何も知らないし、誰もいない

何であれ理解しようとするのが思考の習性です。それはそういうものなので、そのことにいいとか悪いということはありません。

ただし、そこに理解する自分というものが思考の中に出現したとたんに、やっかいなことが起き始めてくるのです。

つまり、理解を深めていっている自分がそこにいるという錯覚が、問題を引き起こすことになるということです。

理解しようとする思考の傾向を利用して、その主人と化した自分という思考が、理解することを自己防衛の手段として用いようとするからです。

自分は今までにこれだけのことを理解できたとして、一時の安心を得るのですが、その安心はすぐに不安へと戻されてしまいます。

したがって、次々と理解を進めていかねばならなくなってしまうのです。そうやって、私たちは理解することがすばらしい価値のあることだと錯覚してしまうのです。

けれどもその理解とは、思考の中だけに通用するゲームのようなものです。ひとたび、思考から離れてしまえば理解は一瞬にして消えてしまうのですから。

そのとき、理解していたと思っていた対象物も、理解したはずの張本人としての自分すら、なくなってしまうことに気づくことになります。

それは最初のうちは大変なショックだったり、恐怖を感じることになるかもしれませんが、次第に無限の安らかさへと導かれるはずです。

何も知らない、誰もいないということの本質的な静寂さに気づくとき、それが本当の救いとなるということです。