逃亡生活にピリオドを打つ

またまた、元オーム真理教の指名手配犯人が捕まりましたね。昨年末から、こうも続けて逮捕されるというのには、どうも裏がありそうです。

それは、死刑が確定した麻原彰晃の死刑執行を先延ばしにするための見え透いた信者たちの作戦のように感じるのは私だけでしょうか。

それはともかくとして、長い間の逃亡生活はさぞ心が休まることもなくて、辛く苦しい不自由な生活だったろうと思うのです。

それに比べたら、捕まって初めて分かる心の平安を手にすることができたのではないかと推測することができます。

刑務所に留置されて自由を得たなどというのは、確かにおかしなことと感じますが、でも逃亡生活の方が遥かに精神的には拘束されていたわけですから。

そして、実は私たちの誰もが多かれ少なかれ逃亡生活を送っています。一体何から逃げ回っているのかというと、それは自分の「惨めさ」からです。

しかもその惨めさは、遥か昔の幼い頃に作られたものなので、年を重ねるごとにその逃亡生活は年季が入ってくるというわけです。

自分の惨めさを何事もなく、素直に観れる人はあまりいないでしょうね。それを見ないようにするために、ひどい恐怖でフタをしているのですから。

したがって、その恐怖をまず見る覚悟がなければ、惨めさのレベルまで入っていくこともできないということです。

でも、自分の不自由さを感じることができる人は、逃亡生活をやめるための選択肢を見出すチャンスを持っています。

自分の惨めさという追手から、遥か遠くに逃げているつもりでいても、その実すぐ後ろに影のようにピタッとくっついていることに気づくことができるからです。

そうしたら、もう逃げないことです。立ち止まり、静かに振り向くことです。あらゆる物語を脇に置いて、恐怖でフタをされていた「惨めさ」そのものと共にいることです。

その結果、初めて惨めさとは自分がこしらえた幻想だったんだと気づくことができます。「惨めさ」とは、「私」という思考の上に作られた更なる思考です。ただそれだけだったんですね。

あらかじめ真実を知ることはできない

科学者、特に物理学者というのは、この宇宙の根底には単純な法則があるはずだという信念に突き動かされて、それを何とか証明しようと躍起になっている人たちです。

そのレベルでは、人類は今までにもすばらしい業績をあげてきました。アインシュタインが発見した、E=mc2 というあまりにもシンプルで美しい公式がその筆頭かもしれません。

けれども、真理というのはそうした宇宙法則を遥かに超えています。それは、こういうものだという具合に、表現することさえできません。

私たちの本音とは、宇宙法則のように、これが正真正銘の真実だというものがあって欲しいと願っているのです。

それは、理性によって理解したいという本能的な欲求があるからです。ところが、残念なことに真理はこうした理性を超越しているので、把握する対象とはなりえないのです。

真理は我々の思考の外側にあるので、決して言葉や空想する力を使って近づこうとしてもどだい無理なのです。

それなら、真理とは一体どこにあるのか、それはこの宇宙のすべてを現象化している源であるし、それこそが真の私たちの姿なのでしょう。

それは決まったものではありません。だから、私たちから見ると、一瞬一瞬変わるもののように思えるかもしれません。

例えば、自分は瞑想をしたほうがいいと感じるときがあります。そのときには瞑想すべきです。場合によっては、努力が必要になるかもしれません。

けれども、瞑想が必要ないと感じることもあります。すべては神の恩寵によってシナリオ通りに推移しているということがクローズアップされるとき、努力よりも耳を澄ますことが適しています。

こうしたことは、あらかじめ答えが与えられるものではないのです。その瞬間瞬間にこそ、適切な答えが導かれるということです。

真理とはそういうものです。それは、自分に徹底的に正直に、そして誠実になるその瞬間にのみ、やってくるものだと言えます。

本当は何も見てはいない

人は自分の意見を主張するときには、それが正しいと信じているはずです。そうした正しさの基準がなければ、意見など言うことはできなくなってしまいます。

けれども最近は、自分はこう思うということを相手に伝えるときに、それは本当にそう思っているからこそ、そう言うのですが、その正しさを本当には信じていないと感じます。

信じていないというよりも、それが正しいと感じているというその想いをただ観ている心の部分があるということです。

その部分とは、信じるとか信じないという範疇から離れている心の領域なのだと思います。それはただ静観しているだけなんでしょうね。

それと同じようにして、自分の感覚でさえもそのように観ていることに気づきました。例えば、自分の視覚についてです。

何かを見ているのに、何だかちゃんと見てはいない、あるいは実は何も見ていないのではないかという感覚があるということです。

それ以外の知覚である聴覚や触覚についても、同じような感じがしています。何かの音を聞いているのに、何も聞いていないような感覚。

以前は、より自分の深い部分に落ちていきたくて、そのためには知覚が邪魔になる、知覚を遮断したくてアイソレーション・タンクに浸かったこともありました。

でも今は、必要ないと思えるようになったのかもしれません。知覚を遮断する必要はなかったということです。

あまりに強烈な刺激の知覚はともかくとして、ごく普通の知覚はそれを遮らなくても、その知覚からくる感覚とは別次元の自分と繋がれている感覚というのがあるのです。

だからこそ、何かを見ていても、何も見ていないという感じがするのかもしれません。この感覚は確実に自分の中で増えてきています。

これについての努力は必要ないですが、忘れないでいる時間を増やすということと、関係があるのは間違いないですね。

「私」という自己防衛の方法

「私」という思考が作られるようになった理由とは、それがあることで最大の自己防衛ができるということなんだろうと分かりました。

どんな動物であろうと、個体として生き延びていくための自己防衛機能が必要なのですが、人間だけが最も効果的な自己防衛の作戦として、「私」という自覚を生み出したのでしょう。

最近、思考には目的として大きく二つの側面があると思うようになっていました。一つは、便利なツールとしての思考です。

そして、もう一つが自己防衛のための思考です。この二種類の思考において、それぞれ特徴的なことがあります。

それは、ツールとしての思考に対しては、私たちはそれを能動的に利用しようとする姿勢を伴うということです。勿論ツールですから、それがどれほど便利なものであれ、当たり前のことですね。

けれども、自己防衛としての思考の場合には、主従逆転してしまっているのです。つまり、私たちはその思考に対して受動的になってしまうのです。

そしてその受動的な状態があまりにも深く組み込まれてしまうと、無自覚にその思考に支配されてしまうということが起こるのです。

ところが、残念なことにこの思考による自己防衛のやり方で、本当に自分を守ることができるのかと言えば、そうではありません。

その防衛方法の特徴は、ほとんど一過性のものであるために、来る日も来る日もその防衛方法に頼り、結果として自己犠牲を積んでいってしまうことになるのです。

人間的な自己犠牲の原点は、「私」という思考が元となった自己防衛のやり方にあるということです。これは他の動物が本能的に行う自己犠牲的行動とは異なるものです。

私たちが幼い頃に作った信念体系の中には、この自己防衛と自己犠牲のトレードの方法が書いてあるというわけです。

どんな自己防衛の方法を使っているのかを、よくよく見ることです。そして、都合の悪いものから逃げようとしたその瞬間に、そのことに気づくようになることが大切なのです。

そうして初めて、逃げずに闘わずにただいるということができるのです。その地点で待っていてくれるもの、それこそが、広大な真の自己なのです。

理性の限界を理性が知る

人間には、未来を100%正確に予想することは不可能です。これは、どれほど科学が進歩発展してもそうなのです。

そのことは、「カオス理論」というもので明らかにされつつあるようです。カオス理論というのは、「バタフライ効果」とも呼ばれています。

それは、蝶々が羽ばたくと、その地球の反対側で台風が起こる、と言ったような例えで表現されるので、そういう呼ばれ方をするのです。

つまり、全体としては実に取るに足りないようなほんのちょっとした事が、後々まったく異なる未来を作り出すことになるということ。

これは、「初期値鋭敏性」という言い方がされているのですが、簡単に言えば、一番初めのほんの些細な違いによって、大きく結果が変わってしまう可能性があるということです。

仮に、無限に高速なコンピューターを誰かが開発したとして、そのコンピューターにあらゆるデータをインプットして、適切なアルゴリズムにより演算することで、結果を正確に出せるものとします。

ところが、私たちが初期値としてインプットするデータとは、観測によるものです。それはどれほど正確にしたところで、100%の精度というのは不可能なのです。

したがって、どこまで進歩したとしても、未来を予想することはできない、だから「カオス」だということなのですね。

私たちの科学が知覚を前提としているということが、残念なことに致命傷となっているということです。

やはり、この宇宙の正確な未来は神のみぞ知るということなのでしょう。でも人類が、自分たちの理性によって、理性の限界を理解するということはすばらしいことだと思います。

人間とコンピューターは同じ

昨日のブログの内容について、少し補足しようと思います。

以前、私がコンピューターがどれほど進化しても、決して人間のような知性を持つようになることはないと断言していた本当の理由は、ただ人間はコンピューターとは違うと思いたかったからだと分かります。

自分という存在が、いくら高度な処理能力を持つようになったとしても、所詮は演算しかできない「でくの坊」であるコンピュータと一緒にされては困ると感じていたのです。

人間の持つ知性、特に自由意志というものをコンピューターが獲得するようになるとは、どうしても思えなかったのです。そしてそれは今でも変わりません。

今、私がもしかしたらコンピューターは人間のようになることが可能かもしれないと思うようになってしまった本当の理由は、コンピューターに対する考え方が変わったからではありません。

そうではなくて、私たち人間に対する見方が根幹から変わってしまったからなのです。将来コンピューターがどんな進化を遂げようと、それとは無関係に人間こそコンピューターそのものだということに気づいたのです。

これもきっと、冗談言うなという反論をされるかもしれません。コンピューターの定義というのは、何らかの入力を受け取って、プログラミング通りにそれを処理して、その結果を出力するもの、と言うことができます。

その定義からすると、私たち人間は何の入力がなくても、自由意志によって独自の出力を作り出すことができると思われているので、確かにコンピューターではないという結論になります。

けれども、本当に何の入力も与えられていないと本当に言い切れるのか、というところに大切な要点があるのです。

私が今感じているのは、あらゆる入力が源泉からやってくるということ。その入力とは、知覚を通して外界から入ってくる情報かもしれないし、思考かもしれません。思考の中には、決意も含まれます。

私たちは、生まれながらに与えられたDNAと体験によって蓄積されたプログラミングによって、正確に処理を行い、結果を出力しているのです。

それはただそのように起きているのです。そこには、「私」という特別な存在がいるわけではありません。「私」という思考も源泉から与えられたものだということです。

ここまできて初めて、コンピューターの行く末がどうなろうと、そこへのこだわりが全くなくなってしまい、こうに違いないという想いがなくなってしまったということです。

でもはっきり言えることは、コンピューターが自由意志を持つことはないということです。そしてそれは、人間である私たちにも同様に言えることなのです。

この文章を数年前の自分が読んだら、猛反発することは間違いないと思います。そういう意味では、人は変わるものなのですね。

未来のスーパーコンピューター

先ほど、久しぶりにNHKの番組を観たのですが、それは最先端のスーパーコンピュータについての内容でした。

日本が誇る「京」というスーパーコンピューターは、例の悪名高い民主党がやった事業仕分けで「二番ではいけないんですか?」で有名になった奴です。

現在残念ながら、米国で「京」の倍の処理速度を誇るコンピューターが開発されたそうですが、両国の戦いはこれからも続くものでしょうね。

ところで、コンピューターが今後益々進歩することで、今まで想像上の産物でしかなかったような高度な地震予測などが現実のものとなっていくようです。

さらに、これまで絶対に人間にしかできないと思われていたような知的な仕事もこなせるようになるかもしれないということでした。

日本では、数年後までに東大の入試をコンピューターに受験させる計画があるそうです。米国では、テレビのクイズ番組にコンピューターを出演させて、そのクイズに見事優勝したそうです。

私は何年か前まで、どれほどコンピューターが進化したとしても、人間のような知性を身につけることなど決してできないと断言していました。

それは実は知性というよりも、意識を持つということは不可能だろうと思っていたということです。そのことについては、今も変わりは在りません。

けれども、思考と意識というものは根本的に違うものだということが分かった今、コンピューターの進化によって、人間の「ように」活動することは不可能ではないと思うようになりました。

それは充分に考えられることだと思うのです。なぜなら、それは人間自体がすでにコンピューターのようなものに違いないと思えるようになったからです。

そうなると、人間とコンピューターの本質的な違いはなくなります。コンピューターに人間と同じ生活をさせることは可能かもしれませんし、コンピューターが「私」という自覚を持つようになるかもしれません。

それでもいいと思っています。なぜなら、本質の自己とはそのどちらでもないと分かるからです。知らない間に、自分がこんなふうに変化していたとはちょっと驚きです。

意味付けに意味はない

私たちは何に対しても、尤もらしい意味を付けたがります。この話題は、このブログでも過去に何度も繰り返してきました。

意味づけとは、ただ起きていることに対する思考です。また、何も起きていなくても、思考によってその内容に意味づけすることさえできます。

例えば、数字というものはこの世に実在するものではありませんね。それは単なる思考の産物であり、そういうものを概念とか観念と呼びます。

そうしてできた架空の数字を使って計算するという、これまた思考を働かせることができます。そして、その計算結果が正しいとか間違っているという具合に、思考が連鎖していきます。

私たちが何か外側のものを認識するときには、知覚を用いますが、それは単に外界からの情報取得だけではなく、そこに意味づけする思考が後に続きます。

したがって、知覚するということの中に決まって思考も含まれてしまっているということです。そのために、あるがままを見るということができなくなっているのです。

「目の前にコップがある」というとき、これは事実だと感じてしまいますが、それは知覚からやってくるものであり、それは思考です。

目の前にあるものをコップだと判断するのは、思考によってしかできないからです。このことから類推できることですが、思考が停止すると通常の知覚ができなくなります。

だからこそ、深い瞑想のあいだにすべてのことが分からなくなり、上下左右前後が不覚になるのもうなづけるというものです。

そこにコップがある、は思考であり、「ただ在る」が真実です。でも、もしも「ただ在る」という言葉の中に入ってしまえば、それはすぐに思考になってしまいます。

意味を求めることが悪いということではありません。ただ、思考によって意味付けし続けているということに絶えず気づいていることが大切です。

そうすれば、意味付けを否定せずにそれから離れていることができます。意味づけに意味はありません。そこにこそ、真の平和があるのです。

そこにドラマを見るかどうか

先月とうとうスカイツリーがオープンしたそうですね。完成する前に、すぐ近くまで行って、全体を見たことがありました。

でもきっと、この先も当分はエレベーターで上まであがって景色を楽しむことはないだろうと思います。相当人気が高くて混雑するだろうし、また高額なんですよね。

高いところから、地上を見下ろせば走っているクルマがミニチュアカーのように見えるし、人間はほんの豆粒くらいになってしまうのでしょう。

そうなると、上からの眺めにおいては、実際に地上で何が起ころうと、何か平和な感じがするものです。ただあるがままに動いているというのか。

そして高度を少しずつ下げていくと、地上で起きている一つひとつの事象がもっとはっきり見えてきます。そうなると、そこには何らかのドラマのような面がうかがい知れるようになるのです。

たとえば、地上で交通事故が起きたとして、それをスカイツリーの展望所から見るだけだったら、ただ眼下で起きていることが見えているだけです。

けれども、地上にいてそれを身近に目撃したとしたら、それは恐ろしい光景として映るかもしれませんし、何かパニックのような様相を見て取れるかもしれません。

つまり、近くで見れば見るほど、ドラマ性が強くなるということです。私たちは、自分の人生をいつも最も近くで目撃しているので、それを物語として見てしまうのです。

物語になった途端に、起きている現象に対して必ず何らかの意味付けを行うことになります。意味があれば、そこには善悪や正不正、価値などの要素が付加されます。

そうして結果的には、幸不幸を感じるようになるということです。人の幸せや不幸というものは、物語がなければ存在しません。

つまり、起きていることを物語として解釈する代わりに、ただそのままに見るだけであれば、そこには幸不幸が発生することはないということです。

宇宙空間から地球全体を見れば、たとえ地上で殺戮が繰り返されていようと、地球はとても平和に見えることでしょうね。

もしもすべての人が覚醒したら…

すべての動植物の中で、人間が最も進化した生物なのかどうかは知りませんが、少なくともこの地球上では人間だけが「私」という個人であるとの自覚を持っています。

もちろん人間の場合であっても、他の動物のように生まれてからしばらくの間は、「私」はありませんでした。ただ、生物としての反応をしながら生きていただけです。

それなのに、人間だけが次第に「私」という自覚が芽生えてくるのです。これほど、不思議なことは他にはないのではないでしょうか?

UFOに乗ってやってくる宇宙人がいるのなら、彼らもまた我々と同様に「私」という自覚があるのだろうと想定されます。

想定されるだけで、本当のところは分かりませんね。彼らが地球上の動物と同じか、あるいは覚醒している生き物であるなら、「私」はないからです。

仮に、私たちの全員が覚醒したとしたら、この世界はどうなるのかと考えてみたことがあるでしょうか?なかなか興味深いことになるのかもしれません。

例えば優秀な科学者が覚醒したら、科学の探求を突如やめてしまうとは思えません。「私」という我欲がなくなるだけで、そのままの研究は続くはずです。

また、芸術家の人たちだって、彼らの固有の芸術活動が終わってしまうということはないはずです。医学の進歩も停止してしまうということもないでしょう。

もっとも、我欲がなくなってしまうので、現在特に活躍している独裁国家のようなものは消滅してしまうと思われます。

それと、無駄な戦争、残虐な殺し合い、テロ行為なども影を潜めてしまうはずです。政治や経済の世界も大きく様変わりするでしょう。

けれども、ユートピアのような世界になるとは思いません。なぜなら、動植物の生態系は弱肉強食が存続するはずですし、私たちの目で見て残酷と感じるものであっても、自然の計らいとして残るからです。

病気や事故は減るかもしれませんが、根絶することは不可能であることは間違いありません。人の寿命もある程度までは延びるかもしれません。

それは、無用なストレスがきっとなくなるからですが、それでも無限に生きられるわけではないですね。生きているものにはいずれ死が訪れるのです。それは今と変わらないはずです。

そうやってイメージを膨らませると、そんな世界も悪くないなと思うのですが、残念なことにその世界に住んでいる個人が一人もいないのですから、変な感じですね。