鏡に映った自分の姿は…

スピリチュアルなことに傾倒している人がよく言う言葉として、「私たちの本質とは、魂が肉体を纏(まと)っているのだ。」というようなものがありますね。

要するに、この身体は着ぐるみのようなものであって、本当の自分はその中に入っている魂なのだと。だから、死んだときにはその着ぐるみを脱いで、魂としての自分は次なる世界へと旅立つのだと。

自分を他人が見るように、外側から見たら確かに身体なのですが、自分を自分自身として見れば意識であると分かります。それが魂と言えるのかどうか、私には分かりませんが…。

ミッキーマウスを捕まえて、着ぐるみを剥いでしまえば中にいる誰かを見つけることができますが、私の身体をいくら切り刻んでも、誰にも本当の私を見つけることはできません。

なぜなら、私は決して身体を纏ってなどいないからです。私は身体の中に入っている「何か」ではないからです。

そのことをいい加減にしておくのではなくて、もっともっと明確に意識することが自己探求に繋がるのですね。

鏡に映った私の外見は、最近では少し老いも入ってきて可哀想な感じもするのですが、あれは決して本当の自分ではないという確信が出来てきました。

もっと正確に表現すれば、あれは私自身の外見ではなくて、単に他人が捉えることのできる唯一のこの身体の姿であるということに過ぎません。

私には、そもそも外見などはないという気づきがあります。他人から見た姿と、意識としての自分というものがあまりにもかけ離れていることは、本当に驚くべきことです。

こんなにも違っていていいんだろうかと。鏡の中の彼はあと数年で還暦を迎える年齢なのですが、意識としての自分には全く年齢がありません。

意識というのは本当に不思議なものであり、例えようのないものですね。それこそが自分なのですからこれほど不可解なことはありません。

過去の何かを思い出したときには、その時点を生きていた人物としての自分が出てきますが、そのときにも今意識できる私もそこにいたことをはっきり思い出すことができます。

結局、意識としての私は過去のいつ如何なるときでも、今と全く変わらずにいたということです。この先も、鏡の中の彼がどれほど老いぼれていこうが、意識としての私は今と同じなはずです。

つまり意識には時間の入る余地がないのですね。この感覚というのは、個人としての自意識ではなくて、今この瞬間に注意を向けている意識についてのみ言えることです。

この意識という気づきにのみ、注意を向け続けている限り、そこには何の変化も見い出すことはありません。たとえ、鏡の中の彼が死んだとしても。

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