瞑想とは真の静寂さに気づいていること

昨日のブログで瞑想について書いたのですが、正直に言って私は瞑想の専門家(それがどういう人を指すのかは分かりませんが)から、それを習った経験がありません。

特別な教えを受けたこともないし、必要な訓練を積んだわけでもありません。したがって、瞑想の何たるかを人に伝えるような知識も経験も持っているわけではありません。

それに、特定の時間を使って瞑想に明け暮れている毎日を過ごしているわけでもないのです。なので、自分なりの解釈でしか書くことができません。

そういうことなので、もしかしたら間違った情報になってしまうかもしれませんが、でもそれを恐れずに敢えて書いてみたいと思うことがあります。

それは瞑想は誰でもできるということです。なぜなら、私たちは常に瞑想状態にいると言ってもいいからです。ただし、そのことに気づいているかどうかは別です。

私なりに思う瞑想とは、何も一人静かにして、じっとして目を閉じて無念無想を心がけるということではないと感じるからです。

そうではなくて、実はいついかなるときでも自分が瞑想状態にあるということに気づけばいいだけだということです。

それは、どんな物語の中で自分が活躍していようと、幸せをかみ締めていても、悲しみの中で涙にくれていようと、そんなことは構いません。

いかなる場合においても、静寂さがあるということに気づいていればいいのです。実はそのことこそが瞑想と言えるのだと思います。

その静寂さとは、単なる心の穏やかさではありません。だから、ただ静かにして心が波立たない状態であることでもありません。

静かな状態の心でも、ひとたび石が投げ込まれたなら、静かだった水面には波紋が広がります。ここで言っている静寂さとは、決して変化しないもの、変化を支えているものです。

朝目覚めてから、夜寝るまでの一日の生活のうちのどんなときでも、その静寂さに意識を向けることができるなら、それこそが瞑想なのだと思うのです。