原発について その2

世の中には、人体に対して大変有害な物質や取り扱いが危険な物質というものが多数あるのは誰もが知っていることですね。たとえば、クルマの燃料であるガソリンは勿論体内には入れられませんし、引火すると爆発するわけです。

それでも、丁寧に使うことで非常に便利なエネルギー源として重宝しているのです。それの元は石油です。石油はそれ以外にも私たちに必要な電力としても用いられています。それが火力発電です。

だから、資源として有限であるとわかっている石油の代わりとして原子力を開発して利用するようになったのは、もっともなことだと言えるのです。

ただし、人体に対する危険度が半端ではないということは、ガソリンその他のものとは比べ物にならないのです。

万が一にも安全に対して万全を期すとしても、万が一でも受け入れられないこともあります。つまり、決して事故が起こってはならないということですね。

それが、この地震大国である日本において、震度6程度では崩壊するという原子力発電所ばかりが作られているのですから、たまったものではありません。

それともうひとつ、便利さを追求して自分の命を犠牲にするとしても、自分たちのことなら目をつぶってもいいのですが、それが未来へと受け継がれていくとなるとまったく話は違ってきます。

原発で使われるウランという放射性物質は核融合反応によって、さまざまな物質を生み出してしまうのですが、その中にプルトニウムというものも含まれます。

このプルトニウムというのは、ウラン同様に核融合する放射性物質として、再利用も検討されているのですが、これの半減期は2万4千年です。

つまり、放射線を出して崩壊していき、その量が半分に減るまでに2万4千年かかるということです。そんな未来永劫ともいえるくらい長きに渡って、誰かが危険きわまりない物質を管理していかなければならないということです。

こうしたことは、人類史上初めてです。今私たちの地球上で人類がやり始めてしまったことは、今後の子孫たちへの悪魔のようなプレゼントとも言えるのですね。

自分たちが死ぬだけならいいのですが、何万年もの間地球と私たちの子孫がそのことで苦しむようなことになってしまうというのは、本当に本当に悲しいことだと思います。

暗闇に光を当てる

今年に入ってから多くの人たちの心の変化が本格的になってきているように思います。それはシンプルに表現すれば、闇に葬っていた心の部分が暴露されつつあるといえます。

人の心はいくつにも分割されていて、その断片同士の関係もあまりよくないのが普通です。どれかがどれかを否定したりして、互いに相手の言い分を聞こうとはしないようになっています。

それはまるで、勝手気ままな人たちの集まりのようであり、統制のとれていないまとまりのないグループのようなものです。

より力のあるものが否定しようとするものを抑圧してしまい、それを亡き者にしてしまうのですが、本当になくなってしまうわけではないために、いずれは仕返しされることになります。

今年に入ってからの変化というのは、そうやって影に隠されてきてしまったたくさんの心の断片たちが、こぞって表面に出てきていることによるものです。

そうなると、場合によっては今までこれが自分だと信じてきた自分に都合のいい自己像というものの全体像が変わってしまうのです。

どれが本当の自分なのか、一体本当は自分とはどんなやつだったのかとびっくりしてしまうかもしれませんし、信じてきた信念や信条なども見直しを余儀なくさせられてしまう可能性もあります。

そして、勿論都合が悪いので隠してきたものが見えて来てしまうのですから、何らかの苦悩として感じるかもしれません。ある人は罪悪感だったり、ある人は身体の不調であったりするのです。

ですが、それは一種の毒出しだと思えばかえって喜ばしいことだとわかるはずです。すべてを光にさらけ出して、それを全面的に受け止めてしまえば、もう怖いものもありません。

それは人間としてできる最高レベルの癒しがやってくることになるのですから。この癒しの波に素直な気持ちで乗ることにしましょう。

なるべく抵抗しないことです。そうすれば、いずれは痛めた傷口もふさがり、きっと穏やかな心の状態がやってきてくれるはずです。

原発について

今、福島の原発が本当に大変なことになっているのは周知の事実です。数十キロ圏内の人たちは避難生活を余儀なくさせられているのは勿論のこと、放射能が本格的に漏れ出してしまったら、日本列島の多くの地域が危険な場所になってしまいます。

旧ソ連の時代に有名なチェルノブイリ原発の爆発によって、今でも数百キロ圏内は立ち入り禁止区域になったままです。

それどころか、今でも非常に危険な状態にあるという話を聞いたことがあります。石棺というもので覆って放射能漏れを防いでいるのですが、それが古くなってこのままでは再度漏れ出す可能性が高いのだそうです。

チェルノブイリで爆発が起きたあとに、日本でも放射能の濃度が上がったことはあまり知られてないかもしれませんが、ある意味地球の裏側にまで風に乗ってやってきていたのですから、対岸の火事では済まないのです。

静岡県には、有名な浜岡原発がありますが、そこは驚くべきことに東海大地震が想定される区域のど真ん中に建てられています。

もしも、歴史上起きたレベルの大地震がまたやってくると、浜岡原発の安全性は果てしなくゼロに近くなってしまうはずです。

私の義理の母親は今でもそこから直線距離にして12kmくらいのところに住んでいますので、とても心配ですし、本当に大地震に見舞われてしまったらそれも関係ないくらいに東京も壊滅するかもしれません。

チェルノブイリの大事故の原因が実は地震だったということも、旧ソ連の当局がひた隠しにしていたことが最近暴露されたようですね。

原発というのは、もともと炉を大量の水によって冷やし続けなければならないために、海や川のそばに建設されるのですが、そうした土地というのは断層の境目であることが多く、地震が起こる可能性が高く、非常に危険なのです。

原発の事故は天災が起こしたように見えて、実は人災としての要素が多分にあると言えると思えます。悪者探しをしても仕方ないですから、ここは冷静になって一人ひとりが原発の是非をしっかりと判断する必要があると思います。

珍しく現実的な内容になってしまいましたが、私たち人類の存続にとって、この原発の問題は非常に大きな瀬戸際に立たされているような感じがどうしてもしてしまいます。

こうしたことは、一人ひとりの心の中にある誰かを助けたいという思いを発動させることで、方向を転換させていけるはずだと信じたいですね。

思い入れの罠

確か中学生の頃だったと思うのですが、レコードを買って音楽を楽しむ習慣ができつつあるころでした。今でいうCDですね。

LPレコードというのは、CDの何倍も大きくて、表と裏があって面にホコリや傷がつきやすいために、とても扱うのに神経を使っていました。

やや潔癖が入っていたのかもしれないと思うくらいに、丁寧に扱って、指紋をつけるなどもってのほかくらいに思っていたのを覚えています。

一つお気に入りのレコードがあって、いつも聞いていたのですが、あるとき4歳上の姉がそれを貸して欲しいと言って来たので、快く貸してあげました。

しばらくして、返してもらったときに、レコードの面が傷だらけになっているのを発見して、怒りと涙まじりに訴えたのですが、元に戻るわけでもなく、そのレコードをそれ以来聴かなくなってしまったのです。

多分、音楽を聴くという本来の目的からしたら、レコードとしての機能を果たしていたかもしれないのですが、もう見るのも辛くなってしまったので、聴くことができなくなってしまったのだと思います。

一般的に、自分がとても神経を使って扱っているもの、丁寧にやさしく取り扱おうと心がけているものを、誰かに手荒く使われると本当に酷い気持ちになるものです。

もっと小さい時にも似たようなことはたくさんあったように思います。たとえば、傷がつかないようにやさしく使っているおもちゃなどを友達に貸したら、乱暴に扱っているように見て悲しくなったりしたことがありました。

こうしたことは、大人になった今でもあるかもしれません。この気持ちの根っこには、繊細さの欠ける他人の振る舞いに対する憎悪なんでしょうね。

これも誰かを悪者にしようと企む意識の一つの表現なのだと最近では判るようになりました。それでも、いやなものはいやですね。

自分の「思い入れ」が招く罠なのだろうと頭では分かっているのですが、いまだに克服できていないようです。

でも最近では、そんなに自分は変われないということも分かってきているので、相手のことも自分のことも責めないようにとは思うようにしています。

笑う門には福きたる

ここのところ、誰もがあまり明るく元気な気持ちで生活しているとは言い難いかもしれません。いいニュースが一つも入ってこないばかりか、連日震災や原発のニュースに気持ちが滅入っている感じがします。

しかし、こういうときだからこそ、一人ひとりの心の中をできるだけ明るく保つことがとても大切だと思います。

人は嬉しいことがあったら笑うし、楽しいことや愉快なことがあればみんな笑うのですが、その原因と結果を逆にしても、その関係が成立する場合があるのです。

それが、「笑う門には福きたる」ですね。とにかく、何だろうと明るく笑い飛ばして生活している人のほうが、暗い鬱々とした気持ちでいる人よりも結果として幸せになるということです。

本来は、幸せだから笑顔になるのですが、笑顔でいれば幸せがやってくるということですから、原因と結果はひっくり返しても成立するということですね。

これは実は人生をいい方向に持っていくための非常に強力な方法なのです。単純なことですが、明日どうなるのだろうと不安な気持ちに焦点を当てていれば、気持ちは沈んでいきますね。

そんな決して分からない未来のことよりも、今現在のことに意識を向けて、その中でできるだけ心が明るくなるように工夫するのです。

そうすると、人の心というのは案外素直なもので、そうしたことにひっぱられて明るく振舞っているだけでなく、本当に明るい気持ちになっていくのです。

表現は悪いですが、最初のうちはふりをするということでも構わないのです。それでも、心は自然とそうした「ふり」のとおりになっていくようにできています。

これは私自身はっきりとした経験を持っていますので、ぜひ試してみてください。必ず成功するはずです。

自分には分からない

今の私たちは、誰かを信じたり何かを信頼していれば大丈夫という状態ではまったくなくなってしまったと言えると思います。

政府を信じて、税金を払い、少しずつだけど世の中が住みやすくなるはずと思っていたのも怪しい感じがしてしまいます。

自分だけは真面目に仕事をして、一生懸命働いてきたから酷いことにはならないと思っていたとしても、天災はそんなことをあざ笑うかのように問答無用にやってきます。

そんな時に私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか?誰だっていいことをしてきた人は必ず報われるし、そうじゃない人はその仕打ちがやってくると思いたいのです。

それがいわゆる因果応報というものですね。それによって、この世界のバランスというものがかろうして取られると思いたいわけです。

正直者が馬鹿を見るとか、真面目な人よりもずる賢い人のほうが得をするというようなことは、決してあってはならないと思いたいのです。

しかし、現実はどうでしょうか?今回の大震災で大変なことになってしまった人たちが日ごろ悪いことをしてきたわけでは決してないと誰もがわかっています。

それなのに、酷い目に遭ってしまうというのは神様はなんと無慈悲なことをなさるんだろうと思って当然だと思います。

神は本当に無慈悲なのでしょうか?それは私には分かりません。ただひとついえることは、われわれ人間のレベルで感じることは一つの領域でしかないということです。

われわれが持っている正しさや理屈というものは、それが宇宙の大法則ではないのかもしれません。

本当に望むことと必要なこととは違う可能性もあるということです。所詮、私たち人間ごときにはそうしたことは分からないということです。

そのことに気づいていることがとても大切なことのように思うのです。私たちは、本当にこの世界で何が起こるのか、それが正しいことなのか、本当に必要なこととは何なのか、何も分からないのです。

起きたことをただそのままに受け止める度量を持つようになることこそ、本当に必要なことなのではないかと感じるのです。

自粛ムード

3月も終わりを迎えてそろそろ桜の季節だというのに、この寒さではつぼみのままで一向に開花しないですね。

来週末あたりに桜が満開になったとしても、今回の大震災のためにみんなが楽しみにしていたお花見は自粛ムードが漂っています。

ルシッドの近くにある井の頭公園は、毎年今ごろになると大勢の花見客でごった返すのですが、今年はどうやら禁止になるかもしれません。

被災地で大変な思いをして、毎日をやっと暮らしている人たちのことを考えたら、確かに浮かれてお酒を飲んで騒いではいられない気持ちにもなりますね。

しかしだからといって、楽しい時間を過ごすということを全面的に自粛するという必要はないのではないかと思います。

私たちはもうすでに十分に心を痛めてしまいました。これからも、ニュースやその他の情報から、いくらでも苦痛の中で暮らしている人たちのことを聞くことになります。

また、家族、友人、知人などが被災している場合には、とても楽しい気持ちになれないのも事実だと思います。

ですから、一人ひとりが工夫することによって、なるべく心を明るくできる時間を持つことは逆にとても大切なことなのではないかと思うのです。

ただただ、つらい人たちと同じ気持ちになっていればいいというわけではありません。希望を持って明るい気持ちでいられる時間はぜひとも必要です。

率先してそうした気持ちを自分なりに作って、それをできるだけ自然な形で伝播することができたら、それが一番いいと思いますね。

自粛する気持ちは大事ですが、楽しむ気持ち、明るく受け止める気持ちとのバランスを考えて、この難局をみんなで乗り越えていけたらいいなと思います。

輪廻転生

催眠療法を希望されるクライアントさんの中には、ご自身の過去世あるいは前世と言われるものを見てみたいと言われる方もいらっしゃいます。

あるいは、ごく普通に幼少期のことを見に行っているときに、自然とそうした前世のようなところに戻ってしまう場合もあります。

いずれにしても、本人が経験した別の人生の記憶を思い出す、あるいはそうしたイメージが浮かんでくるのですから、普通に考えたら不思議ですね。

ごく一般的には、われわれは肉体が死を迎えた後は、この自分は意識もろとも消滅してしまうと考えるわけですが、身体とは別に何がしかのものが残るということです。

そうやって、しばらく死後の世界にいて、その後にまたこの世界に新たな生命体として戻ってくるということですが、私にはそのことは謎でしかありません。

ただ、セッションではそうしたことが時々あるので、それはそのままに受け入れていますし、それがクライアントさんにとっての何かの助けになるのであればいいわけですから。

最近では、自分の本質というか、本当の本当の自分とは何だろうということをいつも見つめる癖ができてしまったので、その輪廻転生というものについてあらためて考えるようになりました。

真の自己は時間を越えたものであるので、一度死んでまた生まれ変わるというように時間の中で起きている事柄については、どう考えたらいいのだろうと思うのです。

それはこの世界で起きていることの中の一つであると考えてしまえば、それはそれでいいのでしょうけれど、自分の身体が消滅したあとに残るものとは一体なんだろうという疑問は残ります。

それも含めて、この世界、この宇宙で起きるすべての事象を丸ごと受け止めているのが、本当の自己であるということですね。

それは私たち人間にとって、嬉しいことばかりではなく、今回のような大きな災害なども起こるわけですが、そうしたことのすべてをそのものとして受容するのが本当の自分なんだろうと思うのです。

こんなはずじゃなかった

この二ヶ月間のうちに起きてきた心の中でのつぶやきは、「こんなはずじゃあなかった!」というものです。それはつくづく思っているような感じです。

どういうことかというと、自分の人生というのは、もっと平和でもっと普通でごくごく当たり前の一般的なものであるはずと思っていたということです。

特別な波風も立つことはないし、波乱万丈とは間逆な穏やかで静かなある意味模範的な人生になるはずだったと思っていたようです。

それが最近、たぶん自分はやはり普通の人とはどこか違うのだろうと何となく思っていたものが急激に大きくはっきりしてきたのではと思っています。

11年前に癌を患ってから、会社員を辞めて今の仕事をするようになって、ずいぶんと大きな変化をしたはずだったのですが、内側ではそうでもなかったということかもしれません。

それよりも、この数ヶ月の自分の方がよほど、根底から覆されるような何らかの変化をし出しているということを察知しているのかもしれません。

人間としての自分の変化というよりは、もっと奥の中心にある自分への気づきというものが、抜き差しならないものを感じ取っているのでしょうか。

だからこそ、とうとう「こんなはずじゃあなかった!」という心の声が聞こえるようになったのではないかと思うのです。

でもそれは、心の一部からであって、勿論今の自分を相当に喜んでいる自分もいるわけで、それらが渾然一体となっているのでやや疲れるのですね。

それが、身体にも出ているようで、首や腰が痛くなって見たりしているようです。それと、何だか自分が生きている感じがしないという面も今までよりも強くなったかもしれません。

それは特別いやな感覚というのではないのですが、「なんだかな~」というような漠然としたものです。

自分とは何なのか、ということを突き止めることがこの人生の目的だったなんて、あまり大きな声では言えないですが、たぶんにそんな気がしています。はぁ~~

男女の違い

今回の大震災を各人が各様に経験して、いろいろなことを感じたり考えたりしたと思うのですが、平均的にみて、女性と男性で少しその反応に違いがあるように思いました。

それは、女性のほうが総じて震災を怖がっている人が多いということでした。天災というのは、勿論誰にとっても恐怖を伴うものですが、女性の方がそれを肌で感じてそれが行動にも出てしまうということのようです。

パニックになって部屋の外に飛び出そうとしてしまったり、慌ててしまって何をどうしたらいいのか分からなくなってしまったという話しを主に女性から聞きました。

それは、きっと女性の本質は誰か大切な人を守るという母性的本能が強いために、その原動力となる恐怖が大きく出てしまうのではないかと思うのです。

一方、男性は危機的状況においては、恐怖を攻撃的な感情に変換するような体質があるように思います。それは、誰かを守るというよりも獲物を捕らえるという役割から来ているのかもしれませんね。

子供の頃に、家のすぐそばにある石神井川が集中豪雨のたびに氾濫したのですが、そうなると川の水かさがあっという間に増えて、地上と同じくらいの水位になってしまうのです。

濁流が地上すれすれのところをを猛スピードで流れるような状態になるのですが、それ以上雨が降り続けるとすぐに床上浸水になってしまうのでした。

そんな中、どういうわけかそうしたごうごうと流れる濁流の淵を上半身裸になったおじさんが現れて闊歩しながら、俺が来たから何かあったら助けるよ、みたいなことを言っているのです。

それを見るたびに、子供心にこのおじさんは今とても生き生きとしている、こういう災害が好きなのではないかなと思ったものでした。

つまり、男性というのは危機的状況になったときに、ある種アドレナリンが大量に分泌されて戦闘態勢になるのでしょうね。そのアドレナリンおじさんを目撃するたびに、そう思いました。

そういうわけで、一般的には今回のような災害が起きたときには、女性と男性では反応の仕方に違いが出るのも自然なことなのかもしれません。

地震がとても怖くて仕方ないと感じる女性のみなさん、大して怖がらないような男性がいたとしても尊敬しなくてもいいと思います。持って生まれた役目に違いがあるというだけです。

それでも、私の目からみて、咄嗟のときに冷静でいられるようにした方がかえって、安全を確保することができるように思います。

起きることは起きるし、起きないことは起きないということです。身に降りかかることを心のどこかで受け入れる準備をいつもしていることが大切なのかもしれませんね。