不平不満

何に対してもまったく不平不満を持っていないという人はいないかもしれません。どんなに心穏やかでいい人であったとしても、不平不満がまったくないという人はいないはずですね。

気に食わない人に対してだけではなくて、どんなに愛しいと思えるような人に対してであっても、必ずなんらかの不満な気持ちを持っているものです。

でも不平不満を感じているときに幸せだとは思えないということも誰でもわかっています。それなら、なぜ人は幸せになりたいと願っているのに不平不満から逃れることができないのでしょうか。

それは私たちは生まれたときから、何かが足りないという根源的な思いの中に生きているからなのです。それを欠乏感といってもいいかもしれません。

欠乏しているという思いは、自分は満たされてはいないということを意味します。したがって、願いが叶おうが叶うまいが、とにかく不満なのだというところに行き着くということです。

仮に何かとても大きな願い事が叶って、嬉しくて仕方ないという状態になれたとしても、根源的な欠乏感がなくなるわけではないので、しばらくするとまた周囲の何かに対して不平不満を感じ出すことになるのです。

不平不満はありとあらゆることを対象として、生きている限り続くことになります。会社が悪い、国が悪い、パートナーが悪い、自分が悪い、といくらでも不平を言えるものは出てきます。

不平不満は、自分の中にある大切な愛の心に暗くて重い覆いをかぶせて、それをなきものにしてしまうのです。だから、愚痴をやめられない人は愛から遠ざかります。

自分が幸せでない理由を何かのせいにしようとする人は、もっとも不平不満の多い人になってしまうはずです。いわゆる被害者の意識ですね。

もしもこうした傾向が自分には強いなと思い当たる場合には、自分は何から何まで与えられているんだということに気づいていないだけだと理解することです。

このことに気がつくことができると、本当に不平不満がなくなってしまいます。そして当然の結果として、満たされているという思いを抱けるようになるのです。

それは本当に幸せなことです。不平不満を主張し続けたいのか、幸せになりたいのか、二つに一つだということを再認識してみることですね。

おでこの上

ずっと以前にとても面白いテレビCMがありました。それを知っているのは私と同世代の人たちだけだと思いますが。

それはごく平凡な壮年ご夫婦の他愛無い会話なのですが、ご主人が新聞を読もうとして老眼鏡を捜して見つからずに、奥さんに問いかけます。「かあさん、メガネはどこにやった?」

奥さんはあきれるでもなく淡々と、「おでこの上」というのです。確かにご主人はメガネをおでこの上にずりあげていながら、メガネを探していたんですね。

これが何のCMだったのかはまったく覚えていないのですが、その夫婦のなにげないやりとりが何とも微笑ましくて、その時代かなり一世を風靡したコマーシャルだったと思います。

最近気がついたことを思っていたら、突然このCMのことを思い出したのです。それは、今自分が探しているもの、一番欲しているものは自分のすぐそばにあるということ。

そのことに気づいていないということですね。 気づくというのは、すべてにこうしたことが言えるのではないかと思うのです。

日々精進して、努力しても気づけない時は気づけないのですが、ふとしたときに急に気づくことができたりするのですから、気まぐれなものですね。

だからといって日々意欲を持って何かに向き合うことが気づきを得るためには無駄なことだということではないと思います。

ただ、気づきがやってくる時というのは本当に唖然とするくらい突然やってくるということです。毎日見ている風景や会っている人たちなのに、そこにある種の気づきが訪れると、とたんに新鮮な感覚で見聞きすることができるのです。

それはまるで、隠し絵の中に隠れている動物や人物が急に見えてきたときのような、あの感動を覚えるのと似ているかもしれません。

だとすると、これから先についても同じことが起こる可能性が多分にあるということですね。それは常に自分のすぐそばにあるのです。気づかずにこの世を去りたくはないと強く思います。

自分の残された人生の目的とは、それに気づくことだと思っています。そして、それは必ず誰の近くにもあるものに違いないと思います。

なぜなら、それとは本当の自分の姿のことだからです。真の自己とはなんなのか、是非とも知りたいと思いませんか。唯一意味のある質問とは、自分とは誰かということに尽きると思うからです。

すべてが与えられているもの

久しぶりに本を読みました。その本を読んでいて、とても気づいたことがあります。それは、今自分が見たり聞いたりしているものは、一つ残らず全部自分に与えられているということ。

それはすぐに感謝の気持ちと一体になりました。部屋にいて、本を読んでいるときにはそれほどの実感はなかったものの、夜クルマに乗っているときにそれはやってきました。

今自分が見ているさまざまな人や道路や街並みやその他あらゆるものが、自分に提供されているという思いです。

与えてくれているのも実は深いところの自分なのだとわかったのですが、そんなことよりも与えてもらっていることがただ嬉しくてありがたくて感動しました。

だからといって、いつものごく普通の自分がいなくなってしまったわけではなく、ひょっこり飛び出してきそうな若者がいれば、腹も立つのです。

狭い道路の路肩に駐停車しているクルマがあれば、もちろん迷惑だなとも感じるのは普段の自分の感覚と何も違いはないのです。

でも、自分がいい気持ちであろうが、いやな気持ちであろうが、そのことと与えてもらえてることの感謝とは別のことだというのが分かったのです。

どっちの自分に意識を合わせるかで、いつもの自分が優勢になったり、大きな感謝に圧倒されたり、選択することもできるのです。

もちろん、こんな嬉しい体験は記憶の限り初めてなので、感謝の方をずっと選んでいたのは言うまでもありませんが。

数年前に瞑想中に感謝の嵐の中に放り込まれたようになったことはあったのですが、今日体験したことはごく普通の精神状態のままでしたので、それがとても自分としては驚きなのです。

そして感謝のほうに意識を向けていると、いつも見ている夜の景色がより一層キラキラとした輝きをもって新鮮に目に映ったのです。

この驚きを是非みなさんにも体験してもらいたいと思います。何の努力もがんばりもいりません。すでに体験している人がいらしたら、是非それを分かち合いたいと思います。

たぶんごく簡単なきっかけさえあれば、きっとそれはやってきます。心の癒しというのは、そういうものなんだと初めて気づいたかもしれません。

自己像

人は生まれてから少しずつ成長するにつれて、自分とはこういう人物なんだということを自分に教え込んでいきます。その内容のほとんどは、人が自分をどう見ているかというところに由来しています。

特に幼いうちは、大抵が親などの身近な大人たちによって、お前はこういう奴だということを刷り込まれていくことになります。

子供は自分自身では自分をどう見るかということがうまくできないために、親の言うことを丸ごと信じてしまう可能性が高いのです。

そうやって、自己像というものの基礎が作り上げられていくのです。この自己像というものがなかなかクセモノであって、それに翻弄されてしまうことも多々あるのです。

それというのも、場合によっては本当の自分の好みとは違うものを好む自己像が出来上がってしまっている場合すらあるからです。

本人の生まれ持った個性や特性とは違ったものを持つ自己像が作られてしまうと、幼いうちは自覚できないでいるとしても、いずれはさまざまな心の障害が露呈してきます。

それは、いつも心のどこかに得体の知れない不安感や満たされないような強い思いというものがくすぶって、その理由すらわからずに悶々とすることになります。

そしていつか、それは火山の噴火のように爆発することになってしまいます。そのときに初めて、本当の本人の姿というものが表面に出てくることになります。

それは長い間、無意識的に心の奥底に抑え込まれて隠されていた素の自分の姿であり、その存在と対面することは本人の人生にとって奇跡的な衝撃があるかもしれません。

一度は自分の自己像を疑ってみても悪いことではないと思います。そして、その中心にいる自分のイメージが本当の自分の姿をちゃんと表しているかどうか、チェックしてみることです。

自分はこんな仕事が適している、こういうことをやっていきたいと願っている、でもそれは自己像がそう訴えているだけで、本当の自分は違うかもしれないというようなことですね。

本来の自分が自分らしく生きることができなければ、何をしたとしても決して満足することはできないはずです。作られた自分では幸せになれないということですね。

何にもとらわれないまっさらな気持ちで、自己像を再度見つめてみることは自分の人生をよりよくする大きなチャンスにもなると思います。
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エゴの許し

エゴの矛盾は笑ってしまうしかないほどです。人類の歴史は罪の償いの歴史といっても言いすぎではないと思いますが、この罪の償いということほど矛盾していることはありません。

なぜなら、罪というのは決して償うことができない間違いのことを言うのですから。そう決めておいて、罪を償いなさいと言うとは何たる矛盾でしょうか。丸い三角と言っているのと同じです。

絶対に不可能なことをやりなさいというのがエゴの根本原理としてあると思います。それは、時間が続く限りそれをやり続けることができるからですね。

それでエゴは安泰。コースでいう真の救いとは贖罪、それは罪はないとして許すということです。ですから、この現実が本当であれば私たちは許すことなど絶対にできないということです。

それを勘違いして許さねば許さねばと頑張ったところで、それこそエゴの矛盾に丸ごとはまり込んでいくことになりますね。

だから、惨めな思いをさせられたことが本当に起きたことだとしておいて、加害者を許すことなどできないとまず明確に分かることです。そうしないと、コースの教えはエゴの手先と化します。

しかし、この間違ったエゴの許しを実践しようと頑張ることにもメリットがないわけではありません。それは、自分が相手を許してはいないということが分かるし、許したくもないという思いを持っていたことすら気付くからです。

あがいてもがいて許そうとする一見無駄な努力でも、何もしないでいるよりも、多くの気づきをもたらしてくれると思うのです。

そのもがき苦しむ自分のことがふと可笑しく思えたときに、きっと力が抜けて自分の無能さに気付くのかもしれません。

ああ、自分には許すことなんて到底無理なんだと。徹底的にうちのめされたら、本当に聖霊に委ねる気持ちにもなるというものですね。

その時、もしかしたらこの世は自分を映し出す幻想に過ぎないということも聖霊を通して心に入ってくることになるかもしれないと思います。

新しい自分

紆余曲折いろいろなことはあったけど、最後に笑うことができれば途中の否定的なことはすべて消えてしまい、結果として全部OKになってしまうというのが、「終わりよければすべてよし」ということの意味ですね。

私は、自分の人生でこのことを体験したことがあります。会社員の生活を20年以上続けていたときには、いやなことや辛いことなどもそれなりにあったのですが、10年前に今の仕事に変わったときに、この言葉を思い出しました。

後悔したり、反省したりすることは沢山あるものですが、今自分が満足できているのなら、過去のそうした失敗や間違いなどのことは、どうでもよくなるんですね。

いつまでも過去のことを思い悩むということは、今満足できていないということの証拠なのです。「終わりよければすべてよし」は、「今がよければすべてよし」と表現することもできます。

私は殊更終わりということを意識する必要はないと思っています。いつも新しい今が始まり、それは今終わるのですから。

始まっては終わるということが毎秒毎瞬ずっと続いていると思えばいいのです。だから今この瞬間本当に満たされていたら、心の中からネガティブな過去は消滅してしまいます。

そして、今この瞬間始まったことは同じこの瞬間に終わるとも言えるので、未来を不安な心で見つめることもなくなるということですね。

この感覚をずっと忘れないように持ち続けていることができたら、一切の不安や恐れが消えてしまうはずです。勿論、自分を責めたり周りの人を責めることもなくなります。

なぜなら、罪悪感は常に過去にその根拠があるからです。今生まれた自分は今のまま継続するのではなくて、次の瞬間にまた新たに生まれるのです。

だからいつも今が勝負なのですね。過去の中にあっても消えずに残ることが出来るのは、愛だけだと思って間違いありません。それ以外の過去は今とは無縁です。

いつも新しい自分でこのときを生きれたら本当に素敵ですね。

風邪をひかない方法

最近風邪をひかなくなりました。覚えている限りでは、もう3年以上は引いてないようです。どういうわけか、何だか風邪ひきそうな気配がすると思っても治ってしまうようになったのです。

それまでは、年に2回くらいは引くのが当たり前になっていて、一度ひくと治るのにすごく時間がかかっていました。ぐずぐずと熱が下がらない状態が続くのです。

子供の頃からすぐに扁桃腺が腫れる体質らしくて、ご飯を飲み込むのも辛くなってしまうこともよくありました。

このごろでも、寝る前に何だか喉が腫れている感じがするなと感じることはよくあるのですが、一晩寝て起きると、調子がよくなっていることが多いです。

実は今日も寒い中、ちょっとした用事で外出して戻ってみると、どうも額が熱っぽい感じがして、ああこれは以前だったら風邪を引く前兆だなと思ったのです。

ですが、何か他のことに意識を向けている間に、やっぱり治ってしまうのです。風邪をひくと身体が具合悪くて辛いのですが、ある種毒出しの効果もあるので風邪そのものは悪いとばかりは言えないんですね。

でも風邪をひかなくなってしまったことで、それまで出していた毒はどうやって出すようになったのかなとふと考えることがあります。

それで気づいたことがあります。人間生きている限りは、多かれ少なかれ身体には毒が溜まるものですね。私が知る限り、例外はないと思います。

人によってもっとも違いがあるのは、毒を出しやすい体質か、逆に溜めやすい体質なのかということが大きいのかなと。

私の場合、体質が変化したというよりも、生活全般の変化が緩やかに影響し出したのではないかと思っています。

会社員だった頃と比べたら、瞑想をするということに代表されるような、心を静かにする時間を持つことが多くなりました。

心が静まると、身体への負担が減る分だけ、毒出しが促進されるのではないかと感じています。かしこまった瞑想でなくても、ただ静かに心の中心と繋がるという感じで心の平安を作ってあげるだけで効果があると思います。

巷では、インフルエンザが猛威をふるっているようですから、みなさんも手洗い&うがいの基本はしっかり守った上で、心を平安に保つ工夫をしてみるといいと思います。

セミナーのこと

昨日は三ヶ月ぶりのヒーリングセミナーの開催がありました。前回同様沢山の方々に参加していただいて、とても満足のいくセミナーができたと思っています。

セミナーのメリットとは、何と言っても参加者全員でシェアができるということですね。お互いがお互いの内面的な部分を共有することで、知見が広がるのです。

そして、自分一人で密かに抱えていた問題などが目の前で明るみにされて、尚且つそれを誰も責めるでもなく、みんなに許されているのを見て自分を許すことができるのです。

こうしたことの効果は、なかなか個人セッションでは体験できないものです。必要なのは、少しの勇気と思い切りかもしれません。

私のセミナーに参加してくれるみなさんは、自分のことをとても素直に表現できる人が多いのが特徴で、そうした環境に初めての人でも馴染んでしまうのでしょうね。

誰もが自分を包み隠さず、みんなの前で正直に曝け出せることでとても大きな癒しを体験することができるのです。

これは誰がどうというレベルではなくて、全員のおかげだとしか言いようがありません。セミナーの間中、みなさんがご自分の感情と向き合っている姿を拝見するたびに、私自身も感じるものがあるのです。

本当に様々な人生を生きてらして、各々が精一杯毎日を暮らしている中で、こんなに全員の思いが一つにまとまることができるのが奇跡かもしれません。

みなさんが、確実に大きな一つのステージを上がって行かれるのを感慨深く見させていただきました。みなさんには本当に大きな感謝しかありません。

また三ヵ月後のセミナーでご一緒できることを、心から望んでいます!

自己犠牲 その2

昨日の続きです。

自己犠牲なんてもう真っ平御免だと思っても、そう簡単にはやめられない理由があります。自己犠牲を払ってでも手に入れたかった自分の存在価値については、もういいよと思ったとしてもそう簡単に方向転換できない理由があります。

それは自己犠牲を自分に強いている張本人は大人の自分ではないというのが一つの理由です。元々、自己犠牲を強いるようになってしまったのは、子供の頃の自分が自分を守るためだったのです。

したがって、自己犠牲の中心人物は子供のころの惨めな自分なのです。自分はこのままでは生きている意味がないかもしれない、見捨てられても当然かもしれないという思いが奥にあるのです。

それを何とか払拭したくて、頑張り続けるということです。そのやり方が自己犠牲に繋がるわけですね。やりたくもないことを頑張ってやって、親を安心させようとしたりするのはすべてこのためです。

子供の頃のそうした自分は、すれすれのところで何とか見捨てられないように、頑張って毎日過ごしてきたのです。それが自己犠牲と言われようが何と言われようが必要だったのです。

その子供の思いというものが時間を越えて大人になった今の自分を縛っているということです。だからこそ、簡単には大人の自分の思いだけでは変えることが難しいのです。

そして、自己犠牲の裏にはそうでもしなければ生きられないという切羽詰った思いがあり、それは実は周りの人に対する不信感でもあるのです。

だから、人を信頼することができないために、おいそれとは自己犠牲をやめようとはしないだけでなく、やめるなら今までの自分の苦しみをどうしてくれるんだという思いを持っています。

どんなに信頼できそうな人がいてくれても、信頼できるという事実を受け入れてしまったら、それまでの自分の苦悩が消えてしまうことになるということですね。

いつまでも人は信頼に足らないと思い続けたいということです。この状態を解きほぐしていくのにはそれなりの時間が必要なのは察してあげて欲しいと思います。

あとは、時間をかけてゆっくりと、幼い自分の思いを聞いてあげて、頑張ってやってきたことを心から認めてあげることです。そこから、少しずつ心は緩んでくるのではないでしょうか。

自己犠牲

誰に教わったわけでもないはずなのに、気がついたら自己犠牲を払う習慣がついてしまっていたという場合、人はそれを手放すのに苦労するかもしれません。

それと言うのも、苦しむことになるのに自己犠牲をするにはそれなりの理由があるからです。実は自己犠牲を強いてしまう裏には隠れたメリットがあるのです。

その隠れたメリットのことを正面から見つめて、もうそんなものはいらないときっぱりと分かるまでは、自己犠牲を続けてしまうのです。

自己犠牲そのものにメリットがあるわけでは勿論ないのですが、自分が我慢してまで周りのために尽力することにこそ、かきたてられるような魅力があるのです。

その魅力とは一体どんなものかというと、結論から言うとそれは自分の存在価値を高めようとすることなのです。

自分がどんなに我慢をしようと、成果として自分の存在価値が高くなれば、何とか生きていける、あるいは生きていていいんだということになるからです。

自己犠牲というものは、愛とは決して共存することができません。自分に限らず何かを犠牲にするという思いのもとは、恐怖だからです。

人類の生贄(いえにえ)の歴史を見れば明らかですね。罪深いと思っている者たちが神から天罰を下されることを怖れるあまりに、誰かの命を犠牲にして神に捧げることで自分たちは助けてもらえるとするのが生贄の本質ですね。

このように自分以外のものを犠牲にするのは目立ちますが、自己犠牲については本当のところ本人にしか分からない場合も多いのです。

心に愛を感じなければ人は幸せからは遠ざかっていきますので、自己犠牲を強いてるという自覚がある人は何としてでもそれをやめていくことです。

つづく