原発の問題

私たちが毎日生きて生活していられるのは、太陽が変わらずに光輝いていてくれるからですね。そのありがたい太陽が何十億年も光と熱を地球に供給してくれている燃料とは何でしょう。

実は太陽そのものが燃料であるわけですが、それが核融合によるエネルギーなんですね。それは次から次へと自ら核融合反応を起こして、半永久的に光と熱を発生するのです。

人類の歴史上、そのメカニズムに着目した賢い人たちがいたわけですが、その最初の利用目的が戦争兵器としてだったのは言うまでもありません。

つまり、この日本においてかつて投下された原子爆弾がそれです。被爆した人たちはひどい火傷を負ったのはその核融合の熱のためです。

そして今、まったく同じメカニズムによって私たちの毎日の生活が支えられているわけですが、それが原子力発電ですね。

原発とは、核融合によって熱を発生させてそのエネルギーによってタービンを回転させて発電するというものです。

ある意味、原発は近代国家の代名詞でもあるかもしれません。その誇らしい最先端の技術が、今人間の安全な生活を根本から脅かすことになっているのです。

原子爆弾に代表される核兵器といわれるものの所有を縮小するという申し合わせが世界中でなされている中で、まだ新たに開発しつつある国があるのも事実です。

原発にしても、多くの疑問や反対を押しのけて現在に至る紆余曲折の道があったにもかかわらず、以前として発電の中心的位置を確立しているわけです。

悪者探しをする前に、原発を撤廃したいと思うのであれば、一人ひとりの電気の使用量を根本的に見直すことから始めなければならないと感じます。

大学の友人のこと

大学の時の友人が仙台にいて東北電力に勤務しているのですが、きっと大変なことになっているのだろうと思って日曜日の夜にメールしておいたのです。

返事は当分もらえないと思っていたのですが、安否も気になっていた彼から水曜日に返事が返ってきました。それが以下のものです。

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メールありがとう。

あの日は命を失いかけました。老朽ビルの7階におり,立っていることはできませんでした。

当然,倒壊を覚悟しました。会社はいま大変なことになっております。あの日から,トータル

10時間しか寝れていません。これは被災された方から見ればたいしたことではありません。

とにかくすごい地震でした。電気は今日中の復旧を目指し,6000名の応援体制でがんばっております。

とにかく友達に聞かれた際には,家族も含めて無事であることを伝えてください。

とりあえず御礼まで。ありがとうございました。

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無事を聞いて一安心したのですが、真面目な彼の性格上、そして重責を担っている立場としてきっと寝れてないのだろうと思っていたのですが、その通りだと知って胸が痛みました。

なぜか、地震が起きてからずっと平安を保つことを心がけてきたせいか、いっきに涙が止まらなくなってしまいました。

それでも、すぐに真の自己を思い出し、そこに意識を向けて、あらゆることを受容することを忘れないようにしようと思い直すことができました。

まだまだ大変なときが続くのでしょうけれど、心から応援していようと思います。「何があっても大丈夫」のエネルギーを送り続けます。

一番でなければならない

誰でも幼いときというのは、ものすごく親の自分に対する反応に敏感なものです。だから褒められたらとても嬉しいし、逆に落胆されたりしたらそれこそショックなのです。

懸命に親に迷惑をかけないようにしてみたり、自分のいいところばかりを見せようとしたり、本当に涙ぐましい努力をしているものです。

それはもしかしたら、大人以上かもしれません。なぜなら、幼いときというのはまだ常識が出来上がってはいないために、自分の感覚だけを頼りに生きているからです。

この程度は当たり前だとか、誰だってこうしたことは言われるものだといったような判断が冷静にできないために、一人で小さな心を痛めてしまうのです。

それはすぐ身近にいてくれる親と言えども、なかなか分かってはあげられないものです。なぜなら、悟られてしまうようでは意味がなくなってしまうからです。

子供は親に心配をかけたくない、自分のために悲しい思いをさせたくないという気持ちがとても強いからです。

そうしたことを何とか根こそぎ解決する手立てはないものかと考えて、自分なりに目標を作るのですが、その一つが「自分は一番でなければならない」というものです。

これは、もしかしたら女の子よりも競争意識の強い男の子の方に多いのかもしれません。一番になることで、親に喜んでもらえるし、ありとあらゆる心配ごとから脱出できると思うのです。

そうした決意を小さな頃に作ってしまうと、それは間違いなくそれ以降の人生を大変過酷なものにしてしまうことになります。

なぜならいつも一番になれるはずもないため、そのたびごとに自分を責めることになってしまうからです。だから、また更にもっと頑張って一番になろうとして自己犠牲を払うことになるのです。

自分の心のどこかに、こうした「自分は一番でなければならない」と思っている意識がありそうだと感じるのでしたら、まず最初にその意識を思い切り受け止めてあげることです。

その言葉を何度も口に出して表現してあげることも効果があります。それを十二分に繰り返してやってあげることがとても大切です。

そうやってしっかり受け止めてあげることができたら、自然とその固い決意をした意識のパワーが小さくなって静かになっていってくれるはずです。

そうなって初めて、自分はこのままでもいいんだという深いところからの安心感に包まれたように感じることができるようになると思います。

平安の輪

幼い頃に家の裏で友達と三輪車に乗って遊んでいるときに、その三輪車ごと石神井川にどぼーんと落下してしまったことがありました。

汚水が垂れ流されている川の水の中に投げ込まれたようになって、わけも分からず水中でもんどりうっているときに誰かの手によって救い出されました。

そのときに偶然にも川の中に入って何かの仕事をしていた労働者の方がいたのですね。その人がいなければ確実に死んでいたところでした。

そのときの記憶がかすかに残っているのですが、川の水の中で自分がどうなっているのかも分からない時というのは、決して苦しいという自覚がないということです。

きっとそのまま助けてもらえなければ、幼い自分は苦しむこともなく溺れて死んでいたということです。その経験が少し役に立っています。

というのも、わけが分からずに死んでいくときには本人は苦しむことがないと感じるからです。特に、生というものに執着のない幼い子供はなお更苦しまないということです。

生きるということに執着を持つようになった大人であるほど、そして自分の状況を正確に把握できる時ほど、災害のときに苦しむということです。

予期せずにあっという間に津波に飲み込まれて亡くなった人たちの心は安らかかもしれません。かえって、残された人々の方こそ一番心を痛めているに違いないと思うのです。

話し変わって、昨日の午前中、バスルームの電球が切れてしまったので家電量販店に買いに行ったところ、レジでびっくりするほどの行列ができていました。

そしてほとんどの人が、大量に電池などを手に持っているのを見て、これが必要以上の買占めというものだなと分かったのです。

あれではすぐに売切れてしまうのが目に見えています。何度もこのブログでお伝えしているように、一番大切なことは心の平安を保つということです。

未来を不安の心で見るのではなく、今、落ち着いた心で過ごすことこそがこの日本に最も必要なことだと思うのです。

何が目の前で繰り広げられていると感じようとも、心の軸を失うことのないようにする練習の時だと思って、それをできる限り実践することです。

平安な心は必ず、自分の心から拡大して多くの人の心へと伝わるものです。みんなで、平安の輪を繋げられるようにしましょう。

平安な心の祈り

この非常事態において、一人ひとりができることは、それぞれに違いがあるかもしれませんが、共通して言えることはいたずらに心の中の不安に翻弄されないようにすることですね。

私も久しぶりにテレビの報道に釘付けになってしまってたりするのですが、とてもじゃないけれど平静な気持ちで見てはいられなくなりそうになります。

それは人として仕方のないことですが、様々な気持ちがやって来ても、それにもかかわらずできるだけ平安を保つようにすることが大切です。

夕べ、息子から突然次のようなメールが来てしばしびっくりしていました。

『もう何があるかわからないから一応先に言っておくけど
私は臓器提供の意思があります
誰かの役に立つならいいかなって思ってる』

宝くじで3億円当たっても一円たりともあげないと言っていたまだ若い息子をして、上記のような言葉を言わせることになった今回の天災とは、本当にすごい影響力があるんですね。

人は自分がどんな辛い状態に追いやられたとしても、たとえ寒くてひどい環境で一睡もできなかったとしても何とかなるものです。

でも、大切な誰かの安否を気遣うのは本当に耐えられないのです。そのことをテレビの報道を通してありありと感じることができました。

自分の心の中にある平安な気持ちを、できるだけ被災地の多くの人の不安な心に届くようにと祈ることですね。心配のエネルギーを送らないことです。

そして起きることが起きているということを認めましょう。この世界で起こるプロセスを信頼して、できるだけ受け入れようと努めることが一番大切なことだと思います。

たくさんの祈りのエネルギーが、今この瞬間に苦しんでいる人たちに届きますように。

感謝の気持ち

本当に大変な災害になってしまいました。被災地のみなさんができる限り早く心の平安を取り戻せるように祈るばかりです。

私が小学生の頃に、友達が、「天災は忘れたころにやってくるというから、僕は絶対に忘れないんだ!」と言っていたのを思い出しました。

その頃の自分はもう少しクールだったので、それは忘れなければ天災は起きないということではないのに、と言いたかったのですが彼の瞳があまりにも真っ直ぐだったので言葉を飲み込みました。

今になってそのことを考えると、あながち間違いでもないのかもしれないと思うのです。それは、被災したときに水のありがたさ、電気のありがたさ、寝る場所のありがたさ、そして人の愛のありがたさなどを思い出すことができるからです。

つまり、そうしたものすべてが自分が生き続けることを支えてくれているのだということを、忘れたころにそのことを思い出すために天災がやってくると思えるということです。

普段、友達というのはそこにいて当たり前だし、別に話し相手になってくれてありがとうとも考えたことがなかったのですが、高校の修学旅行で具合が悪くなったときに、夜通し看病してくれた男友達がいました。

そのときにはさすがにありがとうという思いが出てきたのを覚えています。いつもは何とも感じない友達への思いの中に、そうしたものが本当はあったんだなと自覚したことがありました。

でもすぐにそんなことは忘れてしまって、つまり喉もと過ぎれば…という都合のいい生き方は変わらなかったですね。

長い間感謝の気持ちとは縁がなかった自分ですが、ようやくこの頃になってそうしたことが分かるようになってきたというのが本当のところです。

ストレスの発散

昨日は大変な地震が発生しましたね。きっと、今この時間も自宅へ帰れない人たちが沢山いるんでしょうね、さらに寒さもひどくなってしんどいと思います。

私の息子も職場から4時間以上かけて、徒歩で戻ってきたようです。自分が直接経験した地震の中では一番ひどいものでしたね。

ちょうど、初めてのクライアントさんの催眠療法のセッションの真っ只中だったのですが、なかなか揺れがおさまらなかったので、その場で目を開けていただき中止しました。

こんなことは初めてです。久しぶりにテレビの電源を入れて、日本列島で起きていることを確認しましたが、プレートにかかっていた大きなストレスが開放されたための地震なのですね。

私たち生身の人間でも同じことが言えると思います。長いこと何かを我慢したり、鬱憤を押し殺していたりが続くと、大きなストレスが溜まり、いずれは地震のように表面化します。

それは自分ではコントロールできないくらいの大きな感情の爆発として体験するようになる可能性があります。

日本列島にしても、普段から小さな地震が頻発して、ストレスを適度に溜めないようにしていればいいのですが、そう思い通りには行かないものですね。

私たち人間も同じことです。適度に言いたいことを言い、適度に我慢しすぎないように気をつけてあげて、普段からいやな感情を溜めないように気をつけることです。

それができたら、大きな心のダメージを受けることもなくなるはずです。もしも、一人でそれができないようでしたら、セラピーなどを受けるなどして、日ごろから対処しておくことが大切だと思います。

できるだけ、地震の被害が少なくなりますように!!

言い辛いことを伝える

会社員だった頃のことですが、会社として人件費を節約するために日本人の正社員を雇うよりも、海外から賃金の安いエンジニアを連れてきて、仕事を手伝ってもらうというシステムがありました。

私の記憶では、インドの人たちが多数来てましたね。もしかしたら、他の国からも来ていたかもしれませんが、私はインドの人たち数名と一緒に仕事をしたことがありました。

ご存知かもしれませんが、インドという国では貧富の差、教育レベルの差というものが今だに極端にある国なのです。

日本人と比べたら、賃金は安いのですが、日本に来て働くことができるインドの人というのは、もうインドの中では飛びぬけたエリートなのです。

だから、日本人の我々よりも優秀な場合も多々あるのです。そのうえ、とても真面目な人たちばかりなので、信頼して仕事を頼んだのです。

ところが、仕事の進捗会議などで、状況を聞くといつも大丈夫と答えるのです。少し予定よりも遅れているけれど、大丈夫、何とか予定通りに仕上げられると言うのです。

彼らは正直な人たちなので、それを信用して仕事を依頼している私はきっとやり遂げてくれるものとたかをくくっていたのです。

ところが、計画が終盤近くになってきたころ、まったく予定からはずれてしまっていて、もう間に合わないということが私からも見えるようになったのです。

つまり、彼らは仕事を失いたくないという思いからなのか、あるいは自分の能力を低く見られたくないからなのか、とにかく「できない」ということが言えなかったのです。いつも大丈夫と言っていたのです。

それを見抜けなかった自分がいけなかったのですが、結局そのしわ寄せはカスタマーと私の部下に行くことになってしまいました。

勿論、全責任は私にあったのですが、一口で言えば痛い経験をしたということですね。インドの人たちの名誉のために言っておきますが、みんながみんなそうだと言うことはないはずです。

できないときには、できないとはっきり言うという、こんな当たり前のことでも、自分を守りたいという気持ちが強くなってしまうと、言えなくなってしまうこともあるんですね。

みなさんは、「できない」としっかり伝えることができていますか?何にしても、否定的なことを伝えるというのは、避けたいものです。

でもそれは、自分だけでなく周りにも迷惑をかけてしまうことになりがちですから、勇気を持って本当のことを伝える必要があるということですね。

自分に気づいていること

私たちは朝目覚めてから夜寝るまでの間、その瞬間瞬間に自分が何をして、どう考えているのかということに本当には気づいていない可能性があります。

その証拠に、ふと気がつくと、ああもうこんな時間になっている、という具合に時間の経過に気づかなくなってしまうという経験をよくします。

テレビを見ているうちに、番組の内容にはまりこんでしまい、テレビを見ているという事実を忘れてしまうということもあるかもしれません。

あるいは、今自分は何を考えていたんだろうかと分からなくなってしまうこともあります。こうしたことは、みなその時々の自分に十分に気づいていないということを物語っています。

それは言ってみれば、意識が自分から離れてしまっている状態であるということです。ふと、昨日のことを考えていたり、明日の用事について心配していたり。

ピアノを弾いているとしても、今自分がピアノを弾いているということよりも、上手にピアノを弾きたいという側に意識が向いてしまっていることなど。

街を歩いているときには、外の景色に心を奪われてしまうことも多いですね。つまり、今自分はこのようにして歩いているということから意識が離れているということです。

こうやって、今日一日の自分の行動を検証してみると、かなりの確率で自分そのものに気づいていない時間を過ごしてしまっていることに驚きます。

こうした時間というのは、本当の自分から意識が離れてしまっているとも言えます。自分の中心に心を置いた状態のまま生きていないということです。

これでは効率が悪いのです。何をしていても、もっとも力を発揮するためには自分の中心に意識があり続ける必要があるのです。なぜなら、すべての力はそこからやってくるからです。

意識を常に自分に向けていることができると、集中力もついてくるし、過去や未来へと意識を流されなくもなります。

そうなると、いつも今この瞬間に自分の意識を置いておくことになって、何をするにも充実感や満足感を感じることができるようになるはずです。試してみて下さい。

エゴの改造

このブログを始めてから丸二年たったなあと思って、二年前の今日の日付の内容を確認したら、「理不尽なこと」という題名でした。

今読み返してみると、ある種のボランティア活動を自主的に始めてしばらく経ったころで、その内容というのが結構な理不尽さを経験することになったので、そのことについて書いていました。

そのボランティア活動というのは、こちらの誠意でやらせてもらっていることなのですが、相手の方からはボロクソに言われてしまうような状況でした。

それが自分としてはとても理不尽な気がしていたのですが、それでも自分を少しでも愛に目覚めさせたいという熱意があって続けていたんですね。

それがつい数日前から、急にその意欲がなくなってしまって、事実上終わってしまった感じになっています。なぜこうなったのかと今考えてみていたのですが…。

自分が考えるに、最近気づいたこととして、この肉体人格(エゴ)の自分を改造して愛に近づけていくという真面目な努力を続けて言っても、所詮エゴはエゴのままだと気づいたからです。

そんなことを断定的に言ってしまったらそれこそ身も蓋もないと言われてしまいそうですが、でもそういうことなんだと分かってしまったのです。

勿論、少しずつ怒りを手放して、感情の起伏を穏やかにしていくことは意味のあることですし、理不尽さに対する抵抗力を着けていくことは人生を生きやすいものに変えてくれるはずです。

しかし、とても逆説的なことなのですが、肉体人格(エゴ)の私を変える一番いい方法とは、私には決してそれをすることができないと認めることだと気づいてしまったのです。

この気づきはとても自分を楽にしてくれたようです。確かに、エゴは自分がいい方向に変化しているという感触をプレゼントしてくれるのですが、それは本質的なものではないのです。

自分が身体だと思っている意識を本質的に変えるということはきっと不可能なことなのでしょう。それよりも、本当の自分に気づいていくことによって大きな変化を体験することになるのだと思います。