真実は共有できない

私たちの社会が社会として成立するためには、それなりのルールをみんなで共有している必要があります。

一万円札を一万円の価値があるものとして扱う、そうルールで決めてそのルールを全員が共有しているからこそ、紙幣として安心して使うことができるのです。

所有という属性にしても同じです。この土地は私が所有しているとどれほど声高に叫んだとしても、みんながそれを認めなければ意味を持ちません。

実際、ロシアがウクライナに侵攻して土地を占領してしまえば、何百年暮らしてきた先祖代々の土地であっても、その所有権は消えてしまうのですから。

地球が丸いということを子供の頃に教えられて、その知識を共有することができたのは、それが単なる情報だからです。

このようにして、この世界は共有で成り立っているのですが、真実についてはそれができないのです。

私にとっての真実は、それを他の人に譲り渡すことができません。なぜなら、それは情報ではないからです。

もちろん私が誰かの真実を受け取ることも不可能なこと。真実は自分がその根っこまで降りて行ったときにようやく見つかるもの。

だから個人的な体験を通してのみ、見つけることができるのです。みんなで一緒に瞑想をするのは、深く入りやすいので有効な手段かもしれませんが、瞑想で見る景色を共有することはできないということですね。

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