自己が在るという気づき

科学的であろうと、非科学的であろうと、私たちは何かをコピーするということを理解できます。まったく同じものをもう一つ以上作るということです。

実際にあり得なくてもいいのです。そういうことができたとしてもおかしくはないという感覚を誰もが持っているのです。

けれども、この世界でたった一つだけ、それをコピーすることはできないと言わざるを得ないものを知っています。

それはたった一人しかこの世にいない自分という存在です。なぜ、自分だけはコピーすることができないと感じるのでしょうか?

他人をいくらコピーしても問題ありません。でも自分は不可能なのです。なぜなら、どの自分も自分だとは決して思えないからです。自分は一人でなくては困るのです。

自分の経験や記憶をコピーすることは可能でしょう。肉体にしても、知識にしても、思考にしても、そんなものはいくらコピーしても大丈夫。

コピーできては困るもの、それは「この私」というこの感覚、それは唯一無二のものであって複数あるなんて決してあり得ないと感じているということです。

けれども、それは本当でしょうか?すべてのコピーされた自分が同じように、「この私」という感覚を持っていても問題ないですね。

私たちがコピーできないと感じているものとは、実は、個人としてのこの私という感覚ではなくて、「私は在る」という本質的な気づきのことだったのです。

それは決してコピーすることができません。なぜなら、それは全体性だからです。全体性をコピーすることはできないのですから。

つまり、私たち一人ひとりが感じている、「私」という本質は個別性ではないということです。地球上の70億人がそれぞれにそれを感じているとしても、それは一つのものだということです。

それは、「自己が在る」という気づきです。