社会よりも生の中で生きる

人類が手に入れたこの文明や社会というのは、これとかあれといった実在するものではありません。

ある種の仮想的な、共通認識をベースに作られているのです。みんなで同じものを信じることで、成立しているのです。

だからその共通認識、あるいはルールみたいなものが自分にはなんだかそぐわないと感じる人にとっては、この社会で生きることはやや苦痛かもしれません。

たとえば資本主義というのは、競争の原理がエネルギーの源になっていたりするので、競争をあまり得意としない人にとっては住みにくい世の中だと感じるのです。

幼稚園時代のことですが、お昼を知らせる音楽が鳴ると、園庭で遊んでいた子供たちが一斉に手洗い場に集まって、手を洗うのです。

それが済んだものから順に教室に入ってお弁当の時間となるのですが、当時の私はみんなが我先にと手洗い場に群がるのをちょっと離れたところから見ているような子供でした。

体質的に先を争うことが不得意だったのだと思います。成長するに連れて、戦いに勝つことは嫌いではなくなったのですが、あの当時の自分は今でも残っています。

その頃の自分が言っているのですが、「僕は誰もが譲り合う方が好きだ」って。そのほうが気持ちいいし、危なくないからと思っているようです。

社会人になったときには、そんな譲り合いの精神などどっかへ行ってしまっていたのですが、年齢を重ねることでまたあの頃の自分が優位になってきたように感じます。

だからこそより、この社会を離れたところから見る習慣が身についているのかもしれません。

仮想的な共通認識よりも、実在するものへと意識が向くようになる方が、生がシンプルに感じられるようです。