自分を身体だと信じているフシがある

非二元の気づきによって、物質の実体はないということが明確になったのです。ということは、自分の肉体も同様にその実体はないのだと。

ただその見かけ、現れだけがあるということです。そう言えば、この身体の形が瞬間ごとに変化しているのが分かります。

その自己イメージとは違って、首から上は常にないのです。自分は人間ではないので、別にどうってことはないかと。

そのくせ、身体の中にいるという感覚がなくならないのが不思議なのです。この身体には通常背中もないので、中に入るような容器の形をしていないのです。

そう言えば、イメージで身体の中に、ふわっとした塊のようなものとして自分(の魂)が存在している感じがあるかもしれません。

視覚を意識すると、目の奥の脳の中にいるという感覚もやってきたりします。どれもイメージ、観念でしかないのは明白なのですが。

身体の中、あるいは近くに自分はいると感じているのなら、自分のことを物質だと信じていることになるわけですね。

そうじゃないと言っている自分もいるようですが、物質でなければ位置や大きさがないので、移動もできません。

そうなると局所性が消えてしまうので、私の経験とあなたの経験が違うなどというトンチンカンなことも言えなくなるわけです。

ではなぜ自分は、物質である身体といつも紐づけられているのか?こう言ったことを、一つひとつゆっくりと解いていくのがとても楽しいですね。

荒削りだったけど…

この仕事を始めた頃ですから、かれこれもう20数年前になりますが、なぜだかわかりませんがふと思ったことがあったのです。

それは、「存在」ってなんだろうということです。元々そういうことを考えることが好きだったのが、きっと会社員の頃と比べて格段に時間や気持ちに余裕ができたからなのでしょうね。

そして自分なりに出した答えは、「存在とは知覚すること」だったのです。その時は、我ながら的を射た答えだなと。

今から思うとだいぶ荒削りな感じがしますが、それでも外側の世界にある物質というのは自分の知覚とくっついているということを見抜いていたわけです。

今ではそれがもっともっと明確になったし、もう少し精度を上げて表現すれば、知覚と物質の見かけ(現れ)は一つものだということです。

つまり、物質の存在というものはなかったということになります。さらに言えば、知覚は気づきと同義語なので、結果として存在とは気づきだったのだと。

もう一つ、面白いことを思い出しました。その頃、とある女性のクライアントさんとそんな話になったのです。

もうその人のことは完全に忘れてしまったのですが、その人に我々の本質ってなんだと思いますか?と質問したら、意識だと答えたのです。

ついでに、ものの存在ってなんだと思いますか?という質問に対しても、知覚することだと答えてくれたのです。

そういうことに直観的に気づいている人っているんですね。

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今の自分にやれることをやるだけ

非二元の探求をやっている時に、最後まで残る矛盾というのがあるのですが、それは誰もいないのに誰が探求をしているのかということです。

このような問いが浮かんできた時に、いくつか言えることがあるのですが、一つは非二元というのは単なる概念だということ。

二元の世界で生きているつもりになっている自分からすれば、非二元というのは概念に違いなのです。

それと二元の世界で生きているつもりになっているわけですから、今自分がいる場所からスタートさせなければなりません。

だから、この自分がいると思える限りにおいては、いる場所から探求を開始する以外に方法がないのです。

それ以外に方法を思いつくことができないのですね。そして結局のところ、探求しているこの私がいる限り、真実を体験することはできません。

なぜなら、この私は幻想の世界の住人だからです。ここにも大きな矛盾が存在していますが、だからと言って諦めるわけにはいかないのです。

そして最終的には、今の自分に解決の目処がつかなくても、いずれは自然の成り行きによってこの世界の全てが気づきそのものだったという地点に行くことになるのかなと。

非二元で視点がないとは?

非二元の話の中で、時々出てくる事柄として「視点がない」というのがありますね。いやいや簡単に言うけど、視点なき視覚なんて想像を絶するけどと思われても仕方ないことです。

でも色々調べていくうちに、やっぱり視点はなかったんだなというところに落ち着いてしまうのです。

というのも、この二元の世界では自分という主体が外側に広がっている空間内に存在する対象物を見てるという感覚があるわけです。

だから、どう考えても何かを見る時には、この身体、この肉眼が存在する場所から向こう側を見ているので、そこには視点が必ず存在すると感じるのです。

けれども、もしも視覚という経験が起きている時には必ず気づきも同時にあるという点に気づけば、今度は気づきの視点へと移行できるのです。

それなら気づきの視点がどこにあるのかを見てみると、気づきには位置というものが存在しないのは明白です。

その結果、我々が日常的に感じている視点が妄想だったことがバレて、代わりに主体として対象物を見ていた自分も、気づきの視点からすれば一種の対象となってしまうのです。

この瞬間、気づきと視覚(経験)と対象(現れ)のすべてが一つモノであったんだと。これが非二元なのですね。

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比較がなければ苦しまない

私たちは1日のうちで一体どれくら比較ということを繰り返しているでしょうか?きっと予想よりはるかに多いのではないかと思うのです。

比較にもいろいろありますが、たとえば、自分の期待値と現実の比較。これは、その落差が惨めさに繋がるのです。

あるいは、自分の内面においての理想の自分像と現実の自分の比較、これは単に惨めなだけではなくて確実に自己否定が発生します。

そして一番多い定番としては、自分と他人の比較です。外見から始まって、学校の成績や運動能力。

学歴や裕福さ加減だったり、所有物や身につけるもの、職場での評価や場合によっては互いのパートナーでさえ比較の対象になったりします。

そしてなぜ比較をすると苦しみが生まれるかといえば、どんな人であれあらゆる比較で希望通りの結果になるなんてことは決してないからです。

比較によって都合のいい結果が出ると、一時的な安心を得ることはできるのですが、幸せになるというわけではありません。

それならそもそも比較をしなければいいのですが、そこはなんと言っても不安を解消して安心したいという気持ちが強いので、おいそれとやめられないのです。

もしもあなたが抱えている不安をそのままにして、傍において相手にせずにいられるなら比較をする頻度が減ってくるはずです。

そうなったら、日々抱えている精神的な苦しみの多くは消えていってしまうはずですね。生に抵抗することをやめてしまうことでも、比較は影を潜めてしまうでしょうね。

全ては無駄ではなかった

非二元の気づきがやってくるまでの間、結構長きに渡ると思うのですが、ずっと純粋な意識こそが自分の本質だということを言ってきました。

その本質に気づくために、瞑想を続けてきたのですね。瞑想によって、マインドの奥底に隠されている真の自己、つまりは気づきに気づけるかもしれないと。

そのことによって、自我としての自分の苦しみから永遠に解放されるはずだと信じていたわけですね。

ところが、そこに非二元の気づきがやってきて、それはもう驚愕の事実だったのです。自分の正体が気づきだということよりも、この世界この宇宙が丸ごと幻想だと気づいたのですから。

そうなったら、もうそのことをただ追求していきたくなって、瞑想もやめてしまいました。癒しの仕事は問題なく続けて行くことができたのですが。

そして、全てが現れであって、それへの気づきが常に共にあるのだと。ただここで、ふと気づいたのです。

あれ、これって一周して戻ってきたんじゃないかなって。そうなんですね。瞑想をして気づきに気づこうとしていたのは間違っていなかったんだと。

そんなわけで、この一周は自分にとってとても大きな経験になったように感じています。非二元の気づき前と後が融合したみたいな感じです。

全ては無駄ではなかったということです。

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「気づき」によって救われる?

意識というのは、脳の機能によって作り出されるモノだと、きっとほとんどの人はなんとなくそう考えているのでしょうね。

脳、つまりは身体の一部によって生み出されるモノということです。だから、身体が自分の一部だと感じても不思議ではありません。

その一方で、意識というのは物理的な身体や精神的な心などを超えたところにある何かだと感じている人も中にはいるはずです。

私はこれまでずっと後者の感覚を持って生きてきました。もちろん今もそこは変わらないのです。

そして今ではもう確信になってしまっています。ただ、意識という言葉にはさまざまな意味合いが込められていて、間違った意味で伝わってしまう可能性が高いのです。

だから、今は敢えて意識という言葉よりも、「気づき」という表現の方を選んで使うようにしています。

たとえば、非二元的なことを言えば、今ここにあるコレというのは、全てが現れであると同時に、それへの気づきでもあると。

目の前にあるリンゴを見て、そこにリンゴがあると分かるためには、気づきがどうしても必要となるのです。

目で見るという視覚だけでは、リンゴを見ているということに気づくことができないからです。

人間以外の動物には、この気づきがないので、ワンちゃんは今目の前にある餌を食べていると自覚することはできないのですね。

我々も何かに夢中になっていたりすると、いわゆる無意識状態になってしまうので、気づきはあるものの気づいていない状態に一時的になるわけです。

逆に、私はただ在るということに気づいていられるなら、幻想から脱出して自分の真実に戻ることができるかもしれないですね。

視覚は実体を掴めない

生まれつき全盲のある人が、大人になって初めて白内障の手術を受けることになって、目が見えるようになったのです。

これは実際にあった話なのですが、その人は初めて自分の目の前に置いてあるあるものを見ても、それが何なのかは分からなかったのです。

ところが、その目の前にあるものを手で触れた瞬間に、これは◯◯だと分かったのです。これってどういうことか理解できますか?

つまりその人は長いこと、モノに触れることで、それが何なのかを知るという経験を繰り返して生きてきたわけです。

私たちが何かを認識する場合、長い間の経験によって蓄えられたデータベースと今この瞬間に知覚から入ってきた情報の両方の突き合わせが必要だったということ。

触覚では経験していたものが、視覚ではそれがなかったために、見えてはいるのに何を見ているかが分からなかったわけです。

視覚というのは、単に色、形、大きさ、光の具合、そう言ったものの情報だけを受け取るということです。

繰り返しますが、視覚情報だけではそれがなんなのかという認識はできないということです。このことを理解できれば、次のことも分かるはずです。

何かというと、視覚情報だけでは見えているモノに実体があるかどうかは分からないということです。

なぜなら、色、形、大きさ、光の具合などは単なる見た目の情報だけだからです。これで分かったと思いますが。

何かを見た(視覚)だけでは、その対象物の実体があるかどうかは分からないということ。ここに気づくことができると、非二元の方に入っていくときの抵抗が少なくなると思いますね。

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自分の気分も現れの一部

誰でもそうなのかもしれないですが、自分はこの自分の今この瞬間の気分にものすごく強い影響を受けてしまうなあと。

一応いい年齢ですし、大人ですから自分の内なる気分をそのまま外側に出すようなことはしないつもりではいるのですが。

ただ自分では気付かぬうちに、きっと気分の良し悪しが人との関係の中で滲み出てしまっているのかもしれないなと。

だからこそ、自分の気分がいい状態のままでいられるようにしたいと常々思っているし、そのためにはどうしたらいいのかなということも考えているわけです。

一番シンプルなのは、自分にとって都合の悪いことが起きなければ、当然気分も悪くはならないので問題ないのですが、そんな都合のいい人生なんてありえません。

じゃあどうしたらいいのかなと。これまでは、気分が悪くなる原因を特定して、そこになるべく影響されないような工夫をしたりしていたのです。

けれども、そんなことを根底から覆すような気づきがやってきました。それは、自分の気分というものも外界で何が起きるのかと同等だということ。

つまり、周りで勝手に(全自動で)起き続けている現れとまったく同じだったのだと。自分の内側にあると感じていた気分も勝手に(全自動で)起きる単なる現れだったのだと。

そう、たったそれだけのことだったのです。気分をなんとかしようとするその思考すら、ただの現れに過ぎなかったということです。

ということで、自分は個人で自分の気分に影響されてしまうという思考すら、現れだったわけですから、もう全てがOKなんですね。

「在る」は決してなくならない

今日アップした動画のタイトルが、『「私」がいるという感じが取れない』というものなのですが、この動画の内容に関連したことを少し書こうと思います。

実は、この動画は3週間くらい前に撮影したものなのですが、内容としてはこれまでに色々と真理に気づいてきたはずなのに、個人としての私がいるという感覚がしぶとく残っているというものです。

それ以外のことは、びっくりしながらも概ね腹落ちしてきたのです。ものには実体がないとか、時空も幻想だとか。

ただし、私がいるというこの一点がしぶとく感覚として残ってしまっているということ。ところがです。

この数日の間に明確になったことがあるのですが、それはこの「私がいる」という感覚は、ただ在るという感覚を自我が横取りしていたものだったのだろうと。

「在る」というのは、何かが在るということではなく、ただ在るということ。この感覚自体は、なくなることはなくて良かったのだと気づいたのです。

簡単に言えば、意識とか気づきと表現できるものです。ただ、意識と言ってしまうと誰かの意識というニュアンスが出てしまうので、ただの気づきという方がいいかもしれませんが。

「いる」のではなく、「在る」というのはかなり昔からずっと扱ってきた命題だったのですが、それが今になって花開いた感じです。

「在る」は決してなくならないということですね。

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