「無意味」という意味 その2

昨日のつづきです。

意味がないということは、価値がないということを言おうとしているのではなくて、価値があるとかないとかという価値判断ができないということを示しているというお話しをしました。

そして自分の中ではこの価値判断をしないという決意をこめて、「この世界には意味がない」という言葉を唱えるようにしているとも言いました。

それは価値判断がすべての苦悩の根源だからということです。今日はそのことについて少し詳しく書きたいと思います。

私たちは絶えず何かにつけて価値があるかどうかということを判断しながら生活しています。これは意識してもしなくても、物心ついた頃からずっと続いていることです。

形があるものにしても、形のないものにしてもありとあらゆるものに対して、この価値の有無、価値がどれだけあるのかを気にしているのです。

それは勿論自分にとって対象となるものや人に対して価値があるかどうかという判断をしているわけです。価値がないものは興味を持ちませんし、価値があると思えば大切にするし近づきたいとも感じるわけです。

その本質は自分に価値があると思いたいという強い欲求を持っているからにほかなりません。それは、自分は不完全な存在だという感覚を誰もが持っているからなのです。

不完全であるということは、何かが足りないという欠乏感と全く同じものです。逆に満ち足りた感覚というのは完全であるという思いからくるものです。

そして不完全であると思い込んでいる自分を完全なものにして満ち足りた心地になりたいと常に思っているのです。

そのことが自分を価値のあるものと思いたいという気持ちを作っているのです。実はそれを実現しようとして、大変な自己犠牲を払ってしまっているとも知らずに。

それがすべての苦悩の大元なのです。しかし、不完全なものを完全なものにすることは不可能なのです。 何事にも意味はないとして、価値判断を放棄することができたら、苦悩はなくなります。

そうすると、きっと本当の自分はすべてに満たされてた完全な存在なのだということに気付くことができるのだろうと思っています。

「無意味」という意味

意味がないという意味の無意味という言葉を、価値がないという意味合いで使うことがよくあります。つまり、無意味=無価値というように想定しているわけです。

そして「無価値」は当然否定的な言葉の響きを持っていますね。価値がないということですから、それは尊いとか大切なという意味の反対な意味を持っています。

しかし、突き詰めて考えてみると、意味がないということがそのまま価値がないということにはならないということが分かります。

「無意味」つまり意味がないということの本当の意味は、価値があるとかないとかといった価値判断ができないということを指し示しているのです。

たとえば、犬や猫たちにとってお金の価値を判断することはできません。自分の飼い主が自分の口座を作ってくれて、そこに100億円預金してくれても彼らは嬉しくないでしょう。

日本語しか理解できない日本人に、原文のハムレットを渡されてもその価値を感じることは全くできません。書いてある意味が分からないのですから。

このように、意味がないということは、価値を判断することができないということを指しているのであって、価値がないということを言っているわけではありません。

ですが、私たちはどうもここを勘違いして、無意味という言葉を使っているように思います。そして、もう一つとても大切なことがあります。

それは、価値があるかないかは、それを判断する人が決めるということです。対象物の価値とは、それを評価する人が決めているということです。

地球のあちこちにある世界遺産と言われる場所や建物などは、地球上から人類がいなくなってしまったらそれに価値を見出す人がいないのですから何の価値もなくなってしまいます。

私の内面的な標語になっている、「この世界には意味はない」という言葉があるのですが、それは自分はこの世界のあらゆるものに対して価値判断をしないということを示しています。

この世界は価値がないと言いたいのではないということです。価値がないと言ってしまうと、価値判断がそこに入ってしまうからです。

だからこそ、意味がないという言い方をするわけです。なぜそんな言葉が標語になっているかというと、人の苦悩は価値判断から来ることが分かっているからです。

なぜそんなことが言えるのかは、明日に続きを書きます。

プロセスに委ねる

人生、生きていると本当にいろいろなことが起こるものですね。願ってもなかなか叶わないようなことが喜びと共に起きてしまったり、逆にどうして自分の身にこんなひどいことがと思うような事態になることもあります。

何事もないような平坦な毎日が続く時期が続くと思うと、激動の時期がやってきたりすることもあるわけです。

私の場合には10年前の命にかかわる病気になったのが、変化のきっかけになりました。それまでは、本当に平凡過ぎるほど普通の人生だったと言えると思います。

その病気を転機にして、サラリーマンをやめることになって今のような仕事をするようになったのですが、その間にさまざまな人との出会いがありました。

催眠療法のスクールに通い出したころに、一度手痛い落ち込みも経験しました。自分は一体何を馬鹿げたことをやりだしてしまったのだろうという大否定がやってきたのです。

そのときには、ひたすら眠る毎日によって現実逃避をせざるを得なかったのです。その後は、今の仕事をするようになってしばらくはまた比較的落ち着いた日々でした。

しかし、二年前に奇跡のコースとの出会いを契機に、またいろいろなことがやってきています。ですが、それは人の目からは見えない内面的なことが主なことです。

そしてこうした人生のプロセスは今後も続いていくわけですね。今までのプロセスを思い返してみると、10年前の自分では想像もできないくらいのことがいろいろ起きています。

ですが、とりあえず生きているわけですし、問題はあると思えばいろいろあるのでしょうけれど、全体としてみたらOKなわけです。

人生の流れに逆らわないこと、人生のプロセスをそのまま受け入れること、自分の力でどうにかしようと躍起にならないこと。こうしたことがとても大切だと今では分かるようになりました。

プロセスを信頼することです。プロセスに全面的に自分を委ねてしまうことです。プロセスと戦わないことです。何が起きてもすべては自分が愛に戻るために用意された賜物なのですから。

愛は罪悪感を蹴散らす

よくクライアントさんに信念、信条についてお聞きすると、多くの人が「人に迷惑をかけないように生きること」というようなことをおっしゃいます。

人に迷惑をかけたり、人から後ろ指をさされるようなことさえしなければ、あとは自分の自由に生きていいのではないかという考え方ですね。

自分の言動がほかの人の迷惑になってしまったり、いやな気持ちにさせたりすると、大抵罪悪感を感じてしまうのですね。

そうした罪悪感を持ちながら生きるのがしんどいので、何とかそれだけは避けたいという思いがあるということだと思います。

確かに人との関係の中で自分本位にばかりにしていたら、あの人はエゴイストだといわれてしまうかもしれません。

そんな人間にはなりたくないと思うので、自分の気持ちと相手の気持ちのバランスをとりながら関係を続けていこうとするのです。

しかし、相手に悪いなあと思うのは罪悪感が原因なわけですが、もしもそれを感じなくなってしまったとしたらどうでしょうか?

それはやはり自分勝手な人、自己中心的な人物というように見られてしまうかもしれません。ところが、いつもそうとばかりは言えないのです。

実は、本当は罪悪感を感じているのにそれを抑圧して分からないようにして、自分勝手な行動をとる場合には、周りからは自己中な人と思われるのです。

しかし、本当に罪悪感を感じないような場合には周りの反応が変わる可能性があるのです。それは愛によって罪悪感を感じなくなっている場合なのです。

その場合には、同じように自分勝手に見える行動をした場合でも、不思議と周りの人から否定的な目で見られることがなくなってしまうのです。

一見自己中だと見えたとしても、必ず後から理解してもらうことができるのです。愛とはそういう力を持っているのです。

人が愛で行動したときには、それがどんなに自分勝手に見えたとしても、それはいずれ受け止めてもらうことができるのです。

愛は当人の心からも、そして周りの人の心からも、罪悪感や罪を見る目を蹴散らしてなくしてしまうことができるからですね。

この世界の意味とは

私たちは誰もがより幸せになりたいと願っていますが、それはただ楽であればいいとか毎日苦しまなければいいというものではないはずです。

何かしら、より価値のある人生を生きることで幸せになりたいと思っているのです。つまり、無意味な人生などでは幸せにはなれないだろうという思いを持っています。

自分が生きて何かをすることで、それが誰かの役に立つようになるとか、人から賞賛されるとか、とにかくそこには価値というものを求めているのです。

価値の見当たらない人生など無意味ですし、そんな人生では決して幸せになどなれはしないと思い込んでいます。

なぜそんなふうに考えているのでしょうか?もしもこの世界がユートピアで誰もが元々幸せに満たされているとしたら、そこで自分はどんな価値のある人生を生きれるでしょうか?

争いもなく人々が楽しく暮らしているとしたら、それ以上殊更人生に価値を見出す必要などなくなってしまうはずです。

つまり本当の幸せとは、価値を必要としない心の状態なのです。逆に、幸せではない状態、苦悩している心こそが何かしらの価値を必要としてしまうということです。

私たちは本当に幸せな状態ではないからこそ、無意味な人生では困ると思っているのです。人生に何らかの意味付けをすることで、足りてない幸福感を満たそうとしているのです。

それなら、もうこの世界そのものに意味を見出そうとすることをやめてみたらどうでしょうか?どんなことにも意味はないし、価値があるかないかということにも意味を見出さないということです。

そうすると、こだわりやわだかまりもなくなって、ただ穏やかな心でいられるようになるはずです。頑張って意味のないところに価値を見出すということも必要なくなります。

これこそがきっと幸せになる最短コースであると思います。意味がないというのは否定的なことでは決してありません。

幸福とは愛の状態であり、愛は何にも意味を見出すことをしないのです。愛そのものがすべてであるからですね。

エゴとの同一視

エゴというのは、自分とはまとまりのある一つの心と肉体を持った存在であると思い込んでいる心の部分のことを言います。

それなら自分はエゴそのものだと捉えられるかもしれませんね。誰もが、自分は一人の人間としてこの世界で生きていると信じているからです。

しかし、心の部分という表現をしたのは心の全体ではないからです。心のうちでエゴとは真反対の部分も実はあります。その心の部分のことをどう呼んでもいいのですが、愛に満つる心だと思えばいいです。

そうした二つの部分に自分の心が分裂しているということです。そして、そのエゴ以外の部分については自覚することがほとんどできません。

だからこそ、自分はエゴそのものだという自覚になってしまうのも無理のないことです。しかし、本当は、そのどちらでもないほんの小さな心の部分があるのです。

それはエゴの部分でも愛の部分でもない、別の小さな部分なのですが、実は自分がより幸せになっていけるかどうかは、その小さな心の部分に全面的に託されています。

癒しとは、まず初めに自分とはこの小さな心の部分であると気付くことなのです。エゴの心の部分が自分自身だと思ってしまっているのは、この小さな部分がエゴにのっとられてしまっているからなのです。

だからこそ、我々は自分をこの世界で立派な人物に育て上げようとしてしまうのです。それこそがエゴが企む作戦の表面的なものだからです。

私たちがどんなに自分のことをエゴそのものだと思えるとしても、それは事実ではありません。自分とは、本来その小さな心の部分であるということです。

その小さな部分こそが、エゴを教師として選ぶのか、愛の部分を教師として選ぶのか、どちらにするのかを決めることができるのです。

今日から自分をエゴと同一視するのをやめることです。それには小さな中立の心の部分を見つける必要があります。それは、選択することができるという意識を取り戻すことで実現できます。

エゴを敵対視することに意味はありませんが、エゴを自分自身ではないと分かることはとても大切なことなのです。エゴに操られないようにするために、その小さな部分をしっかり育てていくことですね。

時間の制約

会社員だったころは、朝何時に起きなければならないとか、明日のために何時までには寝なければというようなことがありました。

それは勿論、社会人としてのルールを守るためにはある程度必要となるものですし、そのための時間的制約を自分に課して生活するのは当然ですね。

セラピストの仕事をするようになって、そうした時間的な制約がかなり減少してしまいました。朝はかなりのんびりと起きることができますし、夜も好きなだけ起きているようになりました。

それは一般的な社会人の方々と比べたらかなり自由な生活かもしれません。ところが、それでも毎日何度となく時計を見る習慣が抜けません。

勿論仕事は時間通りこなしていく必要があるわけですから、その点では当然なのですが、仕事と切り離された完全にプライベートの時間であっても、いつも時間を気にしているのです。

終日仕事をしない日であったとしても、一日に一体何回時計を見るでしょうか?そろそろ食事の時間だなと思えば時計を確認しますし、何かを行動し始めるときに必ず時計を見る癖があるようです。

無心になって遊んでいるときにも、ある程度時間が経過したあとは後どのくらい遊んでいられるかを確認するために時計を見るのです。

会社員の頃、常に時間に追われた生活をしていたため、退職したあとはそれを変えようとして腕時計をつける習慣をやめてしまいました。

ところが気がつくと、部屋の中にある時計をしょっちゅう確認している自分がいました。外出するときにも、時計の代わりにケータイで時間を確認したりしています。

日ごろ、奇跡のコースを読んで時間は幻想だということが十分に理解できているくせに、現実の生活においては時計がない暮らしを想像することができません。

このブログをアップするのも日付が変わったと同時にアップするのが習慣となっています。この時間を気にして生活することから意識的に開放されるようにしてみようかと考えています。

そうでないと、時間は幻想だという言葉が軽々しく感じられてしまいそうです。自分自身、いろいろなルールや制限に支配される人生はまっぴらだと思っているのですから、時間の制約も同じように手放す必要がありそうです。

自分の意識に深く刻み込まれた時間的制約について、もう少ししっかりと見つめなおして、できるところから手放していこうかと改めて考えています。

自由とは

若い頃、当然お金などなくてピーピーしている時に、ごく一般的な男性にありがちなことですが自分のクルマが欲しくて仕方がありませんでした。

就職するようになって、すぐに希望するクルマを親に借金をして購入して、有頂天になっていました。実際には仕事が多忙であまり乗る機会はなかったのですが…。

クルマを手に入れられたのはよかったのですが、月に一度の給料日に借金返済によって手元に残るお金はごくわずかでした。

そのときに、これって本当に幸せなのだろうかと思ったことを覚えています。自分の収入には不釣合いなクルマを購入したために、毎日の生活がとても不自由に感じられました。

とても欲しいものがあって、頑張ってそれを手に入れることができるというのは、ある意味自由な人生と言えるかもしれません。

しかし、そのために生活の別の部分が圧迫されて不自由さを感じることになるとしたら、その人生が自由であるとは簡単には言えなくなってしまいます。

私は逆に欲しいものが高額である人生とは不自由なものだと分かってしまったのです。そして、クルマを持ちたいという思いから開放されたほうが自由に違いないとも分かりました。

分かったところで自分の気持ちが変化するわけではありませんので、その後もクルマを買い換える人生は続いたのです。

本当の自由とは、心が満たされている状態を言うのだということも最近はっきりと認識できるようになりました。

ですから何かを欲しがっている限り、その人の心は不自由であり縛り付けられている状態であるということですね。

欲しいものが手に入った時の喜びとは一過性のものであって、それは一種の麻薬的な快感でしかありません。

あなたは欲しいものがどのくらいあるでしょうか?何も欲しがらない人生などつまらないじゃないかと安易に捉えるのではなく、この自由さについても考えてみるといいかもしれません。

自分をしっかり持つ

子供の頃から、面倒なことは誰かにやってもらうことが大好きなくせに、これは自分でやらないといやだというものは自分なりに頑張ってやるようにしてきたと思います。

世間的にも、自分の意見を持ちなさいとか、自分というものをしっかりと持ちなさいという教育があるように感じています。

年頃になると、自分は結構自分というものが確立してきたなと思ったりもしたことがあるのですが、そんなことは妄想だということがすぐにばれることがありました。

テレビで討論会などを見ていると、この人の意見はもっともだと思っていると、それに反論する人がすぐに出てきて全く逆のことを言うのです。

そうすると、今度はこの人の言うことの方が正しいような気がする、という具合に人の言葉に右往左往している自分がいました。

自分が本質的に興味のない内容だったりすると、今でもこの傾向は強いという自覚がありますので基本的には変わってないのでしょうね。

政治家の話しなどを聞いていると、誰がなんと言おうが絶対に持論を曲げないというか、あれこそ自分をしっかり持っている人の象徴だなと思ってみることもあります。

しかし、よくよく考えてみると、自分をしっかり持つということが本当にそれほど大切なことなのでしょうか?自分の意見や気持ちに凝り固まることは時として苦悩を生み出します。

オフィスがあるマンションの部屋の上の階に引っ越してきたご家族がいらっしゃるのですが、布団やそのカバーなどの大きなものをよくベランダに干しているのです。

物が大きいので下の階の私の部屋から見えるくらいに垂れ下がって風に揺れてぶらぶらしているのに気付くと、目障りだなといやな気持ちになるのです。

たとえて言うと目の前に邪魔なものをぶら下げられて生活しているような感じです。先日の晴天の日の朝もそうでした。ところが、ちょっとした食事をしてコーヒーをすすっていた時です。

ふと外を見ると、何ともすばらしいお日様に向かって干してあるものが気持ちよさそうな感じが入ってきました。この寝具で寝たら気持ちいいだろうなと思ったのです。

そうしたら全くその干し物が気にならなくなったばかりか、朝から面倒がらずに寝具を干す奥さんはいいなと思ったりもしたのです。

自分を中心に考えると邪魔だと思えたものでも、全く違う観点から見ることで自分がいい気持ちになれるということですね。

子供の頃に確かに必要だと思えた教えも、大人になるとそうでもなくなるということの例かもしれません。依存から自立に向かって成長したあと、自立も幸せにはしてくれないということが分かったときに軌道修正が必要だということです。

人は自分の立場からものを見たり判断したりを手放すことで、何が起きてもすばらしい気持ちで生活していられる可能性を持っているということですね。

瞬く星々

夜空に沢山ある星々を見ていると、心が澄んでくるのが分かります。何かいつも気付かないときにも自分を見守ってくれているように感じるからかもしれません。

ところでみなさんは昼間の空にも星があるのは知っていますよね?星は夜空にしかないと思ってる人がいたらそれは間違いです。

昼間でも夜と同じように空には無数の星々があるのです。ただ、太陽の光によって目の瞳孔が閉じてしまうので、その淡い光が感じられなくなるだけなのです。

以前書いたことがありますが、実は昼間の間にも星を見ることができます。今はあまり見なくなってしまいましたが、お風呂屋さんの煙突に入って空を見たときに、ちょうど真上に星があればそれが見えるのです。

煙突の中は暗いので瞳孔が開き、星の光でも見ることができるようになるからです。見えないからといって、すぐにないはずと思うのは早とちりということです。

私たちが日頃から目にするものも実はそういうものなのかもしれません。真実は沢山自分の周りに存在するのですが、その中で肉眼で見えるものには限りがあるということです。

言い方を変えると、肉眼では何かが邪魔をしてしまって見えるべきものが見えなくなってしまっていると考えることもできます。

暗い煙突から青空を見上げるように、この世界そのものをそんなふうに真実の目を凝らして見ることができたら、きっといろいろな気付いていなかったものが見えてくるはずです。

そういう目には、きっと私たち一人ひとりはみんな同じだと映るはずです。そして私たちは肉体こそが自分たち自身だと思っていますが、その目では肉体は見えなくなるはずです。

だからこそすべてに違いがないというように映るのです。自分の目に煙突をくっつけて、真実だけを見つめるようにできるといいですね。