人間性と神性は不連続ではない

私たち人間の心には、考えられる限りのあらゆる種類の思考や感情が渦巻いています。もっとも神聖なものから、悪魔のようなものまで選り取り見取りです。

人間が天使になることはできませんし、悪魔になることもできません。でもどちらの要素も含んでいることは間違いありません。

凶悪犯罪を犯したばかりの犯人が、その犯行現場から逃げようとするときに、ふいに道路に飛び出した子猫を自分の命を顧みることもなく、助けることだってあり得るのです。

薬物やアルコール中毒に陥って、どうしようもなく堕落した人生を送っている人がいたとしても、我が身を守る事を忘れて、誰かのために奔走することもいくらでもあり得ます。

一人ひとりの個人のその瞬間を切り取って、表面的に見るのであれば、それは当然その人物の様々な要素のごく一部だけをみて全人格を判断してしまうことになるのです。

誰もが認める賢人がいれば、多くの人は尊敬と崇拝の対象として見るかもしれません。しかし、ある人にとっては鼻持ちならない苦手な人だと感じる場合もあるでしょう。

多くの宗教においては、私たちのエゴを徹底的に否定して、それを解体することこそが真実への道だと指導するのです。

エゴと神聖さは確かに相反するものですが、両者は決して不連続ではありません。つまり、エゴを持った人間でも、誠実にその内奥に入っていけば、そのまま神聖さへと繋がっているということです。

エゴと神聖さとを行ったり来たりして生活しているのが日常的な人間の姿なのです。その二つは一瞬にして入れ替わることもできるのです。

今、目の前の人がエゴを中心に据えているのか、神聖さに触れるような生き方をしているのかは、ただその瞬間に起きているだけです。

そしてきっと究極的には、誰もが自分自身から一切逃げずに、奥深くへ正直に突き進むときがやってきて、神聖さの中に留まるときがくると思うのです。