まずは内的世界を探求する

私たちは誰でも自分の非常にプライベートな内的世界で生きているのです。私はそれを小さい頃からなんとなく感じていました。

人によっては、そのことにあまり気づかずに生活している場合もあるでしょう。けれども、気づいているかどうかの違いがあるだけで、実際には皆が同じ状態にあるのです。

自分の内的世界以外のことは知ることができません。互いにそれを知ることも決してできないことは明白です。

私たちにできることは、類推することだけ。きっとこうに違いないとか、自分もこうだったので、あなたも同じだろうということです。

それを知っているとするのは間違いなのです。だからそこはもうキッパリと諦めること。一人ひとりの内的世界が交わることはないのですから。

その代わりに内的世界をしっかり見つめ直すのです。自分が生きているプライベート世界とはどんなものなのか。

そしてそのプライベートな世界、空間を探求し続けていると、今度はその中にこの宇宙の全てが含まれているという感覚がやってきます。

そうして、自分は個人ではなかったと気づくのです。これは、たった一人孤独の中で瞑想しているうちに、全体性へと変化していくことに似ています。

内的世界だと思い込んでいたのは自我であり、見つめ続けるうちに自我が小さくなって、その結果内側も外側も消えてしまうのですね。

人の目を恐れるな

自我が芽生えるまでは、誰もがある意味、純粋な動物のような生き方をしていたのですが、自我と共に私たちは「他人から見られる存在」へと変化してしまったのです。

自我がない時には、見られる自分がいないので、世界と一体で生きているのです。それが、なんと残念なことに自我と共に周囲から見られる存在に落とし込まれたのです。

それからが地獄の人生の始まりというわけです。そうなると、他人からどう見られるのかが気になって仕方なくなったのです。

もちろん、あまり気にならない人もいれば、ものすごく人の目が気になってしまうタイプの人もいます。

後者の人の場合は、大抵がいわゆるHSP の人、つまり過度に敏感な気質を持っている人であることが多いでしょうね。

かつてこのブログでも書いたことがありましたが、オーストラリアのホスピスで死にゆく人々への「一番後悔していることは?」というアンケートを取った時のこと。

その結果、「他人の目を気にしてやりたいことをやらなかったこと」がダントツ一位に輝いたのでした。

人にどう思われるか、どう見られているのかを気にするあまり、自分に正直な生き方ができなかったことへの後悔を、多くの人が持っているということですね。

見られる存在としての自我として生きているのですが、それでも他人からの評価ほど当てにならない、バカバカしいものはないという理解ができるといいですね。

全体性が消えなくなる

瞑想と言うと何となく難しそうで気が乗らなくなるかも知れないので、ただ少しの時間静かに坐していようとするのです。

しばらくするとマインドが色々働きかけて来て、今そこに座って瞑想しようとしてるんだねとか、身体の体勢などのイメージも送ってこようとします。

いつものことなので、それと闘おうとせずにそのままにしておくのです。すると身体とは全く無関係の意識だけが際立ってくるのです。

そうすると身体でもマインドでもない、ただ気づいていると言う状態になって、個人でも日本人でも誰でもない感覚が目立ってくるのです。

あらゆる概念から解放されることで、大きさや形という空間もなく、時間もなくただ在るだけになってきます。

それでも時々マインドが疑いを投げかけて来るのですが、それはマインドが置き去りにされて、消えそうになるのを恐れているからなのですね。

知識が何の役にも立たず、過去も未来も消えて行くと同時にマインド自体も消えそうになるのを恐れて暴れ出そうとするのです。

もしもそうなっていきなり目を開けてしまったら、このプロセス全体が正しい方向に行っていたことを物語っているので、喜んだ方がいいですね。

そうしてまたマインドに呑み込まれたとしても、あの誰でもない感覚は残ってくれるので、また次もすぐにノーマインドの状態へと入って行きやすくなるのです。

そしていつどんな時であっても、概念から解放された全体性の感覚と共に生きる事ができるようになるのです。これに勝るものはありません。

セラピーは人を選ぶ(不本意ながら)

長年セラピーの仕事をしていると、私の仕事がいかに間口が狭いかを思い知らされることがあります。

つまり私のセッションにいらして、それなりの効果を期待できる人の枠が結構狭いということです。

例えば、幼い子供の場合は基本的には無理だし、年輩の方も難しいというイメージがあります。もちろん一概には言えないのですが。

誰かに連れて来られたクライアントさんは、ほとんど絶望的だし、若い人の場合も癒しに興味を持ってもらえないことが多いので、セッションは無駄に終わります。

それから、心の奥底では癒しを必要としているために、セッションにいらっしゃるのに、表面意識では自分は癒されているという自覚を持っている方もいるのです。

ご本人の中ではきっと辻褄が合っているのだろうけれど、一目でまだ準備ができていないのだろうなと分かります。

結局、私のセッションが通用するのは、ある程度の年齢の中にあって、なおかつ癒しにある程度興味を持っている方ということになるのです。

これって、随分と狭き門だなと我ながら思うのです。それでも、セッションの内容からして仕方のないことだとも理解しています。

麻酔で眠っている間に処理してもらえる外科的手術のようにはいかないのです。だからこそ、様々な気づきもやってくるのですけどね。

静寂はなくならない

普段の生活の中で芸術に触れる機会がほとんどないのですが、音楽だけはいつも何処かで流れているし、意識的にも無意識的にも聴いているのです。

一つの曲が始まる前には静寂がありますね。そして曲がスタートし、そこで色々なことが起きつつ、最後はその曲が終わってまた静寂に戻るのです。

長い曲や短い曲。穏やかな曲や激しい曲。色々ですが、どんな曲であろうとこの手順に違いはありません。

いつも根っこにあるのは静寂なのです。だから静寂だけが不変だとも言えますね。これって私たちの人生とも通じるものがあります。

生まれる前には静寂があり、生まれてから様々なことが起きて、紆余曲折があって最後は死んでまた静寂に戻るのです。

静寂と静寂の間のつかの間の出来事、それが人生というものです。私たちにとっては人生がメインですが、本質的な観点で見れば静寂の方が圧倒的にメインかも知れません。

その静寂を、人生というプロセスの中においても意識できると、静寂という永遠の観点から人生を見ることができるのです。

それは人生の主役の座から、それを見守る側へとシフトすることを意味します。一瞬のプロセスよりも永遠の方が、より本質的な感じがしませんか?

思考中毒から抜ける

頭がグルグルと動き続けて、少しも休まることがないという人がいますが、それは薬物中毒患者と同じようなものです。

何中毒か?というと思考中毒なのです。思考がなければ生きていけないような状態になってしまっているのです。

常に何かを考えている状態。それ以外でいられることもあったはずなのに、それをもうすっかり忘れてしまったのです。

アルコール中毒の人にとって、子供時代のお酒を必要としない頃をもう思い出せなくなっているのに近いですね。

思考中毒になってしまう理由は簡単です。それは自己防衛を途切れることなく続けることで中毒化してしまうのです。

全てではありませんが、思考は防衛には欠くことのできないものだからです。それと、「私」という自我そのものが思考により作られているということもあるでしょうね。

思考を目の仇にする必要はありませんが、思考から解放されている時間を持たなければ、思考中毒となって人生はボロボロになってしまいます。

思考から離れるためには、思考を見るという練習をすることです。思考はあなたの本質とは違うものだという前提に立って生きること。

思考から離れた時には、この世界も自分自身も違ったものとして見えるようになるでしょうね。

学問と宗教の違い

哲学や社会学、心理学等々、ありとあらゆる学問がこの世界には普及していますが、そうした◯◯学は主観を超えることができないのです。

学問はマインドの努力によるものだからです。私たちはそうした◯◯学を、私たちのマインドによって育ててきたのです。

つまりは、学問によってマインドの外側に赴くことは不可能なことなのです。だから学問をどれほど高度に追求しても、マインドの範疇だということ。

それが悪いと言っているのではなく、学問とはそういうものだという認識をしておく必要があるということです。

哲学者や心理学者が決して覚醒できない理由はそこにあります。それはもう明白なことですね。

一方、宗教はまったく違います。宗教と言っても、いわゆる宗教ではなく、真の宗教のことです。

それは、初めからマインドを使わないように仕向けられるし、マインドを超えていく術を教えてくれるものなのですから。

そこで初めて、真の己の姿を垣間見ることもできるのですね。

死というのは自我のもの

私たちの誰もが、死は忌まわしいものだと思っているし、死ぬことを考えると恐ろしくもなるのです。

それは間違ってはいないと思うのです。なぜなら死がやってくるのは自我にとってのことなのですから。

確かに自我は死ぬのです。言い方を変えれば、死というのは自我のものだということですね。

肉体の死とともに、自我を形成している思考群が肉体との関連を絶ち、単なるエネルギーとなって次なる肉体へと移っていくのです。

つまり自我と自己を同一視している限りにおいては、死を恐れ続けることになるのは当然のことなのです。

ということは、自我との同一視に気づき、その本質に目覚めることができるなら、死は全くもって意味を失うことになるはずです。

死が怖くなくなるというのではなく、死はあり得ないということに気づくようになるということです。

そうなったら、同時に人生という物語も消えてしまうはずです。それは自我にはイメージしづらいはずですね。

感情を味わうことが人生を助ける

きっと多くの人は体験したことがないので知らないことだと思うのですが、充分に感情を味わい尽くすと、えっ?と思うようなことが起きます。

それは例えば、どれほど自分に言い聞かせても変えることができなかったことなどが、勝手に変わっていくのです。

自分の考え方の癖や生き方など、それがどれほど不便で理不尽なことであったとしても、簡単には変わらないのが人間の常ですね。

つまり、理性ではどうしようもないことを私たちは知っています。ところが、まったく関係のないと思われる過去の感情をしっかり味わうだけで、変化は勝手に起きてくるのです。

それはとても不思議な感じがするはずです。例えば、私自身の経験で言うと、自分は悪くないという幼い頃の怒りを何度も味わったことがあるのです。

その結果、翌日には人との間に作ってしまっていた対立が勝手に取れてしまったのです。もちろん、取れるまではそんな対立があったことも知りませんでした。

あるいは、得体の知れない過去の感情をただ味わっただけで、それまでより自然体でいられるようになったことがありました。

その結果、歩く速度がゆっくりになり、前のめりだった体の重心が、踵の方へと移動したのを感じたことがありました。

このように、その感情を味わったことと、その結果にどのような関連性があるのかはすぐには理解できないくらい不思議なのです。

けれども、実際にはじっくり見つめていくと、そこには確かに関連性があると分かるのです。

そして、考え方や思い、あるいは生き方を頑なにしてしまっている張本人は、感情だったと言うことが分かったのです。

思考をぐるぐる巻きにして、岩のように硬いものにしていたのは感情だったのです。だから、理屈抜きに感情を味わうことがとても大切なことなのだと気づいたのですね。

癒しの自己矛盾について

セラピストとして日々取り組んでいる心の癒しというのは、実のところ決定的とも言える自己矛盾を抱えているのです。

その矛盾とは何かというと、癒しというのは一般的にはマインド(自我)の癒しのことを指すのです。

自我はその成り立ちからして満ち足りるということができません。なぜなら自我の原動力というのは、不安や孤独を安心に変えようとすることなのです。

安心を得ようとして多大な防衛を続けることで、自己犠牲を重ね、精神を病んでしまうことになるのです。

その精神的病みを少しでも正常な状態へと戻そうとすることこそが、癒しの目的なのです。

ということは、癒しを続けて行った先にあるのは、自我の原動力を削いでしまうことに繋がることは容易に想像できるのです。

つまり、自我を癒していくことは、自我の活動を終わらせてしまうことにつながっているということです。それを自己矛盾と呼んだのです。

だから癒しを程々にして、ある程度の心の健康を維持できるようになったなら、それからは癒しよりも自分の本質を探求するようにするべきだと思うのです。

もちろん最初から、癒しと探求を同時に進めていくことも可能ですが、いずれにしても人生のどこかで、本質の方に目を向けるように意識変革が起きることを願っています。