重なる時は重なるモン

日頃から、やるべきことをほとんど持たずに生きている身としては、ここのところちょっと色々なことが重なってきています。

ハウスメーカーとの最終的な打ち合わせ、それに伴ってお隣さんとの間にあるブロック塀などの外構工事の詰め。

来月早々に予定されている家の解体を前にして、あらゆる不用品の処分と自分たちの引っ越しの準備。

引越しの面倒臭さは幾度となく経験しているのですが、今度のは家全体の引越しなので規模がデカくて大変。すぐ近所に仮住まいを見つけられたのがちょっとの救いです。

そんな最中にまさかの巨大爆弾の投下、つまり母親の急な容態の変化がやってきて、これで引越しに雪でも降ったら、まさに泣きっつらに蜂とはこのことかなと。

幸いなことに、今日になって母親の容態が良くなった感じで一安心なのと、雪にはならずに済みそうなのもあって、やれやれ。

よく言われることではあるのですが、本当に重なる時は重なるのですね。外側で起きていることに揺さぶられている時に、微動だにせずにいる部分を何とか見つけようと。

時間がなくて、仕方なく深夜に充電に行った時に、静かに瞑想をしたりして内側に意識が戻るようにはしたのですが、やはりいつもとはちょっと違いましたね。

ただし、冬になると毎年お決まりのようにやってくる身体の痒み、特に背中の手が届かない部分の痒みをあまり感じないのです。

ははあ、やっぱりなあと。あれやこれやと気忙しくしていると、それに紛れて痒みが遠のくのですね、予想はしていたのですが、お見事としか言いようがないです。

というわけで、珍しくちょっと忙しい(フリをしている)毎日を送っています。今晩も、深い瞑想に入れたらいいなと祈りながら。

ーーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

良いこと悪いこと

深夜に老人ホームから電話があり、ああまた母親が転倒したのかなと思っていたら、どうも様子が違って救急搬送されるとか。

急いで着替えて、駆けつけてみると、もう救急車は来ていて、救急隊員の方々がテキパキと母親に対して処置をしているところでした。

母親の様子がいつもとは違っていて、これはちょっと大変かもと。救急車に乗せるところまではスムーズだったのですが、そこから遅々として進まない。

いつまでも救急車が発車しないのです。どうも、受け入れてくれる病院を探しているらしく、小一時間経ってようやく最後の頼みの綱である大型病院へと出発。

救急車の後を追っていくにも、相手は赤信号無視なので、とても追いつけないのです。結局自力でその病院まで何とかたどり着けたのですが、そこからまた大変。

その病院には入院させられないとかで、処置をしてもらいながらも延々と入院させてくれる病院を探すこと数時間。もう外が明るくなってきた。

母親の様子が少し落ち着いてきたので、ホッとひと息しながらも、固い椅子では仮眠もできずに、ほぼ完徹状態。

それにしても、急患の対応をしてくれている若いスタッフの皆さんが、本当にご苦労様だなと思ったのです。

ようやく一つ病院が見つかったようで、再び救急車でその病院まで搬送してもらったのですが、私は道が分からず当てずっぽうで何とか到着。

初めての病院ですが、医者も看護師の方々もみんなが親切で適切な対応をしてくれる印象でしたね。

今回の経験としては、医療従事者の方々の素晴らしさに比べて、病院の受け入れ状態の悪さが際立ってしまいました。

しばらく予断を許さない状況が続くと思われるのですが、いいことも悪いことも全て自分の勝手な判断だなと改めて練習させられたのですね。

唯一の責任

ここのところ、YouTube動画で“「ドブに捨てる」シリーズ“というのを連続でアップしているのですが、本当のことを言うと、アレ、一言で表現できてしまうのです。

要するに、自然に生きている人、他の誰かになろうとするのではなく自分自身でいられる人、自分に正直な人、あるがままに生きている人。

こういう人は、ドブに捨てるようなものを元々持っていないのですね。わざわざ意識する必要もないのです。

自然体で生きている人は、道徳なんていらないのです。人に対して親切にしようと思わなくても、勝手に親切にしてしまうのです。

自分に正直な人は、苦しんだり努力したりせずに楽しく楽に生きているのです。それが人間の自然な姿だからです。

自然にそうなってしまうということですね。ひとりでに感謝の気持ちが湧いてくるだろうし、人に優しくするようになってしまうのです。

そういう人にルールなど不要なのです。けれども、社会の中ではそれなりの秩序を守って生きることもできるのです。

そのくせ、見えないところ、心の内側では野生児のまんまで生きているので、無理がなく心身ともに健康を維持できるのです。

私たちには、本来どんな義務も責任もありはしないのですが、あえて一つだけあるとすると、冒頭で言ったような生き方をすること。

ただ自分自身でいることだけが、唯一の責任だと言えると思いますね。

ーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

断食と瞑想

もう10年以上も前になりますが、1LDKのマンションを事務所兼住居として使っていたことがあったのです。

あの頃は一人暮らしのようなものなので、毎日の食事は自由気ままにしていたということもあって、何度か断食をしたことがありました。

一週間とか10日間くらいの断食をすると、明らかに身体中の毒が出て行ってくれて、心身ともに健康になるのが分かるのです。

家族と一緒だとなかなか難しい面もあるかもしれませんが、もしも可能であれば皆さんにも絶対にお勧めです。

お医者さんからしたら、あくまでも民間療法という位置付けだろうから、断食するといいですよ!なんて言えないのでしょうね。

けれども、最近では科学的に断食が健康に非常に良いということが証明されてきつつあるようです。

私の個人的な理解ですが、断食すると消化吸収に費やしていたエネルギーが余剰するため、それを解毒に使うことができるようになる、というのが大きいのかなと。

断食は身体にエサを与えないことで、健康を取り戻す方法ですが、それと同じようにして瞑想は、左脳(自我)にエサを与えない方法だとも言えるのです。

瞑想状態では、外側で起きていることに心を奪われないようにできるので、自我にとっては食いぶちがなくなるわけです。

そして、左脳にとっては自動思考を放ってきてもその手に乗らずにいられるので、左脳にもエサが与えられなくなるのです。

断食と瞑想、この二つの効果は絶大です。かつてのろくに食事もできない苦行僧が、瞑想ばかりしていたなら、それは修行としては理に適っているということになりますね。

カラスの奴

先日事務所の近くの細道を歩いていたら、近所の人が数人で道を掃除しているのです。出しておいたゴミが、どうもカラスにメチャクチャに荒らされてしまった模様。

かけてあったネットも全く役に立たずで、それまで見たことがないくらいに荒らされてしまっていたのです。まるで道全体がゴミだらけ。

カラスって人間側からしたら公害みたいなものですが、カラスの側からしたら食べ物を探していただけなので、決して悪者ではないのですね。

街中で何度か見かけて、試してみたことがあるのですが、そ〜っとそばに寄ってカラスを観察してみると、なかなか興味深いのです。

実に立派な黒光りする身体を持っていますよね。思いの外大きくて、かなり強そうです。静かにしていると、逃げずにこっちを見返して来たりするのです。

目が合うと、奴らはあの鋭く尖ったクチバシを何かで研ぐような仕草をするのです。まるで鋭利な刃物でも研ぐかのように。

そして、「おぅおぅ、何だお前やるのかあ?やってやろうじゃないかあ!」ってな感じで脅してくるように感じるのです。

勝手にそのように、挑発的な態度をしてくるのだと捉えていたのですが、どうもそれは違うようですね。

カラスに限らず、他の鳥も含めてクチバシが油などで汚れた時に、それをキレイにしようとしてあのような動作をするのだとか。

自分が少しでも恐怖心を持って見てしまうからこそ、そういった戦いの合図のように感じてしまうのだと少し反省しました。

かつて犬が吠えているような声でモノマネするカラスに出会ったこともあるし、それ以外にもたくさんのモノマネをしているのを知っています。

かなり賢いし、お茶目なモノマネをするカラスに興味を持っているのですが、もしも彼らとコミュニケーションが取れたら、楽しいだろうなと。

そんな夢をみてみようと画策している今晩です。

ーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

意識の覚醒レベル

私の毎朝のルーティンは、起きてすぐに朝風呂に入ることです。特に、冬になるとオンボロになってしまった我が家の廊下やトイレの温度が半端なく低いのです。

だから、湯船に浸かってしばし身体を温めなければ、どうも活動しづらいという感覚になってしまっているのです。

ところがです。その朝一の湯船がどれほどゆったりと気持ちのいいものであったとしても、例の自動思考が必ずやってくるのです。

というよりも、1日の中でもっとも自動思考がやってくるのが、実は湯船の中のあののんびりタイムであるのは、ちょっと驚きなのです。

長年に渡る習慣なのか、朝という時間帯がそうさせるのか、とにかくお風呂の中でやってくる自動思考はかなりしぶといです。

そして自分自身も、その時間はすぐにその思考群に飲み込まれてしまい、自動思考がやってきたということすら気づかずにいることが多いのです。

今気づいたのですが、やはり朝という時間帯のせいなのかも。というのも、朝はどうしても寝起きなので、意識の覚醒レベルが低いのかなと。

同様にして、夜中に一度目を覚まして、その場で瞑想をしたことも何度かあるのですが、やはり時間をかけても瞑想があまり深くならなかった記憶があります。

つまり、意識の覚醒レベルが低ければそれだけ、瞑想にも深く入っていくことができないし、思考も増えてしまうということです。

その逆も然りなのです。やはり、瞑想の習慣と普段の意識的である練習によって、なるべく意識の覚醒レベルを高く保つことが、大切なことなのですね。

信頼を深める

osho が私たちの人生の秘密を明確に教えてくれています。

たとえ金持ちであろうと、慢心しないことだ
又、貧乏であろうとそれを深刻にとらないことだ
私たちは皆、色々な役を演じている
可能な限り美しく演じなさい
だがすべてがゲームであることを、片時も忘れてはならない
そして、死の訪れとともに最終の幕が降ろされる
それから、役者全員が退場する

これを違う言葉で表現するなら、いつからか感じていた「死んだら目が覚める」という、私自身の感覚と同じだなと。

まだ100%の信頼にはなっていないのですが、それでもこうしてoshoの言葉を繰り返し心の中に刻むことで、少しずつ信頼が育っていくのでしょうね。

私たちは、この物理世界にやってくるにあたって、様々な人生ドラマの設定をしてきたのですが、それを忘れるようにできているのです。

全てを覚えているのでしたら、本当にゲームをゲームとしてしか楽しむことができないからです。人生とは、忘れるゲームでもあるということです。

でも完全には忘れきれてないからこそ、「死んだら目が覚める」という感覚をうっすらと持っているということなのかもしれません。

一種のゲームであることを片時も忘れないようにと言われても、忘れることでゲームに集中できるのですから、その点はどうなのでしょう?

いずれにしても、みんなで信頼を深めていけたら本当にいいなと思うのです。誰も深刻に考える人がいなくなれば、軽〜いハッピーな世界になるはずですからね。

自分自身であること

人は誰でもみな、より幸せになりたいと願っています。けれども、幸せの定義というのは、人によっても違いがあるので、一口でシンプルに表現することは難しいのです。

といった感じで言われることが一般的だと思うのですが、最近自分の中ではイヤイヤ幸せの定義なんて簡単だと思えるようになったのです。

それは、いつもこのブログでも書いていることですが、とにかく「自分自身でいるということ。自分に正直に、あるがままの自分でいること」

ただそれだけです。こんなシンプルなことこそが、如何に幸せでいられるかにかかっているのです。

そして、それを欠いてしまう限りは、他にどんなものを手に入れたとしても、絶対に幸せになることはできません。

これは断言できます。どれほどお金持ちになっても、どれほど愛しい人と一緒にいられたとしても、ノーベル賞を受賞したとしても、同じこと。

自分でいられずに、誰が別の人になろうとしているのであれば、人生はうまく行かないことになってしまいます。

osho がそれを的確に表現してくれているので、ぜひ味わってみてください。

『誰もが自分自身であることだ–私は、これが生の基本的なルールだと思っている。しかしこれまで、あなたはそれを受け容れることができなかった。これまで、人類はそれぞれの個人をありのままに受け容れる用意ができていなかった–あなたは人を、誰か別の人にしようと試みる。

人が誰かを別の人にしようとするのは、その人自身が自分自身でいられない生き方を選んでしまっているからだと思います。

そしてこうしたことは、世代を超えて連鎖していく傾向が強いのです。一人ひとりが、ありのままでいるということと、しっかり向き合う必要があるのですね。

存在への信頼を育てたい

老人ホームに入居している母親のところに面会に行ったら、いつも最初は「だれ?」って顔をされても、しばらくすれば自分の息子だと分かってくれていたのです。

ところが、昨日は私の名前を言うことはできるのですが、どうも顔をいくら見つめても誰だか分からない感じでした。

名前の記憶と顔の認識とは、脳の中で働く場所が違うのかもしれないですね。考えてみれば、私の今の顔は過去の顔とは違ってしまっているので、それも原因かも知れません。

それにしても、とうとう来たかと。きっと近い将来こういうことになるのだろうとは予想して、覚悟はしていたのですが。

どうも、現実になってみると、少々悲しいのです。もちろん、母親が肉体的にどこかが痛いとか、辛そうな姿を見せられるよりはマシです。

けれども、私の記憶の中ではついこの間までごく普通に母と息子の会話が成立していたはずなのに、こういう現実もやってくるのですね。

家内と一緒に童謡を歌ってもらったら、かなり覚えていてそこそこ一人でも歌えるのです。母親のそんな姿は私の記憶にはないので、ちょっとうるっときましたね。

その一方で、いつかはその痩せ細った身体を後にして、母親の本当の姿へと帰っていくのだろうと、肯定的に捉えることもできることがありがたいです。

私たちの本質は、生まれることも死ぬこともないということへの信頼を、より一層育てて行けたらいいなと思うのです。

床材の結果報告

先日のブログ“「こだわり」を手放す?“に記載し、その後に動画“「ドブに捨てる」シリーズ第十弾 <執着・こだわり>編“でもお伝えした自分のこだわりに関する話題に対する、結果報告です。

自宅を建て替えるプロジェクトの設計等が終わって、これで実際に建設を始めますという調印式を直前に控えて、その結果がギリギリになって出たのです。

結局は、当初の私のこだわりだったタイル調の床材を採用できることになったのです。95%の確率でもうダメだろうと思っていたところだったので、ちょっとびっくり。

とりあえず、めでたしめでたし なのですが、それだけでは脳がないので、少しだけ分析をしたいなと思うのです。

私としては、昨日までの状況を冷静に判断すれば、私の希望は却下されることになると分かっていたのです。

それなのに、幸運にも採用されることになったのには、きっと私のこだわりへの態度が大きく影響したのではないかと。

もしもこれまでの私の生き方をそのまま続けていたら、つまりは相手の落ち度を徹底的に批判し、これでもかと怒りを浴びせて鬱憤バラシをする。

これをそのまま予定していたら、きっとそれを実行させるためにも床材は却下になっていたのだろうなと。

その逆に、瞑想中にそんなこだわりは全くどうでもいいことだと、深い部分で気づけたことで自分の波動が上がり、それに見合った現実がやってきたのだろうと。

このように捉えることで、これからも良い循環がやってくるはずと思えるのです。やっぱり、こだわりはドブに捨てるに限りますね。