悪循環を断ち切る

まず初めに不安や恐怖、そして孤独があります。そこから逃げたくて、安心したくて我慢をしてしまうのです。

その我慢は、我慢したくない、嫌だという思いを溜め込むのです。このサイクルを繰り返すことで、ため込んだ嫌だのエネルギーが我慢にブレーキをかけるのです。

その結果、もうこれ以上我慢したくないが勝ち、普通に出来ていたこともできなくなってしまうのです。

そうなると、できない自分を責めるようになります。自責だけで済むならまだいいのですが、嫌だのエネルギーは何かしらの問題行動を発動させます。

その結果、罪悪感までやってくることになるのです。自責と罪悪感とでマインドはボロボロになるのです。

そしてやっぱりうまくいかないとなり、また不安と恐怖、そして孤独のところへと戻ってくるのです。

この一連の流れを何度も飽きることなくやり続けているのです。この悪循環をどこかで断ち切らなければなりません。

安心しようとして我慢すること(自己防衛)をやめるのか、自分を責めることをやめるのか、罪悪感が来てもそれを受け止めるのか。

悪循環から抜け出すチャンスは何度でもやってきますので、焦らずにじっくりと向き合うことですね。

自己否定から離れていく

素直な自己表現や感情表現を抑えてしまう三つの要素、これについてはもう何度となくこのブログで触れてきました。

毎日ここに訪れてくれて、この拙い文章を読んでくださっている方であれば、そこそこ記憶に残っているのではないでしょうか?

その三つとは、「恐怖」と「罪悪感」それと「自己否定」なのです。恐怖を感じている状態では、自己表現が自動的に抑えられてしまうのは直感的に理解できますね。

泣く子も黙るという言葉があるように、無邪気な幼児といえども、恐怖を感じてしまえば素直に泣きじゃくることができなくなってしまうという例えです。

成長するに連れて、それほど強い恐怖を感じることがなくなってくるので、そうなると罪悪感の方がより強く自己表現を抑圧することになるのです。

相手を傷つけてしまったとか、悪いことをしたなとか、可哀想だなと感じれば自由な自己表現や感情表現はやはり抑え込まれてしまいます。

最後に残った三つ目の要素である自己否定ですが、上記二つの要素を遥かに凌いでダントツトップで抑圧することになるのがこの自分が悪いという思いです。

どれほど怒っていようが、どれほど言いたいことがあろうが、自己嫌悪、自己否定をしてしまえば、これ以上ないくらいに自己表現は抑圧されます。

もしも子供が、親にとって都合の悪いだろう生の自分を厳重に抑え込もうとするなら、この自己否定を使うことになるのです。

自己否定はやめた方がいいと巷で言われるのですが、その本当の理由はこれなのです。

自己否定しつづければ必ず、怒りと嫌だという思いが蓄積されてしまい、後々の人生に多大な悪影響を与えることになってしまいます。

自己否定をしてきた本人にとっては、嫌な感情や都合の悪い思いなどを完全に抑え込むことができるので、とても都合がいいわけです。

そうした自己防衛の手段として自己否定を選んだのだと深く理解することで、少しずつ自己否定から離れていくことができるでしょうね。

二元性の背後にあるもの

目標を持って生きなさいと教えられたので、その通りにしてみて分かったのはその目標を達成してもしなくても、満たされることはなかったということ。

猛勉強して第一志望の学校に見事合格したら、その瞬間は嬉しくて堪らない気持ちになるのですが、その先はあっという間に普通になっていきます。

そしてすぐに次なる目標を設定して、そこに向かって頑張るのです。この目標を達成できたら、もう次はやってこないという究極の目標があるかのように信じて。

けれどもそんな目標はないのです。きっと私たちが成功者だと認めるような人であればあるほど、その人の中で密かな苦悩があるはずです。

アップルの社長になったスティーブジョブスは、さぞ満足の行く人生だろうと周囲は思うのですが、当の本人はなぜか「禅」に興味を示したりするのです。

それはこの目標を達成した暁には、真の満足を手に入れられるはずと予想していたのに、何も変わることはなかったと気付いてしまうからです。

これはいわゆる宗教と同じで、功徳を積んでいって究極的には神に到達するという目標があるのですが、功徳を積めば積むほど自我が強くなる。

だからこうした宗教はニセモノなのです。正しさを教える宗教に全く興味がないのはこうした理由があります。

その点、禅は全く違うものですね。目標も正しさもすべては自我のもの。そうした二元性の背後にある真実を見抜くこと。

禅に教えがないのは教えられないからです。教えるものがないからです。独りでそれを見出すしかないのですね。

社会よりも生の中で生きる

人類が手に入れたこの文明や社会というのは、これとかあれといった実在するものではありません。

ある種の仮想的な、共通認識をベースに作られているのです。みんなで同じものを信じることで、成立しているのです。

だからその共通認識、あるいはルールみたいなものが自分にはなんだかそぐわないと感じる人にとっては、この社会で生きることはやや苦痛かもしれません。

たとえば資本主義というのは、競争の原理がエネルギーの源になっていたりするので、競争をあまり得意としない人にとっては住みにくい世の中だと感じるのです。

幼稚園時代のことですが、お昼を知らせる音楽が鳴ると、園庭で遊んでいた子供たちが一斉に手洗い場に集まって、手を洗うのです。

それが済んだものから順に教室に入ってお弁当の時間となるのですが、当時の私はみんなが我先にと手洗い場に群がるのをちょっと離れたところから見ているような子供でした。

体質的に先を争うことが不得意だったのだと思います。成長するに連れて、戦いに勝つことは嫌いではなくなったのですが、あの当時の自分は今でも残っています。

その頃の自分が言っているのですが、「僕は誰もが譲り合う方が好きだ」って。そのほうが気持ちいいし、危なくないからと思っているようです。

社会人になったときには、そんな譲り合いの精神などどっかへ行ってしまっていたのですが、年齢を重ねることでまたあの頃の自分が優位になってきたように感じます。

だからこそより、この社会を離れたところから見る習慣が身についているのかもしれません。

仮想的な共通認識よりも、実在するものへと意識が向くようになる方が、生がシンプルに感じられるようです。

時間と空間は実在する?

過去というのは既に過ぎ去ってしまったものなので、それを直に見ることはできませんね。

けれども技術の進歩によって、私たちは過去のある出来事を録画しておいて、それを後で見ることができます。

直ではないけれど、過去を見るということは可能だということです。ところが、直にであれ過去を見ることができると言ったら信じますか?

たとえばサンサンと照りつける太陽を見る時、実は約8分前の太陽を見ているのです。なぜなら太陽からの光が地球に届くのに約8分かかるからです。

私たちは常に8分前の過去の太陽を見ているのです。逆に言えば、今この瞬間の太陽を観測することは不可能だということです。

もしかして今この瞬間に太陽が爆発したとしても、私たちは8分程度は生きていられます。爆発の影響も光の速度を超えてはやってこないからです。

こうしたことは、時間と空間を前提にした物理学の世界での常識です。けれども私は密かに覚醒した意識は時空を超えることを知っています。

時間と空間は実在するように見えても、本当は思考が作り出しているとどこかで実感しています。勿論普段は忘れて普通に生活していますが…。

今年はそうしたことにもっと感じやすくなっていくような気がしていますが、みなさんはどうでしょうか?

分裂がマインドを強化する

マインドというのは、分裂することでその存在を保っているのです。もしも分裂がなくなって、部分と部分が一つになってしまったらマインドは消えてしまいます。

それはちょうどプラス電荷とマイナス電荷のイオンのようなものです。両者が結合すると、プラスマイナスゼロになって互いが消えてしまうのと同じです。

マインドの場合は、どのように分裂しているかというと、たとえば右へ行きたいという部分があれば、左がいいという部分があるということ。

あの人と結婚したいという部分があれば、その反対に結婚なんてしたくないという部分があるのです。

その両者がマインドの中で綱引きをして、その瞬間にパワーのある方が勝つのです。そして負けた方のマインドは、なかったこととして処理されたりします。

綱引きをするわけですから、互いのパワーが拮抗しているとどうしていいのか分からなくて、辛い自問自答が起こるでしょうね。

もしも片方のパワーがほとんどゼロであれば、そこに分裂はないことになるので、マインドは使われないということです。

だから私たちが純粋にただそれをしたいという思いでするとき、そこには分裂がないのでマインドは静かな状態になるのです。

そこに内部紛争がなければ、マインドは沈静化しているのです。そうなると、マインドの申し子である自我は都合が悪いので、分裂するように工夫するのです。

自己防衛が強い時、マインドは強いエネルギーを持つことができるのです。その結果自我も強化されるという寸法です。

だから自我を小さくして、ゆったりと穏やかな人生を生きたいのなら、防衛を小さくしていくように練習する必要があるということですね。

セラピーの先にあるもの

私がセッションでやっているようなセラピーを含めて、世の中には様々な心理療法(サイコセラピー)がありますね。

セラピーの目的は、過度な防衛にはまり込んだマインドを、適度な防衛にまで戻すことによって、生きづらい人生を緩和することです。

ほとんど感情を感じることができなくなってしまっていたのが、自然な感情を味わえるようになったり、抑えられていた自己表現がごく普通にできるようになったり。

人との関わりに強い緊張があったものが、平静な状態で人とコミュニケーションができるようになったり。

強い不安症や恐怖症あるいは鬱などの症状が緩和したりします。私がセッションで心がけているのは、クライアントさんがマインドの仕組みを理解することで、自らが自分自身のセラピストになれるようにすること。

その上で、これはセラピーの範疇を外れるのですが、自分の本質に気付いていくことを究極の目標にして欲しいと思っているのです。

なぜならどれほど癒しを進めて行ったとしても、マインドの本性として満たされないという状態は続いていくからです。

マインドを見守り続けることによって、いずれはマインドとの距離をつかむことができるようになるはずです。

そうやって自らの本質に気づくことができたら、あなたはもう転生せずに済むかもしれませんね。

不変のものを探す

この世界の特徴的なところを一つ挙げるなら、それはすべてが一過性のもので出来ているということです。

すべてが変化するということでは共通なのです。変化の力の及ばないところは無いかのように見えます。

仮想的なものは勿論例外です。実在するものについては、100%変化の中にあるのです。

誰もがお金を欲しがりますね。なぜかというと、お金はどんな欲しいものとも交換することができる、とても便利なものだからです。

けれども、お金には他のものと違う決定的な特徴があり、そのことでお金は比類ない価値を持つことができたのです。

それが何かというと、お金だけはその価値が崩壊していかないということ。実在するモノは、変化するのでその価値も崩壊していくのです。

無理して買ったクルマも、5年も経てばその価値はゼロになってしまいます。父親が死んだときに、彼のクルマを売却しようとしたらできませんでした。

価値がゼロになっていたので、売却ではなく廃車処理しなければならない状態だったということです。

購入して何年も経っていたからです。それから名義変更して3年以上経ちますが、まだ立派に走ってくれるのでオーナーからしたら価値ゼロにはなっていないのです。

けれども公的な価値は買った瞬間からどんどん下がって行ってしまうのです。食べ物なら腐るので、すぐに価値はゼロになります。

そんな具合に、実在するものの価値というのは所持しているうちにドンドン下がっていくのですが、お金はどうでしょう?

お金の価値は不変なのです。1万円札は、何年経っても1万円の価値を保証されているのです。だから貯金することに意味が出てくるのです。

これがお金の持つ特別な価値なのです。お金は仮想的なものだからこそ、価値を保つことができるのですね。

話しがそれてしまいましたが、この世界に仮想的なもの以外でもう一つだけ実在する不変のものがあります。それは何でしょう?

それを探すことです。あなたの本質はそれで出来ているのですから!!

すべてあるがままで良い

20年近くの間、様々な方々の人生を深く見させていただいて、総合的に感じているのは、「すべてあるがままで良いと知ること」これが大切なのです。

あるがままで良いというのは、一言で言えば自然ということなのです。逆に言えば、こうあるべき、ねばならない、こういう信念を持つことこそが不自然だと理解することです。

この地球上で人間だけが不自然な存在になってしまっているのです。その原因は人間だけが自我を持ってしまったからです。

自我だけが、不自然の権化ということ。何かがうまく行ってないと感じている人、苦悩している人は間違いなく不自然な考え方で生きています。

たとえば、「働かざる者食うべからず」という不自然極まりない考え方を幼い頃から植え付けられたら、のんびりすることが悪のように感じるでしょう。

子供の頃に、何もすることがなくゴロゴロしているときに、それを否定されてしまったら、人間とは何かしら役に立つ存在でなければならないと思うでしょう。

私たちの内面であるマインドは、それこそ世界中にある善悪の元のすべてが盛り込まれています。

あの人は悪人でこの人は善人だと思えるのは、一過性のものに過ぎません。どんな自分であれ、あるがままで良いという理解に到達することですね。

過去と類似した人生がやってくる

生まれながらに感覚が繊細だったり、物事の道理が分かっている子供っているのです。まるで大人のように周りを見ている子。

そういう子に限って大抵は病んだ親に育てられることが多いのです。そうなると、その子は親の見えすいた考えや愚かしい言動に気付いてしまいます。

3〜4歳くらいまでは、何か違和感を感じたとしてもそれを表現できないので、ただ大泣きしてしまったり、怒ったりするのみです。

ところがもう少し成長すると、急にそうした親への対処法を体得してしまうのです。それはたとえば親のことを見下すようになったり、自分の感情を抑圧して冷静に親に対処するのです。

親は自分の子供に見下されていることをどこかで感じ取り、嫉妬し、負けまいとして子供を監視したりしてコントローラーになってしまいます。

その子がどれほど賢くても、物理的に親に勝てるはずもなく、病んだ親の配下で不自由きわまりない毎日を生きることになるのです。

その頃に抑圧したネガティブな感情の蓄積が、大人になったときの人生に多大な影響を与えてしまうのです。

その親の代わりになるような他人が周囲にやってきて、まるで過去の親子の関係と同じような状況が生まれるのです。

誰かを見下すと同時に、その誰かから親にされたと同じ激しい嫉妬をされて、面倒な事象に巻き込まれたりします。

もしもあなたの人生に、とにかく面倒なことが多いと感じるなら、その多くは幼いころにあなたが感じていた面倒な人生に類似しているはずです。

解決の道は過去の自分を癒してあげること。これに尽きるのです。過去のことなど煩わしいと思わずに、しっかり向き合ってあげることですね。