛いことであっても、それは起きてきます。

いったいなぜ、起きることというのは無情なのでしょうか。それは、きっと私たち人間レベルで考えられる望ましいことを超越しているなにものかが筋書きを書いているからだと思います。

ペットにはなぜ毎日お父さんが会社に仕事をしに出かけるのか分からないはずですね。みんなでいつも一緒に楽しく過ごせばいいのにと思うかもしれません。

それをペットに説明しようとしても、伝わるはずもありません。それと同じように、この世界のプロセスを作っている張本人にしてみたら、それを我々人間ごときに説明しようにもそれができないのではないかと思います。

ペットはずっとご主人様と一緒にいて、可愛がってもらいたいのですが、なぜだかそれは叶わぬ夢なのです。

私たちにしても同じことです。嬉しいこと、楽しいことばかりが起きて、悲しいことや辛いこと、苦しいことなど必要ないのにと思うものです。

でもこの世界で起きることを決めているのは我々ではありません。それは我々の思いを遥かに超えているところからやってくるのです。

人間の自分たちにできることは、そうしたことをすべて受け入れることです。何が起きようが、根本的なところでそれを受容することです。

そうすることによってのみ、心の平安を保ち続けることができるのだろうと思います。それこそが、本当に幸せなのではないかと思います。

誰かのために生きる

セッションに来られるクライアントさんの中には、誰かの役に立ちたいという強い思いを持ってらっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。

何かの役に立とうと常に考えているわけですから、いい心がけだと一般的には言われるかもしれませんが、私のセッションでは大抵が、「役に立ちたい症候群」ですねとか言われてしまうわけです。

なぜなら、役に立ちたいという思いが、心の底から出た本当の気持ちだけであればそれは理想的なのですが、そうではないということがすぐに分かってしまうからです。

役に立ちたい本当の理由は、自分の存在価値をそこに見出そうとする切なくて、いじらしい幼い子供の心がそこにあるからです。

それは本人にとってはまさに命がけの自分の身を守る行為であるわけですから、心の奥ではかならず無意識的に自己犠牲を強いてしまうことになります。

その結果、さまざまな感情を溜め込んでいくことになり、度を過ぎると鬱的な症状が出てきたり身体の不調を訴えたりして、セッションにいらっしゃることになるのです。

したがって、私は必ず自分のために生きれるようにしていきましょう、と提案することになるわけです。言いたいことを言う、やりたいことをやる。

誰に遠慮することもなく、もう大人になっているのですから誰かに見捨てられても死ぬようなことはないときっぱり理解することが大切だということです。

ここまでが、一般的な心理療法で進めていく心の癒しです。この方向で癒していくことで、誰もがかなり楽に生きれるようになって、自分に正直に生きることの気持ちよさを実感することができます。

しかし、本当の癒しはこれで終わったわけではありません。この先があります。それは、もう一度一番初めに戻るような感じがしてしまいますが、今度こそ本当に人のためにいきることを考えるのです。

人の心は誰かのために生きる、つまり誰かを愛するときにもっとも満ち足りるように設計されているのです。だから、誰かのために生きることが一番の幸せにつながるということです。

でも大抵、このことを口に出すセラピストは私を含めてあまりいないはずなのです。それは、自己犠牲を強いることを完全に放棄できた人にだけ聞いて欲しいからです。

癒しを進めていっても、また誰かのために生きようとして自己犠牲を強いるようになっては、それこそ元の木阿弥になってしまうからです。

それでも今日はこのことをお伝えしたくなったので、敢えて書いてみました。人の心とは、自分の事を中心に考えるよりも、誰かのことを大切に思って行動する方が幸せを感じるようにできているということを覚えておいても損はないと思います。

才能豊かな人

この世界には、すばらしい才能に恵まれた人がたくさんいます。芸術を創造する人や、多くの人たちを先導する能力に長けた人、新しいものを発明できる人など。

エジソンは確か、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である。」と言ったらしいですが、そうやって努力できるということ自体が才能だと考えることもできます。

ちなみにエジソンが言いたかった本当の意味は、1%のひらめきがあれば、99%の無駄な努力をしなくてもいい、ということだったらしいですが…。

それはさておき、他人の才能ほど羨ましいと感じるものはありません。基本的には、自分の能力と比較して、それよりも上だと感じると羨ましくなるものです。

歌が上手に歌える、楽器が弾ける、絵画を描くことが得意、努力家、集中力が高い、IQが高い、そのほか何であっても自分より才能があると思うと、その人を恨めしく見てしまいます。

上を見たらきりがないということは百も承知しているのですが、この人はすごいなとただ感嘆しているだけならいいのですが、どうも自分と比べて劣等感まで持っていくクセがありますね。

子供のときに、「何でもいいから一番になれ!」と言った先生がいましたが、何であろうと一番にはなれないのですから、むかつきます。

このように、人と比較することで自分を否定し卑下する傾向というのはなかなか変わらないものです。というか私の場合、一生変わらないと思っています。

一般的には、誰であれこの世界に一人しかいない特別な存在なんだから、比較などしないで自分を愛するようにしようと、もっともらしい考えを植えつけようとするかもしれません。

ですが、こういうことすら私はもうやめようと思っています。逆に、開き直って人と比較して自己嫌悪になるクセを持ってしまっている自分というものをなるべく受容してあげようと。

劣等感を持っていやな気持ちになる自分を受容するということです。駄目だなと思っている自分のことも、そんな自分など受容できないと感じる自分さえも、丸ごと受容しようということです。

何だっていい、どんな自分だっていいから、すべてを受容してしまえ~~~!ということです。破れかぶれで生きていくのも、なかなかオツなものですよ。

負け犬の遠吠えのようにも聞こえるかもしれませんが、それも合わせて受容してしまえばいいのですから、受容は最強です。

恥をさらす

人間は自分ひとりの時よりも、守るものがいるとより強くなりますね。だから、女性は結婚してお母さんになると、「母は強し!」などといわれるわけです。

でも、最強なのは何も守るものがない状態であるというのも事実です。捨て身で何かに向かっていく人の力というのは半端ではないというのはそういうことです。

戦いなどでは、「肉を切らせて骨を断つ」という言葉がありますね。これは捨て身で敵に勝つ戦法のことを言っています。

捨て身というのは、自分の命の危険を度外視した言動というイメージがしますが、命ということにこだわる必要はないと思います。

たとえば、自分に対する人からの評価が下がってしまってもいいという事だって、捨て身と言ってもいいはずです。

また別の言葉を使えば、恥さらしになるということも当てはまるかもしれません。どんなに奇人変人扱いされようと、ガリレオのように、それでも地球は回っていると主張するようなものです。

もっとも、ガリレオは天動説を否定してしまったために、宗教裁判にかけられて有罪になってその後の人生を棒に振ってしまいましたが…。

話を元に戻して、捨て身になる、あるいは恥をさらすということは、自分をどうにかしようとしないということだとも言えます。

何とかして○○のようにしたい、絶対に評価を下げたくない、恥をかくくらいだったら死んだほうがまし、というのはすべて、何とかしたいという強い思いにつながっています。

少しぐらい恥をさらしてもいいや、というような気持ちで、自分のことをうけとめてあげられると、その分だけ心が平安になることができるのです。

さあ、勇気を出してみんなで恥さらしになりましょう!

ミスター・スマイル

世の中には、いつも笑顔の人がいます。そんな時に笑っていなくてもいいのにと思っても、その人は笑い顔を絶やさずにいます。

それは勿論女性にも男性にもいらっしゃいます。そんなクライアントさんがいらしたときには、セラピストとして「少し笑顔をやめましょう」と提案します。

すぐに言うことを聞いて、笑顔をやめてくれるのですが、少しお話をしている間にまたすぐに元のやさしそうな笑顔に戻ってしまいます。

クセになってしまっている笑顔をやめるのはなかなか難しいようですね。そういう人は、いつも心が疲れています。何もしなくても、クタクタなんです。

だから、少しずつでもいいから、笑顔をやめる練習をしてください。心がガラスのように繊細で、きっと傷つきやすいのではないかと思います。

そんな心やさしいひとたちに、1970年代の素敵な歌をプレゼントします。大橋純子さんの素敵な歌声を聞いて、そのころ20代だった自分は心がなぐさめられたことを覚えています。

ミスター・スマイル あなたは 何故

微笑み忘れないの

街で振り向く背中は淋しそうなのに

ミスター・スマイル あなたの事

からかう人もいるわ

何をされても静かに笑うだけだから

心やさしい人ばかり

損をする世の中だもの

さあ 傷ついた魂を

いまそばに来て横たえて

そう なぐさめる やさしさは

ひとつだけ知っています

ミスター・スマイル ごめんなさい

あなたからの手紙に

字が下手ねって

思わず口を滑らして

きっと知らぬ間にあなたの

胸を靴で歩いてたの

さあ折れそうなロウソクに

いま愛の灯を点しましょう

そう木枯らしに吹かれても

手のひらで守るのです

…いまそばに来て微笑んで

そのお返しにくちづけを…