助けを請うこと

4輪レースの世界最高峰にF1(フォーミュラワン)というカテゴリがあるのですが、その一昨年のワールドチャンピョンであるジェンソン・バトンという人が今回の日本の震災についてコメントしているのを読みました。

彼は、「日本人はまだ助けて欲しいと訴えていないが、我々はそれを待っている必要はない。」と言っていました。

彼の恋人は日本人の有名モデルということもあるのですが、日本のホンダと共に6年以上もレース生活をしてきたことで、日本人の友人が沢山いるということもあるのでしょうね。

日本の被災地の人たちに対してチャリティを企画したり、様々な活動をしていると聞きました。それ以外にも、各国のF1ドライバーたちがこぞって日本の復興を応援しているというメッセージを沢山聞くことができました。

確かに、日本はまだ全世界に対して、本当に助けて欲しいというメッセージを投げかけてはいないのではないかと思うのです。

こうした大災害のときこそ、世界に向けてできるだけの援助をして欲しいと訴えることがとても大切なのではないかと感じるのです。

今日本人がやらなければならないことは、きっとそれなんだと思います。自分の努力と頑張りで確かに何とか問題を解決してしまえるかもしれませんが、周りの多くの力を欲しいと言えばいいのです。

そうやって、誰もが、そしてすべての国々が単独で成り立っているのではないと、すべてが繋がってそして助け合って存続しているのだということを示すチャンスなのではないかと思うのです。

困っているときに、素直に「助けて下さい」と言えることはとても素敵なことですし、大切なことだと思います。国をあげて、助け合うだけではなくて、全世界に向けて援助を求めることも大切だと思うのです。

悪者探し

私たちは、何か問題が発生したときには、その内容をよく吟味してできるだけ速やかにそれを解決しようと努めます。

今回の大震災でも、さまざまな不備や疑問、問題点などが沢山露呈してしまったと言わざるを得ません。大切なことはそれを真摯に受け止めて、反省して改善できるところを探して活動していくということです。

ところが、そのときにどこに問題があったのかということと関連して、誰が悪かったのかということに話しの中心が反れて行ってしまうことがあると感じます。

言ってみれば、うまく事が進まないときの悪者探しの状態ですね。この悪者探しをしてしまう心というのは、その根っこに自分はそれほど悪くはないというものが潜んでいるのです。

ここを見逃してはいけません。なぜなら、誰かの間違いを責めてしまうその気持ちそのものが、何かの間違いを引き起こす原動力になっているからです。

したがって、問題が発生したときに悪者探しをすると、その次にまた同じような問題を発生させる要因を作り出してしまうことになるのです。

それでは堂々巡りになってしまうのは目に見えています。私たちに最も必要なのは、勇気を持って悪者探しをやめることです。

現象だけをよく見つめて、ひたすらできる手助けをすることです。ややもすると、どこに責任の所在があったのかを分析しなければ、改善できないと考えるかもしれません。

それはもっとなことですが、そこは注意深くやらなければ結局誰かが責任を取って終わりになってしまいます。

実際に被災された方々の言葉にも大きく二通りのものを感じることができます。一方は、こんなに助けてもらってありがたいというもの、もう一方は国も行政も何もしてくれないという不満。

その気持ちは痛いほどにわかるのですが、私たちはみなできることをするだけです。誰かを責めることをやめない限り、苦しみは続くということを決して忘れないことだと思います。

人間をやめる

ずいぶんと昔に、近所に2~3歳の男の子がいて、時々ふらっとうちに遊びにくるのですが、「○○ちゃん、何してるの?」と聞くと、「遊びやってるの~」と答えたものでした。

彼はすでにその年齢にして日本語の正しい使い方を学んでいたのでしょう。「遊ぶ」という動詞の連用形である「遊び」を使うことで、名詞として用いるという方法を知っていたのです!

それはそうとして、「あなたは今まで何をしてきたのですか?」という質問や、「あなたは今何をしていますか?」という質問に対して誰もが同じ答えをすることができるのです。

それは、「人間をやってきました。」とか、「人間をやっています。」というものです。この答えはとても奇異に感じるかもしれません。

でも、これはとても的を得た答えであると言えるのです。ただ、人間として生まれて、生きているだけだと誰もが思っているかもしれませんが、実はそうではありません。

私たちは、人間をやっているのです。それも、かなりの努力をし続けています。この努力を放棄するとどうなるかというと、生まれたときの純粋無垢な存在へと帰ることになります。

赤ちゃんの時に森に捨てられて、偶然にも狼によって育てられた少年がかつて発見されたことがあったのですが、彼はまるで狼のように四足歩行をしていました。

勿論、生物学的にはどこからみても人間であることは間違いないのですが、ここで大切なことは本人が自分をどう見ているかという点なのです。

彼は決して人間をやってはいなかったということです。彼と私たちの違いは、ひとえに環境にあります。狼に育てられれば狼になるし、人間に育てられればこそ人間になるのです。

そして、人間になり、人間であることを維持し続けるのはとても大変なことです。なぜなら、人間になった途端にそれまでとは違って、自分とはひどく弱々しくて傷つきやすい存在となってしまうからです。

だから人間には病がつきものです。大変疲労することもあるでしょう。かつて、「人間やめますか、それとも覚せい剤やめますか?」というCMがありました。

私にしてみれば、覚せい剤をやめられない人ほど、どっぷり人間をやっている人だと思うのです。そして、人間をやっているすべての人はそうした快楽を使って気晴らしでもしなければやってられないのです。

人間をやりながら、そこそこ楽になっていく方法がありますが、それがいわゆる心理療法です。これは見方によればとても役に立つものです。

でも本質的な癒しを更に求めるとしたら、ある意味人間をやめる必要があるのです。それも人間をやりながらそれをする方法があります。

それは、本当の本当の本当の自分に気づくことです。それが、生まれたときのあの純粋に周りを見ているだけの自分であり、自分の存在を「無」にした自己の気づきです。

今後はより多くの人と、そうしたことを分かち合っていきたいと思っています。

節電と消費

夕べ、長い間ずっと使っていたドライアーが突然動かなくなってしまいました。ちょうど、10年前に気に入って買ったものだったので、仕方なく分解して直すことにしました。

故障箇所を見つける前に驚いたのは、何とまあホコリがこれでもかというくらいに溜まっていたことです。こうしたものは、壊れない限りは分解などしないので、掃除することはできないわけです。

そのため、手付かずに使って10年も経つと、ひどいことになってしまうのですね。丁寧にホコリを除去してから、面倒な修理作業を無事終えて電源を入れてみてまたびっくりです。

それは、驚くほどの風速が戻っていました。元々、購入するときに大型電気店で一番風力の強いものを選んで買ったのですが、ここまですごいとは、すっかり忘れていました。

長い間のホコリの蓄積で、少しずつ風力が弱くなっていたのに気づかなかったのですね。髪を乾かす時間がかなり短縮されるはずなので、これも一つの節電に繋がるなと思って内心ホクホクしています。

きっと、また10年くらいは使うことになるのかもしれませんが、あまり物持ちがいいというのも問題なのかもしれませんね。

というのも、今の経済というのは私たちが消費して購買することによって成り立っているからです。誰もが、買い控えをするようになれば当然経済は悪化していきます。

今回の大震災の影響で、多くの人たちの浪費癖が治ることはいいことなのですが、それがあまりにも急激にやってくると、経済への悪影響が懸念されてしまいます。

ただ、長い目でみればそうしたことも通らなければならない道なのではないかと感じます。大量消費による経済の発展というものが、大きく見直されなければならない時代に突入したということですね。

消費が減っても経済が成り立っていくようにするには、どのようなことを考える必要があるのか私には分かりませんが、きっと大きな変化が全世界的にやってくるような気がしています。

潔癖について再び

このブログで以前、きれい好きと潔癖症とはまったく違うということを書いたことがありました。きれい好きというのは、きれいなもの、美しいものを好むという人間に本来備わっている性質だといえます。

一方、潔癖の方はというと、きれいなものに目がいく代わりに汚いものに注意を集中することで、それを拒絶して自分の安全を保ちたいという欲求からくるのです。

つまり、恐れが潔癖のエネルギー源であると言うことができます。今日、水道水に原発から漏れ出した放射性物質が含まれていることが伝えられました。

確かに、この水には毒がごく少量含まれてはいますが、身体には害はありませんのでたっぷりお飲み下さい、と言われてもそういい気持ちで飲めるものではありませんね。

しかし、含有量からしたら気にする必要のないレベルであることがはっきりしているなら、殊更それを恐れることもないはずなのです。勿論乳児などはその限りではありませんが。

水道水はたとえ浄水器を通したとしてもしばらく飲まずにおこうと思うのは、やぱり潔癖から来るものなのではないかと思います。

これはいい悪いの話しをしているわけではありません。心の中に、愛が中心としてあるのか、それとも潔癖を起こしてしまう恐怖が中心にあるのかを考える必要があるということです。

我々は日々、もっともっと身体に有害なものを沢山摂取しているはずです。ただ、致死量からはかけ離れたくらいに微量であるから安心して飲み食いしているのです。

ある知人から聞いた話しですが、冷凍食品を製造している工場に勤めている人から漏れ聞いた話ですが、作るところを見たら決して食べることなどできなくなると言っていたそうです。

それくらい、体内に入れたくはないと思われるものを沢山使用しているということですね。勿論、自分の身体の健康に気を配らないのはどうかと思います。

しかし、ごく普通にバランスのとれた食事や運動を心がけることと、それ以上の潔癖からくる行動をしっかり分けて考えることも大切ではないかと考えます。

とりあえず、特別な理由がない限りは、ミネラルウォーターの買い占めに奔走しないようにしたいものですね。

機が熟すのを待つ

自分が生まれてから死ぬまでの間に、どれだけの人たちと知り合いになったり友人になったりして関係を作っていくのでしょうか?

ずっとなんらかの関係が継続していく人もいるし、あっという間に関係が無くなって行ってしまう人たちもいます。

そうしたことは、自分が意図してそうなっていくわけではないのですが、どうしたわけか自然の成り行きに従って様々な関係がやってきては去っていくものですね。

そこに個人的な期待や望みなどが強く入り込んでくると、執着やわだかまりなどが発生して結局辛い思いをする羽目になってしまいます。

人間関係でトラブルが起きていると感じることがあったとしても、すぐに結論を出そうと急がないようにするのがいいかもしれません。

トラブル、あるいは問題というものはいつでも起きるものですし、それがただちに人生にとって悪いことだと決め付ける必要もありません。

それよりも、その問題をじっくり味わって、それを楽しんで、心の中に留めておくことです。決してそっぽを向いて見ないふりをしたりしないことです。

そうやって、真正面から自分なりに考えられることを考えてみて、何が起こるかじっと待ってみることです。

そうすると、機が熟したころには必ずなんらかの道が見えてきます。自分が急いで決める代わりに、むこうからやってきてくれた結論は、大抵最善の方法に違いありません。

この方法は、人生の中であらゆる問題に対処するときに利用できるはずです。是非、試してみて下さいね。

地震の影響

大震災が起きてから、初めて大型スーパーにクルマで買い物に出かけたのですが、巷のうわさ以上に道路が空いているのに驚きました。

行く途中に二店ほどガソリンスタンドがあるのですが、両方ともお休みになっていて、これももしかしたら買占めの結果なのかなとやや悲しくなりました。

東京は直接の被害はなかったはずなのに、人々の危機感によってクルマを利用する多くの人たちがこぞってガソリンを入れに行ったら、さすがに無くなってしまうこともあるのでしょうね。

尤も物流の滞りが原因でガソリンが入荷できなくなっているということもあるのかもしれませんが、いずれにしてもガソリンスタンドが地震の影響で営業していないというのは初めての経験だと思います。

スーパーの中は照明を落としているために、いつもよりもかなり薄暗くて、かつてアメリカに仕事で滞在していたときのことを思い出しました。アメリカのお店というのは、常に日本よりもかなり暗いイメージだったのです。

スーパー内では、商品によってはまったく入荷されてないものもありましたね。でも、不思議な感覚なのですが、商品が品薄で棚が空き空きになっているのも悪くないなと思ってしまったのです。

ちょうど、家の冷蔵庫の中がいつも何かでぎっしり詰まっているよりも、定期的に空っぽになってくれたほうが新鮮な感じがしていいというのと同じかもしれません。

スーパーでもコンビニでも、いついかなるときに行っても、商品で溢れかえっているのは、どうなんだろうと密かに思っていたのです。

あれだけいつも満杯に陳列されているということは、売れ残ってしまうものも沢山あるはずだし、それは本当にもったいないと思ってしまうのです。

今後も余震が続くでしょうし、まだまだ予断を許さない状況だと思いますが、一ヶ月二ヶ月経って喉もと過ぎれば…というようにならないようにしたいと思います。

規則を決めない

今回の大震災のような出来事に遭遇したなら、自分はどういう行動をとることが一番いいのかということについて、日頃から準備しておくことはとても大切なことですね。

それは国のレベルにおいても、そして個人のレベルにおいてもいえることです。危機管理の体制をあらかじめ構築しておくことも有効です。

こうなったらこうする、こういう事態にはこう対処する、などのように具体的に互いに申し合わせをしておくこともとても大事なことです。

しかし最も大切なことは、本当に必要な行動とはその瞬間になるまで決めることはできないということにも気づいていることです。

大した事例にはなりませんが、例えば私が講座やセミナーをするときに、ある程度は事前にこんなことを伝えようと準備しておくのですが、いざその場になると内容が変わってしまいます。

勿論無理して、準備した内容を堅持することもできるのですが、それはどうも効率が悪いしその瞬間に最も適した内容ではないと感じてしまうのです。

だからといって、準備作業がまったく必要ないということではなく、逆に準備しておいたほうが悠然と内容をその状況に合わせて変えることができるような気がします。

私たちはいろいろ分かっているように思えても、実際この世界で何が起こり、自分は何をすべきかなど何一つとして分かってはいないのです。

その瞬間になるまで、どんなことを選択しどう行動することが一番いいのかということは、決して誰にも分からないようにできています。

自分がある状況で何をするべきか、規則を決めないということです。機会がやってきたときに、自分の本質を見て、そして自分が何をするべきなのかを「発見」することです。

そうした態度こそが、謙虚にその状況を見て、真の自己からの情報をその都度受け取る生き方につながるものではないかと思うのです。

自分の内面を見る

瞑想や座禅などをして、自分自身について深く見つめるという場合、実は気づかぬうちに間違った内面の見つめ方をしていることがあるのです。

そのことについて、私の事例を使って説明してみたいと思います。11年前に、会社員を辞めるまでの間、自分の人生はそこそこいいんじゃないのという思いを持っていました。

つつがなく安全な人生、誰からも後ろ指を指されない平和な毎日。そうしたものに自分で自分に満足していたのだと思います。

それは自分という人間を外側の視点から見ていたわけです。つまり、他人が自分をどのように見ているのかということを類推して、それを自分なりに判断して自分の評価としていたということです。

でもそれはいつまでも自分を騙しておくことはできませんでした。なぜなら、誰にも知れない心の奥で何かが違ってるということを感じていたからです。

このままじゃ違うんじゃないの?という声は自分以外の誰にも聞こえるものではありませんが、最終的に癌を患ったことによって噴出してしまいました。

それまでも自分の内面を見つめるということをまったくやっていなかったわけではないのですが、結局は外側の視点から自分の内面を見ると言う離れ技をやっていたということです。

本来それは不可能なことですね。つまり、こうした視点を間違ったままで、いくら瞑想や座禅をしてみたところで何の価値もないということです。

話しを元に戻すと、私たちにとって最も大切なことは、自分の内面という視点から内面を見つめるということなのです。

それには、一切の予備知識や常識などの前提となる評価基準などを度外視して見つめることがどうしても必要なのです。

それは、今この瞬間にただ自分が感じることだけを頼りに、内面を見るということです。あるがままをそのままに見るということでもあるのです。

それができて初めて、自分を本当の意味で内面から見つめることができるようになるのだと思うのです。

もしも本当にそれが十二分にできるとすると、きっとあらゆる自分に対して全面的にOKを出してあげることができるのでしょうね。

それこそが本当の心の平安を得ることでもあるし、真の許しということでもあるのだと思うのです。

不自由さの原因

私たちはみんなそれぞれに、これが自分だと思っている自己像というものを持っています。そして、心の底からそれが確かに自分なのだと信じ込んでしまっています。

しかし、それは実際には生まれてからずっと繰り返して教えられてきた自分のイメージでしかないということを知らずにいます。

残念ながら、我々は周りによって作られた自分のイメージによって、自分というものを認識するようになってしまったのです。

そのことをよくよく理解する必要があります。これは誰にでも言えることなのですが、本当はみんなもっともっと自由奔放に生きれるはずなのです。

ですが、自分とはこういう人間なのだということを教えられ、躾けられ、信じ込まされることによって偽物の自分を作り上げて、それを信じてこの社会に適合しながら生きているということです。

例えば、幼い頃に親などから、「この子はおとなしい静かな子だね!」と言われてしまうと、本当は言いたいことや訴えたいことがあったとしても、言えなくなってしまうということがあるのです。

そうやって、言えなくなると、益々そうした自分像に忠実に振舞わなければならないというルールが出来上がってしまい、それを打ち破ることがとても難しくなるのです。

こうした事例が数え切れないくらいに日常の生活の中に組み込まれていくことで、気が付くとにっちもさっちもいかないような、大変不自由な人生になってしまうということがあるのです。

どんな人でも心のどこかで不自由さを感じているはずなのですが、それにはこうした理由があったということです。

そして更にやっかいなのは、不自由であることを自覚していたとしても、人間は自己像を変えたいとは思わないという性質を持っているのです。

だから、自己像が不自由さの源であるということが仮に分かったとしても、その自己像は温存しておいて、目先の不自由さだけを何とかしたいと思ってしまうのです。

これでは死ぬまでその不自由さは解消されることがありません。何度繰り返しても足りないくらいですが、私たちは本当の自分で生きてはいないということをしっかり見つめることです。

どんな気質や体質で生まれたとしても、素の自分そのままで生きることができるとすれば、それは必ず生きやすい人生になるはずなのです。

みんなで、互いに協力しあって、誰もが素のままで生きてもいいんだということを認め合えるような世界になることを祈っています。