浜岡の原発

金曜日に浜岡の原発に行ってきました。勿論、体当たりで運転を停止させようとの意思があったわけではなくて(笑)、ただどんな施設なのかを見ておきたかったからです。

というのも、家内の実家が原発からすぐ近くにあるので、以前からすごく気になっていたということもありました。

平日ということもあってか、観覧施設はガランとしていたのですが、それでも幼い子供を連れてきて遊ばせている家族があったりと、微妙な感覚になりました。

起こることは間違いないとされている東海大地震のエリアのど真ん中に建っている、世界でもダントツ一位で危険視されている原発の施設で子供を遊ばせているってどうなんだろうと。

でも、その施設だけをただ眺めていると、いかにも原発というのは近代テクノロジー満載のすばらしいものだという感じがしてきます。

そして、安全でクリーンなものだというイメージを沢山植えつけられるような感覚もありました。その辺はとても上手だとしか言いようがありません。

そのくせ、現実はといえば、何度か格納容器などにひび割れがみつかったりしたこともあって、放射能漏れを起こしてきた実績があります。

それは、地震が原因ではなく施設の老築化が進んできたことが理由と聞いていますが、これも本当のところは分かりません。

さすがにいろいろ予定されているイベント事が中止になりましたという貼り紙がされていましたが、それにしてものどかな感じで原発の事故などここでは絶対に起きませんという雰囲気で溢れていました。

綱渡り的な原発を後に自分は東京に戻ってきましたが、付近の住民はずっとあそこで暮らしているのですからとんでもない話しです。

日本には偏西風というのが絶えずあり、西から東へと風が吹いているので、静岡県で発生した放射能物質はあっという間に東京にやってくるでしょう。

近隣の住民だけではなくて、日本が壊滅の危機に瀕していると言っても過言ではないはずなのに、のんびりしているのは日本人のまぬけさなのか、それともすばらしいところなのか、どちらなんでしょうか。

原発について その4

もしも地球よりもはるかに科学や文明が進化した星から宇宙人がやってきて、今の地球の状態を見たらどう思うのだろうかと考えてみました。

もしかしたら、彼らは未来からやってきたかもしれません。そうだとすると、地球の行く末についても知っているわけですね。

危険極まりない原発を作り続けて止めようとしない人類を見たら、何と言うのでしょうか?もしも、それが原因でやり直すことができないくらいのダメージを負ってしまうとしたら。

もしも、自分がその宇宙人だとしたら、人類がどんなにとんでもないことをしでかしていると分かっているとしても、おいそれと手を出すことはできないのではないかと思うのです。

なぜなら、それが宇宙の摂理だと思うからです。つまり、些細などうでもいいことであれば、いくらでも力を貸すことができるはずですが、大きな問題はそうはいかないと思います。

つまり、どんな悲しいことであっても、それが必要だから起きているのだと分かれば、手出しはしないはずです。

私は今、人類が自らの力で難関を乗り越える必要があるのではないかと思っています。外部から簡単に軌道修正させられたとしても、それでは意味がなくなってしまうはずです。

人類の心の闇の部分がさらけ出されて、そこに光が当たり、もうこれ以上隠され続けることができなくなっていくことが是非とも必要だと感じます。

私が知っている限り、これほどの原発事故が発生しているにもかかわらず、イケイケどんどんの推進派の人たちの気持ちは未だにこれっぽっちも変化していないようです。

だとすると、自分たちで軌道修正するにはもう少し大きな事件が起きなければならないのかなとも思うのですが、ことの推移を真剣に見守りたいなと思います。

みんなで一緒に

私たちの一般的な満足感というのは、いい悪いは別にして実は人との比較の上に成り立っているのです。

これは勿論本質的なことではありませんが、みんなと同じレベルであればそこそこの満足感を得られるというのは事実です。

例えば、今原発の事故によって節電を呼びかけられていますが、原発を廃炉にしてしまったら電力不足による不便さに誰もが耐えられなくなるはずだという憶測がありますね。

確かに今まで自由に使っていた電気を思うようには使えなくなったとしたら、最初は不便を感じるかもしれません。ですが、大切なことはその時に自分だけではなくみんなが一緒であれば大丈夫ということです。

江戸時代にまで遡って、薄暗い長屋でひっそりと生活していた時に、そのことに対して不満があったかというとそんなことはないはずです。

それは誰もがそういう生活をしていたからです。でももし、自分だけがそんな生活になったとしたら、それは不満が生じるのは当然のことです。

つまり、人との比較の上で多くの人の平均値と同じレベルであれば、人は不満を感じないものなのです。

私が子供のころには、ごみの分別などというものは全くありませんでした。いつの頃からかリサイクルということが流行りだして、そのまま気軽にゴミを捨てることができなくなりました。

その時には何て不便な時代になったものなんだろうと本気で嫌な気分になっていたのですが、しばらくするとそれが慣れてきて普通のことになってしまいました。

その時も、自分だけでなく誰もが分別しているのだからという比較の元に、不満を感じなくなっていったのだろうと思うのです。

そう考えると、意外に満足感というのは絶対的なものではないのだということが分かりますね。みんなで一緒にという前提であれば、人は大抵のことを乗り越えていくことができるということです。

地球の一部

いつの頃だったか、ハムスターを飼うのが流行ったことがありました。ハムスターは小さくて、たいした世話をする必要もなくて、手ごろで可愛いくて、子供でも簡単に飼えるので人気になったのでしょうね。

見た目は可愛いのですが、実は野生においては仲間が沢山増えすぎてしまうと、共食いを始めてしまうということを聞いたことがあります。

見かけによらず、なかなか凶暴なところがあるようですが、本当のところは共食いすることによって、全体の数を減らして絶滅することを防いでいるらしいのです。

元々、ねずみの仲間はみんな「ねずみ講」という言葉があるくらい、急激に増えてしまう特徴があるのです。もちろん、それは比較的弱い種が生き延びる作戦とも言えます。

もしも何の障害もなく、生まれた子供がすべて生き延びてしまうと膨大な数に膨れ上がってしまいます。その時に、自然の摂理として集団自殺をするのです。

どのねずみが自殺して、どのねずみが生き延びるのかという規則があるかどうかは知りませんが、そうやって全体の数を減らすメカニズムを持っているのです。

それは本当に不思議なことですね。以前、コラムにも書いたのですが、アポトーシスと言って、動物には不要な細胞が自然自殺するメカニズムがあります。

例えば、人間の指は、退治のときにはまだできてなくて、成長と共に指と指の間の細胞が自殺することによって、指の形ができてくるというのがあります。

一つひとつの細胞が、自分の役割を知っていて、指そのものになる細胞があれば、指を形作るために自殺する細胞もあるということです。

69億いる地球上の人々のうち、地球が成長あるいは発達していくために必要だったり、不要だったりする人々というのがあるのかもしれません。

人としての我々の気持ちからしたら、たった一人の命でさえこの巨大な地球よりも重いという言い方もできるかもしれませんが、地球から見たらどうなのかは謎ですね。

この自分が地球にとってどんな存在であろうとも、そのことに執着する必要もなければ、喜んだり悲しんだりすることも意味がないと思います。

自分は明らかにこの地球の一部です。そのことをよくよく見つめなおしてみることも大切なことではないかと思うのです。

光と闇

人の心が十二分に癒されて、この世界から争いごとが消えうせて、嫌なことが一つも起きない、いわゆるユートピアになったらいいなと思うかもしれませんが、きっとそうはならないはずです。

この世界というのは、光と闇の対比によってできているのです。いいことがあれば、悪いことがあり、嬉しいことがあれば、悲しいつらいことがあるのです。

子供のころ、夏の暑い日の夜に家族みんなで豊島園のプールに行ったことがありました。その日は、塾も休ませてもらえたりして、すごく楽しかったのです。

こんな日が毎日続いたら本当にいいのにと子供心に真剣に思ったのを覚えています。でも結局記憶のある限りは、それはたった一回しか実現しませんでした。

年頃になって異性に興味が出てきたときには、どうして世の中には可愛い子とそうでない子がいるのだろうかと思ったものです。

すべての異性が綺麗で可愛くてもいいはずなのに、なぜそうはなっていないのかと考えたことがありましたが、これは笑い話にしかならないですね。

いずれにしても、この世界というのはそうやって左のない右というものはないし、下のない上というものを作る事は不可能だということなのです。

私たちの心にとっては、暖かい愛の心、愛の行為を誰もが望んでいるのですが、この世界は愛だけではなくて憎悪や恐怖、そして罪悪感もたっぷりとあるのです。

それはきっと、私たちが望んでいることと本当に必要であることとは違うということかもしれません。そして、そのことは私たちのレベルでは理解できないのです。

大切なことは、嬉しいことや愛に溢れることばかりが起こるわけではないと認めることです。常に光があれば闇があるということです。

そして、どちらもできるだけ拒絶するのではなくて、受け止めることです。私たちは所詮、生かされているのであって、起きることに明け渡すことができれば、きっと深い心の平安を得ることもできるはずなのです。

潔(いさぎよ)い人

自分は潔い人が好きかもしれません。それは例えば、クルマが大好きで、毎日磨き上げているような若い男性が誰か大切な人のためにそれをさらりと売り飛ばすことができたりといったことです。

潔いとは、物事に執着していないということ、今までずっと大切にしてきたもの、考え方などをいとも簡単に捨て去ることができるということ。

別の表現をすれば、大いなるパラダイムチェンジができるということを意味しています。昨日までは、こう思っていたのだけれど、条件が変わったのでまったく違うように考え直すことができるということです。

それは個人だけではなくて、会社などの団体の場合にも言えることです。会社の伝統を守ることは決して悪いことではないのですが、状況次第では伝統を破ることも大切な場合があります。

そのようなことをきっぱりと決断できるということは、とても気持ちのいいものですし、防衛的な姿勢ではない清清しさを感じることができますね。

その反対に考え方や信念、信条、そして自己像に対してのある種のしがみつきのようなものが強いと、硬直した生き方しかできなくなってしまいます。

私たちはいつも自分の心に縛られています。その心の正体というのは、長い間の体験から得たその時々の感情や思考の蓄積から作られたものなのです。

その心こそが自分だという思いを持っていますが、それは実は単なる作り物に過ぎません。それこそが世界からは切り離された自分だとすることは、苦悩を生み出すことになるのです。

賢人や見者は、「心を気にするな」という言葉を残しているくらいです。自分の心の問題は、自分がそれを持っていると考えることです。

それが作られたものだと分かれば、それを大事に保存しようとすることに何の意味もないと分かります。それが潔い行動や考え方につながるのです。

自分というものを一つの固定した何かだと考えることから開放されると、とても気持ちのいい軽やかな感覚になることができます。

昨日までの自分など忘れて、いつもこの瞬間に起きることを見て、そのときにやってくることに明け渡すことです。それが潔い生き方なのではないかと思うのです。

感傷的な気分

4月10日(日)は都知事の選挙の日でした。正直決して褒められないことですが、投票に行ったのはすごく久しぶりのような気がします。

投票所である、昔私の子供たちが通っていた近くの中学校の校庭には、満開の桜がすばらしい姿を見せてくれていました。

陽気も暖かくなったせいかもしれませんが、なんだか、3.11の地震発生以来初めてゆったりとした気持ちで外の景色を楽しむことができたように思います。

井の頭公園の桜も少し前に見に行ったのですが、そのときには花見のためにシートを敷いていた若者たちが、警備の人たちにやめるように注意されていたようです。

自粛というのは、自ら控えることを言うのだと思っていたら、他人から控えるように命令されてしまうということもあるのですね。

ちょっと見ていて可愛そうな気がしました。そんなこともあってか、ほぼ満開になっていた桜さえも思い切りよくその姿を披露することさえ自粛しているように感じました。

年に一回、桜を見ることができるのは今まで当たり前のことだと思って生きてきましたが、今はそうでもないかもしれないとどこかで感じています。

というより、穏やかな気持ちで美しい桜を見ることができるということも、当然ではないというような気持ちになったということかもしれません。

すぐに散ってしまう桜に、いつも名残惜しいなと思いながら、いいやまた来年になったら見ることができるんだからと思っていたのが、今は来年はどうだろうと思っています。

もう少し日本ていいところだと信じていたものが崩れていっているような、そんな気持ちがしているのかもしれません。

起きることがただ起きているだけだと分かってはいるものの、いつになく感傷的になっているのは何なのでしょうか?

個人的なこと以外で、こんなふうになったことは今までなかったので、少々不思議ですし心の中を興味を持って見ているところです。

人類史上に明確に残るような何かとても大きな出来事が起きてもいいように、日ごろから自分の心を見つめておくといいと思います。

原発について その3

私たちは、大切な日本のある場所を決して立ち入ることができない場所にしてしまいました。きっと、このことは私たちの孫の孫の孫の…、どの世代まで行っても、どこまでも続いていくことです。

このことが私にはとても悲しいことに思えて仕方ありません。ちょっと想像してみてください。この先、千年たっても二千年たっても、あの美しい三陸海岸付近のあるエリアだけが、厳重に管理された死のエリアであり続けるということを。

人類で分かち合ってきたこの愛すべき地球の一部分に対して、もう二度と元には戻らないと言っていいようなダメージを与えてしまったということです。

地球に対していくら謝っても謝りきれないことのように感じますし、日本人は世界の人々に対して深く陳謝せねばならないでしょうね。

卑屈になったり、罪悪感の餌食になる必要はありませんが、速やかに菅首相は全世界にそうしたメッセージを発信したほうがいいと思います。

私は10年余り前に癌を患ったことがありましたが、手術して回復してしばらく経った頃に、ふと自分のお腹にある傷口を見て、心の底から本当にごめんなさい!と自分に謝ったことがありました。

そのときから、急に何かが自分の中ではじけたのか、サラリーマンをやめて今のような仕事をするようになったといういきさつがあります。

私のお腹の傷口と、切って繋げられた内臓は元には戻りません。でも、そのことは本当に一度深く謝ることができれば、そのことを元にして人生をやり直すことも可能だったのです。

今回の原発事故も同じだと思います。私たちは後悔するのではなく、深く反省することができればいいのです。そうすれば、自分たちの行動や考え方を見直すすばらしい契機となるはずなのです。

間違いを正す

人間のやることに間違いはつきものです。間違ったことのない人間など決していないのですから。そのことに関連して、大切なことが二つほどあります。

一つ目は、間違いは間違いと認めてそれを正すということ。もう一つは、罪だと思っていることを一旦すべて間違いのレベルにもって行き、一つ目を実行するということ。

例えば、地震の多発国である日本において、もっとも危険であると分かっていて、地震で崩壊する原発を次から次へと作り続けることは明らかに間違いです。

その首謀者が誰かと考えてしまうと、そこに罪という文字が浮かんできてしまいます。そうではなくて、単なる間違いにもっていくことです。

どんなに大切な人がその犠牲になってしまったとしても、罪ではなく人につきものの間違いだと勇気をもってすることです。

その次にその間違いを間違いと認めて行動修正するということです。そのときに妨害する心がいろいろあるのですが、その一つが「ここまでやってきたのだから」という思いです。

誰でも、何かを計画して実行するまでの間に、それぞれの工程を経て結果を出すことになるのですが、それが初期の段階であればあるほど、間違いを訂正しやすいのです。

その逆に、あらゆる労力や時間やお金をつぎ込んでしまった後で、間違いに気づいてそれを訂正しようとしても、「ここまでやってきたのだから」が邪魔をします。

これは、生き方そのものについても同じようなことが言えます。例えば、何十年も我慢をしてきて、心身ともに疲れてしまったクライアントさんがいたとします。

それなら、もう我慢や無理をして自己犠牲を払うことをやめましょうと伝えると、今までの我慢が全部無駄になるのはつらいので簡単にはやめられないと訴えられます。

そのときにこそ、本当は潔く今までの生き方は間違いでしたと認めて、すぐに行動修正することができたら必ず人生を変えることができるのです。

自分の心に、「ここまでやってきたのだから」があると感じるのでしたら、このことをよくよく考えてみることには、大きな意味があるはずです。

立ち位置を変えてみる

地球の歴史から見ると、人類が今のように我が物顔で活躍し出したのはつい最近のことですが、そういったスケールで見てみると、地球が太陽の周りを回っていると分かったのはほんの昨日のことだと言えます。

それまでは、ずっと太陽が地球の周りを毎日一周していると考えられてきました。いわゆる天動説と言われていますが、これは言ってみれば見えているままを表しているに過ぎません。

地球上から太陽を見るだけだと、どうしてもそれが自然だったということですね。それを見事にひっくり返して地動説を唱えたのはコペルニクスです。

彼は、どうやってそのような常識を覆すことができたのかというと、地上から太陽をただ見るというのではなくて、宇宙空間から見るということをやったのだと思います。

勿論、そのころはロケットも何もないですからイマジネーションの世界でしかないのですが、自分の立ち位置を地上から宇宙へと変えることによって、真実を暴き出すことができたのです。

こうした視点を変えて物事を見る姿勢というのは実はとても大切なことです。そしてどんなことにも応用することができると思います。

人は誰かに騙されたり、うそをつかれたりすることを好みません。真実を知りたいという願望をいつも持っているものです。

そのようになるためには、自分の立ち位置というものを必ず考慮しておくことです。それができないと、無意識的に自分にとって有利に思われることを真実としてしまいがちになるのです。

一番いい例が、こんな儲け話があるけれど、乗りませんか?などという誘いがあったとして、くだらないと思っていても、話しを聞いていくうちに騙されてその気にさせられてしまったりするということがあります。

それは、自分の立ち位置、この場合だと自分の利益という視点からだけ見ようとすることで、真実のように思えるようになってしまうのです。

もしも、冷静になって、相手の立ち位置になってその話しを聞こうとすれば、そんなおいしい話しを誰かに言うはずがないと分かります。

同様にして、誰かが自分にとても理不尽な態度をとるというときにも、立ち位置を変えて見ることでその理不尽さを受け取る自分の反応を変えることができるかもしれません。