気づくために必要なものなどない

この世界では、何かに熟達するためにはそれなりの訓練、鍛錬が必要であると誰もが考えています。スポーツにしても、楽器の演奏にしても何でもです。

人格を磨いて行くことにしても、数多くの経験を経て、それなりの努力を重ねた結果として得られるものだと思われていますね。当然だと思います。

その流れからしたら、厳しい修行を耐え抜いた数少ない賢者だけが覚醒することができると考えたとしても不思議なことではありません。

そういった前提知識があるからなのか、誰もが簡単に自分の本質に気づくことができるなどとは思っても見ないのです。

だからこそ、セッションの中でより具体的に私たちの本当の姿についてお話しをしても、私にはまだそういうことは無理だと言われるクライアントさんがとても多いのです。

自分の今の精神レベルでは、そんなことは程遠いと固く思い込んでいるのが手に取るようにわかるのです。そうではないという私の言葉は、もう届きません。

それが本当に残念なことですね。実は、そうした思い込みこそが、真実への気づきを妨害しているのだということがわからないのですから。

本質への気づきは、いつでも最も身近なところにそのままの姿で私たちを待っていてくれています。なぜなら、私たち自身がその気づきそのものなのですから。

努力も修行も何も必要ではありません。私たちの本質がそれ自体に気づくのに、ほかに必要となるものなどあるはずはないのですから。