真理を逃避のツールとして使わない

私たちが使う言語というのは、思考とほとんど同義語と言ってもいいのですが、その言語によって真理を表現した書物は沢山あります。

有名な宗教的な経典や聖典といったものから、覚醒した人が語った言葉を書物にまとめたものなど、数え切れないほどの文献が残されています。

私たちは、そうした文章に記された言葉を理解することで、真理を理解したような感覚になって、ある種の高揚感を味わう場合さえあるものです。

あるいは、もしかしたら身近にも実際に真理を垣間見たことのある人物がいて、直接真理についての話しを聞かせてもらうことができる場合だってあるかもしれません。

言語(思考)によっては、決して真理を表わすことはできないと頭では分かっていても、都合のいいように真理を理解したような錯覚をしてしまうことが多いのです。

例えば、奇跡のコースには、この世界は幻想だと書いてあります。これは確かに真理について述べたものだということは分かります。

けれども、だからといってこの世界はどうせ幻想なのだから、どんな努力もする必要はないし、極端なことを言えば人を殺したとしても幻想なのだから問題ない、とは言わないはずです。

当然のことながら、これは真理とは程遠いものです。なぜなら、世界は幻想だということを思考によって理解してしまったからです。

そして、そういう理解の仕方というのは、自分に都合のいいように利用されてしまう可能性が非常に高いのです。それは、常に逃避のツールとして使われてしまうのです。

真理はいつも、「○○である」と表現されたとしたら、「○○ではない」とも表現されると覚えておくといいと思います。

つまり、世界は幻想である、という言葉を真理として受け止めるのなら、世界はレッキとした現実である、という表現もできるということです。

こうしたことは、理性では納得し難いことかもしれませんが、そもそも言語(思考)で真理を捉えることは不可能だという地点に戻れば、真理を納得することなどできないことを思い出せるはずです。

要するに大切なことは、自己防衛の手段として、言語によって表現された真理を利用しないということです。そのためには、自己防衛しようとしている自分を常に監視することです。

いつも自分に正直に、自分の深い部分に誠実に向き合っているなら、きっと言葉の上の真理を用いて、それを口実にして逃避しようとする瞬間を捉えることができるはずです。

そうすれば、自己防衛(見ることから逃げようとすること)をしないという選択肢があるということに気づくことができるのです。