逃亡生活にピリオドを打つ

またまた、元オーム真理教の指名手配犯人が捕まりましたね。昨年末から、こうも続けて逮捕されるというのには、どうも裏がありそうです。

それは、死刑が確定した麻原彰晃の死刑執行を先延ばしにするための見え透いた信者たちの作戦のように感じるのは私だけでしょうか。

それはともかくとして、長い間の逃亡生活はさぞ心が休まることもなくて、辛く苦しい不自由な生活だったろうと思うのです。

それに比べたら、捕まって初めて分かる心の平安を手にすることができたのではないかと推測することができます。

刑務所に留置されて自由を得たなどというのは、確かにおかしなことと感じますが、でも逃亡生活の方が遥かに精神的には拘束されていたわけですから。

そして、実は私たちの誰もが多かれ少なかれ逃亡生活を送っています。一体何から逃げ回っているのかというと、それは自分の「惨めさ」からです。

しかもその惨めさは、遥か昔の幼い頃に作られたものなので、年を重ねるごとにその逃亡生活は年季が入ってくるというわけです。

自分の惨めさを何事もなく、素直に観れる人はあまりいないでしょうね。それを見ないようにするために、ひどい恐怖でフタをしているのですから。

したがって、その恐怖をまず見る覚悟がなければ、惨めさのレベルまで入っていくこともできないということです。

でも、自分の不自由さを感じることができる人は、逃亡生活をやめるための選択肢を見出すチャンスを持っています。

自分の惨めさという追手から、遥か遠くに逃げているつもりでいても、その実すぐ後ろに影のようにピタッとくっついていることに気づくことができるからです。

そうしたら、もう逃げないことです。立ち止まり、静かに振り向くことです。あらゆる物語を脇に置いて、恐怖でフタをされていた「惨めさ」そのものと共にいることです。

その結果、初めて惨めさとは自分がこしらえた幻想だったんだと気づくことができます。「惨めさ」とは、「私」という思考の上に作られた更なる思考です。ただそれだけだったんですね。