惨めという思考を理解する

あなたは自分の惨めさとどう付き合っていますか?いやいや自分は惨めなんかじゃないと思っているなら、それは相当おめでたい。

惨めさを持っていない人などいないのです。なぜなら、人は期待値というものを持って生活しているからです。

惨めさというのは、期待値に対して現実が低いときに、その落差によって作り出されるものだからです。

落差が大きければ大きいほど、惨めさも大きくなるのです。私はこのことをセラピストになってから理解しました。

そしてセラピーというのは、幼い頃から隠してきた自分の惨めさに気づくことだということも分かったのです。

人生というのは、その惨めな自分を隠して、自分は惨めなんかじゃないということを証明しようとする努力の連続に過ぎません。

意識が内側に向かわずに外へ外へと向いてしまうのも、これが理由なのです。期待値に対して起きた現実がその期待を裏切ったという事実と、だから自分は惨めだという思いとは違うものです。

つまり惨めさというのは思考によってでっち上げられた架空のもの。けれども、それによって悲しみが作られてしまうのは事実です。

親に関心を持ってもらいたいという期待値に対して、現実はそうではなかったなら、子供はひどく惨めだと思うわけです。その惨めさがあたかも事実であると錯覚するのです。

あらゆる惨めさはすべて思い込みだという深い理解に至れば、惨めさから逃げる必要もなくなり、惨めじゃないという証明も不要になるのです。

その時初めて、ありのままの自分を丸ごと受け止めることができるようになるのだと思いますね。