奴隷のエネルギーを脱ぐ

多くの人にとっては意外かもしれませんが、実はまるで奴隷のようにして生きてきた人がたくさんいるのです。

奴隷というのは、人間としての自由や尊厳を無視されて、恐怖や罪悪感を利用されて相手の言いなりになる状態のことです。

ブラック企業などはその典型かもしれませんね。残業をしても残業代は出ないし、ノルマを達成できなければ虫ケラのように扱われる。

じゃあどうしてすぐにそんな企業を辞めないのかと疑問に思うかもしれませんが、そこにはきちんとした理由があるのです。

それは、幼い頃から激しいコントローラーの親に育てられて、まるで親の奴隷のように扱われてしまった経験がある人は、それを繰り返すということ。

そういう人が自覚がないままに、就職した先がブラック企業だったということがあるのです。これがエネルギーの法則です。

家族の中で、奴隷のように扱われていれば、そうしたエネルギーをまとってしまうことになり、そのエネルギーに見合った現実を引きつけるのです。

だから大人になってブラック企業を選んでしまうことになるのです。それは決して偶然などではないということです。

もしもあなたが人間関係において、何となく奴隷のような立場になりがちだと感じているなら、奴隷のエネルギーを解放するための癒しが必要だということです。

戦えば惨めになるしかない

osho の言葉に次のようなものがあります。

「降伏の中に勝利があり、戦いの中に敗北がある。もしあなたが欲求不満だとしたら、それはただただあなたが必死に戦ってきたことを表している」

降伏、降参、觀念、明け渡し、どんな言い方でもいいのですが、この中になぜ勝利があるというのでしょうか?

その勝利とは一体何に対してのものなのか?それは、自我に対する勝利を意味しているのです。降伏や明け渡しは自我の死を意味するからです。

一方で戦いというのは自我にとっては好都合であり、自我は活性化し続けることができるのです。この単純な仕組みを理解すること。

自我が強く君臨すればするほど、あなたの人生は殺伐としたものとなり、潤いや豊かさなどから遠のくことになります。

なぜなら、自我の根っこにあるものは分離感だからです。あらゆるものは分離しているという思いの中に、自分は個人だという信念があるのです。

分離からは惨めさがやってきて、そこから防衛が生まれるのです。それも必死の形相で防衛をし続けることになり、まさに自我の天国ですね。

自我を敵対視する代わりに、その仕組みや構造を深く理解することです。理解すればもう敵ではなくなるのです。

最終的には自我を手なずけて、その機能や能力だけを使うことができるようになるでしょうね。

小さな持ち場を生きる

osho の言葉で、「あなたはただ、自分に与えられた小さな持ち場で自分の生を生きればいいのだ」というのがあります。

なんだかすごく自分にピッタリの言葉だなと思って、嬉しくなってしまいます。自分は大それた考えが全くないのです。

人の役に立つことをしようとか、世のため人のために生きるなどというのは、私の場合100年早いと感じます。

正直言えば、自分のことで精一杯だからです。自分の本性、自分は一体なんなのか?が分かるまでは、自分を中心に生きるしかないと思うからです。

日本がこの先どうなっていくのかは確かに心配だし、世界中の人が飢えや戦さに苦しむことがないようにと願う気持ちはあります。

けれども、今の自分には正直荷が重すぎて、ただ祈ることしかできないと割り切っています。それが小さな持ち場ということです。

この生で何を成し遂げようとも、自分自身の正体に気づくまでは満足することはないだろうと分かっているのです。

ただしそこに気づいたなら、つまり本質に目覚めたなら、今度は不満は無くなるけれど、満足も消えてしまうことになるのでしょうね。

より自然に、より自由に、より無防備に…

ある時セッション中にクライアントさんから、「大澤さんはクライアントにどうなって欲しいと思っているのですか?」と質問されたことがあります。

1秒くらい考えてから、考えるまでもなかったと思って答えたことが、「より自然に、より自由に、より無防備に生きられるようになって欲しい」でした。

要するに、生後培ってきてしまったあらゆるバカバカしい教えから解放されること。それが癒しの目的なのです。

その教えの中には、親や社会の正しさも存分に含まれています。この正しさ、このルールというのが防衛に使われることになるのです。

私はクライアントさんに人格者になって欲しいとは全く思っていないのです。それよりも心の中で野生を取り戻して欲しいのです。

社会の中にいるためには、それなりのルールを守って順応することも必要ですが、内側では幼い子供のように野生を持っていて欲しいのです。

そうして、社会の中にいながら社会に染まらずにいることが可能になるのです。そのバランスが取れるようになること。

あなたの自我がどんなものであれ、それを十分に注意深く見守りながら生きること。受け容れることでしか、人は満たされないということを忘れないことですね。

何も持って行けない

2ヶ月くらい前からだったと思うのですが、2階の自分の部屋から、かつて父親の部屋だった1階の部屋に引っ越ししたのです。

老齢の母親が夜の間転んだりしないかどうか心配で、夕飯を済ませてからはずっとその部屋で過ごすようになったのです。

いつもソファに腰掛ける生活に慣れていたので、突然ベッドとテーブルと座椅子しかない畳の部屋に移って、バリバリ違和感だらけ。

自分の私物もないので、これは不便な生活になってしまうかもと当初は後悔したのですが、それがそうでもなかったのです。

ベッドは自分の部屋のソファベッドよりも快適だし、考えてみたら夜眠るまでの4〜5時間の間、タブレットとスマホがあれば事足りることに気づいたのです。

要するに夜何もしていないということですね。あれ、じゃあ昼間は何かしているのかというと、スポーツクラブに午前中行くだけ。

セッションの予約が入ってなければ、それこそ本当に何もしないのです。自分の毎日って、何もしない時間だらけだなと。

かつては何か生産的な時間を過ごしていないと、落ち着かないような感覚があったものですが、もうそんなものはすっかり姿を消しました。

どれほどの成果物を残したとしても、あちらに旅立つ時には手の中は空っぽなのです。何も持っていくことなどできないのですね。

今のうちにそのことに気づけてよかったと思っています。

幸せ恐怖症

自我というのは比較のプロなのです。何でもかんでもすぐに比較する傾向が強いのです。大抵は自分と近くにいる誰かを比較するのですが。

比較して良いことは一つもないと薄々分かっているはずなのに、どうしてもやめられないのです。自我の悲しいサガですね。

しかも自分の満たされている度合いが低ければ低いほど、比較をしてしまうことになるのです。これって、誰でも思い当たるのではないでしょうか?

つまり自分が幸福感に包まれていて、満たされていると感じる時には、周囲のことなどどうでもよくなるものです。

だからそういう時には、他人の幸せを心から祝福してあげることができるのです。そうでない時には、ひがんだり嫉妬することになるのです。

この状況が親子の間で起きると悲惨なことになります。例として、母親(のインナーチャイルド)が自分の娘に嫉妬するということが実際にあるのです。

そうなると、子供は自分が楽しそうにしていると母親に怒られたり否定されたりする一方で、辛い時には逆に優しくされたりするわけです。

こうしたことが母親との間で何度も繰り返されることで、その子は自分は幸せになってはいけないのだと察するようになるのです。

私はこれを「幸せ恐怖症」と呼んでいます。幼い頃にこのルールがしっかり染み付いてしまうと、大人になっても知らず知らずのうちに幸せになりそうになると自らそれを破壊してしまうのです。

もしもこのようなことに思い当たるふしがあるなという場合には、しっかりと癒しを進めていくことが必要ですね。 

マインドの取引を見抜く

未来というのはイマジネーションの中にしかないはずなのに、私たちはその未来をとても大切なものだと思い込んでいます。

というのも、今実現していない希望や夢というのはその全てが未来の中にこそあると思えるからですね。

そのため、最も大切な現在を犠牲にしてでも、未来を優先しようとしてしまうのです。何を言っているか分かるでしょうか?

例えば、今この状況がどれほど理不尽で苦痛であろうとも、ここを乗り越えることで希望する明るい未来が手に入ると思うのです。

要するに現在の苦悩と未来の満足の間で取り引きしているわけです。今どれほど惨めなことが起きていても、未来のために頑張るというわけです。

これがうまくいかない理由は、思いのほか明々白々なのです。それは、明日の自分は今日の自分から生まれるからです。

osho 曰く、「どうしてくたびれた旅が喜びに満ちた目的地に続くだろう?」ということなのです。

自己犠牲によって波動を下げた挙句に、マインドの中に苦しみを蓄積してしまえば、その先に待っているのは悲惨な毎日になるのは明らかです。

歯を食いしばるのは、明るい未来のためではなく、今この瞬間の喜びのためでなければならないということです。

マインドはいつも取り引きしたがるのですが、それをしっかり見守ることができればそこから離れていることができるのですね。

心のスピードを落とす

30歳のころに初めて転職をして、それまでとは毛色の違う外資系の企業に移ったのですが、そこでは誰もが一国一城の主のように見えました。

みんなが自分が知らないことを知っているし、あちこちで英語のワードが飛び交っていて、和やかな中にもピリピリ感もあったのです。

テンション高めというのか、活力に溢れているというのか、とにかくペースが早くてみんながイキイキしていたのです。

そんな中に一人、少しペースの違う感じがする女性がいて、いつも落ち着いた雰囲気で穏やかでゆっくり話す感じの人でした。

仕事で一緒になることがなかったので詳しくは分からないのですが、いつもこんなハイテンションの中でマイペースを維持できていていいなと思ったものです。

一般的にいって、自分の自然のペースを乱されずに過ごすのは難しいものですね。仕事中などは特にそう感じます。

できるだけ日常的に自分の自然のペースで生きることができるなら、心のペース、心のスピードを落とすこともできるようになるはず。

そうなった時には、思考と思考の間の空隙が見えるようになるはずだとoshoは教えてくれています。

その隙間に意識を向けるようにすることはとても大切なことです。なぜなら、それこそがあなたの本質であるからです。

そうなると、更に好循環が生まれることで、より心のスピードが落ちてきて、思考よりも空隙の方が大きくなってくれるはずです。

そうしてより深い瞑想状態へと入っていくことができるのですね。

他人のことは決して分からない

大往生という言葉がありますね。天命を全うして安らかに死ぬこと。高齢の人が老衰や自然死のように亡くなることとあります。

そういう意味だということは知っていましたが、最近この言葉を聞いてなんだかあまりいい気持ちがしないなと感じたのです。

身内の人たちが使うのでしたらいいのですが、何も知るはずのない他人が何を知ったかぶりしてそんなことを言うのだろうと。

もちろん何の悪気もなく、高齢で平和に亡くなっていったんだなくらいの気持ちで言っているのはわかるのですが。

私たちは知らないはずの他人のことをあれこれまるで知っているかのように言うことが多いのではないでしょうか?

あの人は幸せだなとか、あの人はきっと不幸に違いない等々。私はマインドの理解を通して、そんなことは決して分からないと気づくことができました。

逆に一つだけはっきりしていることもあります。それは、どんなマインドも満たされることはないと言うことです。

逆説的かもしれませんが、これだけは明確なのです。なぜなら、マインドは満たされてしまったら、もたないからですね。

他人に対するそれ以外の一切のことは、決して計り知れないのだと言うことを、よくよく理解しておくことが大切なのでしょうね。

なぜならその方が自分自身のマインドが穏やかなままでいられるのですから。

自我の三つの層

長い間、自分自身の自我やその他たくさんの人々の自我を見つめてきて、色々理解できたことがあるのです。

例えば、私たち人間は最も表面的なレベルでは、より幸せになりたいと願っています。これに異論がある人はいないでしょう。

ところがその表皮を剥いでしまえば、そのすぐ下の層では安心したいという願いがごってり詰まっているのです。

私の言葉で言えば自己防衛ということになりますが、とにかく不安をできるだけ安心に変えたいと願っている部分ですね。

この二つの層だけでも実は互いに矛盾するものなのです。なぜなら、安心を得ようとすれば必ず、そこには自己犠牲が付きまといます。

つまり不自然な生き方をしたり、自由を奪われた毎日を生きることになったりして、幸せとはとても言えない状態になるのです。

この二つの層だけでも互いに矛盾する困った状態なのですが、実はその奥にはまた違う自我の本音が隠されているのです。

それが本当の本当の自我の目的なのですが、それは自我が消滅しないようにするということです。これに気づいている人は少ないかもしれません。

この部分は目的を達成するためには、自分が幸せだろうが不幸だろうがそんなことにはお構いなしなのです。

どれほど不幸になろうと、どれほど不安に苛まれようと、とにかく自我として存続できればいいという究極の原動力があるのです。

この三つの層の全てをしっかり理解し、それを総合的に見守ることで自我から距離を取ることができるようになるのですね。