直接の経験が非二元を見せてくれる

私たちは誰もが自分の個人的な思考というものを持っていると思っていますし、実際その思考によってこの世界という幻想の世界を生きている気にさせられているのです。

五感による直接の経験だけに留まっているようにして、思考を介在させないように注意深く検証してみると、全く異なる世界を経験できます。

つまりはそれが非二元なのです。思考によるあらゆる作り込み、思い込み、記憶を使わずに経験すると、非二元がその姿を現します。

経験、あるいは体験だけがあって、それ以外の経験主体である自分とか、経験対象である独立した物体などがはっきりと「ない」と気づきます。

周囲に見える机や椅子にパソコンや壁、そういったものが単なる現れに過ぎないと気づくと同時にこのカラダも同じだと分かるのです。

この直接的な感覚、このシンプル極まりない感覚は格別のものがありますが、これは、実はごく普通に誰もが普段経験しているものです。

なにか特別な訓練や特殊な能力を必要とするものではありません。というより、これより他には体験しようがないというのが本当のところです。

要するに、直接の経験、体験だけを抽出して検証することができるかどうかにかかっています。練習が必要かもしれませんね。

個人的な苦しみからの解放

昨日のブログでは、身体にまつわる三種類の感覚について書きました。私たちは身体がプライベートなものだと思い込んでいます。

したがって、身体の痛みや痒み、あるいは様々な不快感の全てがプライベートなものだと感じてしまうのです。

もしもそれが、プライベートなものではなく、そうした全ての感覚は単なる現れとして起きているだけだと見抜くことができたら、かなり違ってくるのではないかと思っています。

元々独立して存在する物体、物質というものは経験できないということが分かっているので、それはこの身体に対しても同じことが言えるのです。

その一方で、身体は特別なものだと感じてしまうのは、上記したあらゆる感覚を身体が持っていると勘違いしてしまっているからなのですね。

私たちが日頃感じているあらゆる不快感、痛み、痒み、そう言ったものがこの身体とは無縁だったと気づくなら、どれほど解放されるでしょうか?

そして実際、慎重に検証していくことで、自分の身体、自分の身体の痛み、もっと言えば自分の不快感というのもないと気づくのです。

こうしたことが本当に浸透するなら、個別の快不快が消えてしまうので、個人的な苦しみの全てからも解放されることになるはずですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

感覚の三分類

感覚の三分類というのをまとめてみると、以下のようになるらしいです。

1.外受容感覚(exteroception)= 外の世界を感じる感覚

• 主に皮膚や感覚器官を通じて得られる情報。

• 例:視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、温度感覚、痛覚など。

• 「世界がどうなっているか」を知る。

2. 内受容感覚(interoception)= 内臓や体の中の状態を感じる感覚

• 内臓の働きや体内環境を知らせる。

• 例:空腹感、喉の渇き、心拍の速さ、呼吸の苦しさ、便意・尿意など。

• 「体の内部がどうなっているか」を知る。

3. 固有受容覚(proprioception)= 身体の位置・動き・力加減を感じる感覚

• 筋肉、腱、関節にあるセンサーからの情報。

• 例:目をつぶっても腕がどの位置にあるか分かる/階段を上るとき足の高さを自動的に調整できる。

• 「自分の体がどう動いているか」を知る。

上記は、私たちが日常的に身体がその機能を持っていると感じているものです。その中でも、聞き慣れない固有受容覚というのが、ものすごく大きな役割を演じているのです。

その役割とは、この身体が自分だという感覚です。つまり、この感覚があるからこそ、私=身体という強い思い込みが作られてしまうのです。

この固有受容覚ですら、単なる現れに過ぎないということに気づけば、長い間の身体という監獄から脱出できるはずですね。

「覚醒」というものが見えてきました

ずっと夢物語のようにして憧れを持っていた「覚醒」ということが、少しずつ身近なものに感じられるようになってきました。

その理由は簡単で、昨日のブログの最後にも書きましたが、覚醒に対する定義というか自分の中での意味合いが変化したからです。

以前は、全くどのようなものかもわからないままに、ただやりようもないので仕方なく瞑想を繰り返すのみだったのです。

だから、こんなことで覚醒するなどということもきっとないに違いないだろうなと、そう思っていたわけです。

ところが、覚醒というのはそんなに難しいことではなくて、単にしつこい思い込みを捨ててしまえばいいと気づいたのです。

特別なことは何にもなくて、ごく普通にやってしまっている思い込みに気づき、それを手放すだけでいいのだと。

そうすると、自動的に自我も溶けて、その自我が作り出していたあらゆる妄想も一緒になって溶けていくのだろうなと。

そういう道筋が見えてきたのです。本当は、一瞬で終わるものかもしれませんが、長年のクセというものがあるので、それが邪魔をするのでしょうね。

いずれにしても、やり方が分かったのであとは淡々とそれを実践していくのみ。瞑想はいらないと言っても、幻想を洗い出して無くしていくためには少しは静かに見つめる時間は必要ということですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

どんな状態であれ、それは単なる状態

瞑想を毎日のライフワークにしていたのに、ある日から突然のようにパタっと辞めてしまったのですが、それから約1年が経過しましたね。

最近また少しずつ、心静かに目を閉じている時間が増えて来たように思います。とは言っても、瞑想ではないのです。

思考がやってきてもそのままにしているし、ただ今気になっている色々なことをその都度確認したりしているのです。

それでも身体は瞑想と勘違いするらしく、やっぱりあの気持ちよさはやって来てくれるわけです。けれども、その時の気持ちが全然違う。

過去はこれがチャンスとばかりに、もっともっとこの状態が続けばいいのにと思っていたのですが、今はそこはどうでも良くなりました。

一時的に起きるどんな良い状態であれ、それは単なる状態であってずっと続くこともないし、単なる身体の気持ちよさなんですね。

身体の状態に一喜一憂することがなくなった分だけ、とても楽になれました。自分の中での覚醒の定義も完全に変わってしまったようです。

今はとにかく幻想を見抜くというところにフォーカスが移っているようで、しぶとい信念などを溶かしていく工夫をしています。

身体の制限を断ち切る

10年以上も前のことですが、多くのクライアントさんに対して自分はどこにいる感じがしますか?という質問をしていたことがありました。

全ての人が自分の身体の近辺にいると答えてくれました。そのうちの多くの人は、身体の内側にいるのだと。

身体の内側と言っても、頭の中だとか目の奥だとか、あるいはハートの辺り、そして身体中全体に充満しているという人もいたかなと。

そしてごく一部の人は、身体の周りに浮いているなどの表現をしていたのを覚えています。これが何を意味するのか?

それは幼い頃に自分は身体なんだということをあらゆる方法で、教えられて育ったということなんですね。

だからこそ、身体の辺りに自分はいるんだという漠然とした感覚を持つようになったということですね。

それぞれに微妙に答えが違うのは、もっと詳しい情報を教えてもらうことがなかったせいなのです。なぜなら、親もそこまでの情報を持っていなかったから。

というよりも、自分の存在を身体と結びつけていること自体が思考による幻想なのですから、仕方のないことですね。

今私のもっぱらの興味は、どうやったらこの身体という偽りのものとの関係を断ち切ることができるかということに向いているのです。

この強烈な思い込みが取れていく段階で、とても面白いことが色々起きそうで、とても楽しみにしています。 

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

現れはバラバラに起きているように見える

非二元の話をする時には、我々の五感の感覚は全て現れとして起きているというように表現することにしています。

例えば、床屋さんに行って髪を切ってもらうときに、髪を切られている体感と、その時に聞こえるハサミの音とがうまく連動しているように感じます。

けれども、何かの現れとまた別の現れとがうまく連動して現れるなんてことはないはずと感じるのですね。

髪を切ってもらいながらも、その不思議を感じていたのですが、これはきっと連動して起きているのではないなと。

単に、髪を切ってもらうことによる体感覚と髪を切る時のハサミの音とを別々の現れだと勝手に思い込んでいたということ。

つまり、それはバラバラの現れではなくて、一つの現れに過ぎなかったのではないかなと。そう思うと辻褄が合うのです。

五感のうちでも、視覚や聴覚と触覚、あるいは思考や感情と体感覚などを違う種類の現れだと勝手に解釈していただけなのかも。

こういった思考による思い込みはかなりしつこくて、あらゆる体験をその瞬間の一つものとして捉えることが難しいのですね。

自分は個人じゃなかった、体験そのものだった

そうなったら、どんな瞬間であろうと、そこで何が起きていようと、それはもう受容以外がなくなってしまう感じがする。

これ、なかなか敷居が高いなと思っていたのですが、どうも個人のままでもその感覚をちょっとだけ得ることはできるなと。

もちろん自我がいるので、このままでは済まないのは分かっているのですが、それでもこれはかなりいい感じのヒントにはなるなと。

非二元によって、体験主体と体験と体験される対象の三つ巴だったものが、そのうちの体験主体と体験される対象が消えて、体験だけが残るのだと。

つまり、しつこく言い続けて来た「体験だけがある」というところに落ち着くのだけれど、それは純粋な気づきとイコールだったんだなと。

正確な表現ではないけれど、本当のわたしは全ての体験の受け皿だったんだという感じがするのですね。

別の表現を使うと、あらゆる体験が起こる空間、あるいはダグラス・ハーディングの言い方をすれば、体験が起こる受容能力だったと。

この気づきは本当に大きいかもしれません。

ーーーーーーーーーーーーー

個人という嘘に気づけばいいだけ

最近になって、ようやく「非二元」という言葉の意味がはっきりと分かるようになってきましたね。

これまでは、物質には実体がないということに気づいた時には、これって世の中では何と呼ばれている世界観なんだろうなと。

それでふと思い出したのが、非二元だったのです。10年以上前に非二元のスピーカーさんらの本を何冊か読んでいたので、ピンときたわけです。

けれども、自分が体験したことが本当に世の中で言われているような非二元とマッチしているのかどうかは定かではありませんでした。

それでも、何かコレに名称をつけないといけないということで、非二元が一番近いのかなと思ってそう呼ぶことにしたのです。

ところが、深く探っていく間に、コレこそが非二元だったのだなということに気づくことができたのです。

そしてその感覚も明確になりました。今では「何もない!」というところに重きを置く代わりに、常に気づいている気づきの方が主役なんだと。

少し前までは夢も希望もなく、殺伐としてしまったなと思っていたのですが、今は完全に救われていることが分かります。

こんなにコロコロ変わってしまうのも問題かなとも思うですが、でも仕方ありません。実際にそうなのですから。

苦しみから解放されるために

ブッダの言葉なのか、仏教の教義なのか分かりませんが、「人生は苦しみだ」というのがあると聞いています。

私も全く同感であって、だからこそそこから脱出するために瞑想をしてみたり、色々な探究を続けてきたわけです。

心の癒しというのは、あまりに苦し過ぎる状態からごく当たり前の苦しみのレベルにまで戻ってもらおうとするものなのですね。

セッションを通して苦しみがなくなるということは期待していませんし、いいことばかりが起きるようになるなんてこともありません。

癒しというのは冷静になっていただくためのもの、探究を始めるための下準備的な位置付けなのです。

もちろん癒しだけで人生が終わってしまっても、何の問題もないのですが、その先があると感じている人にとっては、まだ探究が残っていると感じるわけです。

その場合の目的とは、真理の探求というよりは、真理に目覚めることで個人として生きている我々の終わることのない苦しみを消滅させることなのです。

それは分離という幻想からやってくる、不安や孤独感、そしてそこから派生する比較による苦しみ。こう言ったものが本当はなかったと見抜くこと。

長らく覚醒することを目指していたのですが、それに代わって上記のように幻想からくる苦しみを解放できればいいなと思うようになりましたね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。