昨日と一昨日のブログでは、信頼について少し書きました。今日のブログでは、もっと具体的に信頼があるとどうなるかについて書いてみたいと思います。
信頼は受容を生み出すということを一昨日書きましたが、それは実際どのようなものなのでしょうか?
例えば、一般的に恐れられている「死」については、信頼が深くなればそれとしっかり向き合うことができるようになるはずです。
あるいは、自分は何て惨めなんだという悲しい思いほど認めたくないものはありませんが、それも逃げずにいられるようになるはずです。
自分ばかりが酷い目に遭う、理不尽なことばかり遭遇する、なんでこんな境遇で生まれてしまったんだろうというやりきれない思いを持っている人もいます。
けれども、信頼を持てばそういったことすらも受容できるようになるはずなのです。なぜなら、自分よりも全体性に委ねることができるからです。
存在価値が分からない自分のことを信用することは難しくても、代わりに全体性を信頼できるなら、明け渡すという感覚も身近なものになるかもしれません。
信頼は、自我の思い込みや勝手な判断、あるいは自責の念などを緩める力を持っていると思います。
ここで気づくことができますが、信頼とは自我のものではないということ。自我ができるのは、信じることと信じないこと。
そのどちらでもない、そして真反対のない信頼こそが無思考の産物なのですね。だから信頼が大きくなればそれだけ、自我が小さくなるということでもあるのです。