「池の水を全部抜く」ごとく

事務所の近くに井の頭公園という、比較的大きな公園があるのですが、何年か前にそこの池の水を全部抜くという、大きなイベントがあったのです。

その目的はよく知りませんが、スッポンが生息していたり、結構意外な生き物が見つかったと聞いています。

それと、まったく褒められたことではないのですが、たくさんの自転車やその他の大きな金物も捨てられていたことが判明しました。

池の水の中というのは、外側からは見えないですから、それをいいことにゴミ箱のように邪魔なものを放り込んでしまうのです。

これって都合の悪いことを意識下へ隠してしまう、私たちのマインドの機能ととても似ているように感じてしまいます。

池の水は抜いてしまえば、そこに内包されていた全てが白日の元に晒されることになるのですが、マインドの場合はそう簡単にはいきません。

目に見えるものでもないし、まったくプライベートな領域のことなので、他人がそこに手を入れることはできません。

けれども、それを粛々と進めていくのが癒しなのです。癒しというのは、不都合なために隠してきた感情や思いの記憶、こうしたものに光を当てること。

そのことで不自由な生き方を自分に強いてしまった人生を、元に戻すことができるようになるのですね。

内面の静寂の存在に気づく

自分の内面、心が比較的ゆったりと静かな時もある一方で、反対にざわざわ騒がしい時もあります。

それ以外にも様々な状況を呈する自分の内面、そのどれもが自分の心で起こっていることだという認識がありますね。

では心自体というのはどんなものでしょうか?私のイメージでは、あらゆることが起きる容器のようなものだと。

つまり本当の自分の内面というのは、あらゆる精神的現象が起きる容器、場であるということ。

だから何も起きなければ、そこにはただ静寂だけが残るのです。その静寂、容器こそが私たちの本質なのだろうなと。

それなのに、いつもいつも何かを考えてばかりだったり、激しい感情の嵐に飲み込まれてしまえば、静寂は隠されてしまうのです。

それが忙しく生活している私たちの現実なのではないでしょうか?それでは、正気でいられるはずがありません。

一日数分でもいいので、心静かに座すことです。初めのうちは、どんな効果も感じられないかもしれません。

けれども、そのうち少しずつですが、内面の静寂という私たちの本質のフレーバーを感じられるようになるはずです。

どんな人の内面にも、共通する静寂が隠されています。少なくともそれを知るまでは、人生でどんな偉業を成し遂げたとしてもまだ中途半端だと理解することですね。

求めているのは永遠

いつの頃からなのか、私の人生観の根底にあるものがはっきりしたのですが、それは全ては一過性であるということです。

何かしらの試練がやってきていると思っても、いずれは終わる時が必ずやってくるということを見るのです。

どれほど楽しい時を過ごしていようと、これもいつまでも続くものではないということを知りつつ楽しむのです。

もちろん当たり前のことと言えばその通りなのですが、ただそのことを強く意識できるようになったということですね。

子供の頃から自分の中にあった思いというのは、なんであれ早く過ぎ去ればいいというものです。

いつまでも続いて欲しいと思ったことが正直ないのかもしれません。これは不思議なことだと自分でも感じるのですが。

この早く過ぎ去れ!という願望と、全ては一過性という思いは、どこかで繋がっていて、それはこの生が本物ではないと感じているからなのかもしれません。

凄く嬉しい体験をしているときに、一般的にこれが夢だったらずっと醒めずにいて欲しいと思うのかもしれませんが…。

私の場合はそれでもどんどん先へ進んで欲しいのです。そして終わって欲しいと願っているのかもしれません。

死にたいのではなく、終わりにしたいということです。なぜなら、死んでもまた次がやってくるという感覚を持っているからでしょうね。

物語が終われば、そこからは永遠がやってくるという感覚でしょうか。

親の安心が子供の人生を守る

息子がまだ小中学生の頃、彼の部屋には物が溢れていて、足の踏み場がないという表現がピッタリでした。

どうやって部屋の奥にあるベッドまでたどり着くのだろうと不思議だったくらいですが、あまり気にはなりませんでした。

結婚して普通の生活をしているようなので、心配する必要はなかったのですが、その当時はきっと彼の頭の中は思考でいっぱいだったのでしょうね。

いろいろなことに興味があって、お年玉などはその日のうちに全部使うし、貯金するなどという考えは、ひとかけらもなかったのです。

欲しいものは何としても手に入れるようなタイプだったのです。そうした積極的な生き方も、大人になっていい方向に向かったようなのです。

というのも、自分で計画して大きな買い物であるマンションを買ったり、または売ったりして独自のやり方で人生を進めているからです。

子育て中の親の目線からすると、子供の言動や考えに対して、こんなんで大丈夫なのかとつい心配して気を揉んでしまうのです。

けれども、心配し過ぎて口出しするよりも、ゆったりと余裕を持って見守るという姿勢がとても大切なのだなと思うのです。

そういった親の安心のエネルギーが、結局は子供の人生を守ることになるのではないかと感じています。

たった独り歩む孤独な旅

よく人生を旅に例えて表現することがありますね。目的もなくふらっと出かける気軽な一人旅なのか、大勢でワイワイ言いながらの楽しい旅なのか。

はたまた、険しい道をたった独りで進まねばならない孤独な旅なのか。あなたの人生は、どんな旅に例えたら一番しっくりくるでしょうか?

どんな旅の人生が正解なのかということはないと思っています。どんな旅であろうと、それがその人にとってきっと必要な旅なのでしょうから。

私の場合は、確実に言えることとして、みんなでワイワイ型の旅ではないことは明白です。

なぜなら、ほぼほぼ友達もいないし、この人生で知り合った人々もそれほど多くはないような気がしています。

一緒にいたい人と気楽に過ごす旅の要素は確かにあるのですが、それでもそれはやっぱり表面的なものだと感じます。

根っこのところでは、たった独りで歩む孤独な旅を続けていることは間違いありません。本当は誰もがそうだと思うのですが、それは自覚があるかないかの違い。

旅を人と共有してるように感じるのは、表面的な部分に過ぎないのです。本当は、誰もがたった独り在るのですから。

それをしっかり認めた上で、残りの旅をして行けたらいいなと思うのです。

将来の夢を持てない子だっている

今思うと、かなり幼い頃からこの世の中に絶望していたと思われる節があるのです。その絶望がどこからやってきたものかは、いまだに分からないのですが。

原因は不明ではあるのですが、自分の将来に対する夢や期待が全くなかったことからも、絶望していたことは明らかなのです。

小学生の頃に、父親から大人になったら何になりたいのか?を聞かれた時に、馬鹿正直に「楽隠居」と答えたのをはっきり覚えています。

さすがに父親はもう呆れ顔になってしまって、ちょっと可哀想なことをしたかなと思ったりしたのです。

立派な大人に成長して、社会で活躍しようという願望も意欲も全くありませんでしたので、仕方のないことですね。

だからなのか、子供に対して大人が「将来何になりたいの?」と聞いている場面を見かけたりすると、あまりいい気持ちがしないのです。

子供なりに考えて、それらしい回答をするのを見ても、君は本当にそんなことを思って毎日生きているの?と疑ってしまうのです。

友人から聞いた話ですが、幼稚園の頃、先生に将来何になりたいかを聞かれて、正直に「ゾウになりたい」と言ったら、それは違うでしょとたしなめられたとか。

私が仮にその先生だったとしたら、その子の気持ちを100%受け止めてあげられたのになあと正直思うのです。 

記憶の中の自分は実在しない

昨日のブログで、記憶というのは生きていく上で本質的に必要なものではないという事を書きましたが、それに関連した話題です。

私たちは自分が誰かと言う問いに対して、全面的に記憶に頼っているのです。これまでこう言う人生を生きてきたのが自分だと思い込んでいるからです。

もしも記憶を使わないなら、自分のことをどのようにも説明する事が出来なくなってしまいます。これって何だか変だと思いませんか?

自分というかけがえのない唯一無二の存在が、本質的ではない記憶の中にしか見出す事が出来ないなんて。

記憶とは思考が取り扱う過去のデータに過ぎない一方で、生身の自分は今この瞬間に確かにいると感じているものです。

さてこの矛盾をどう取り扱えばいいのでしょう?それはそんなに難しい事ではありません。記憶の中の自分はただのデータであって実在しない事を認めること。

そしてどれほど表現が難しくても、今この瞬間の自分だけが実在するということを理解するのです。これでは自分とは誰かを説明出来ないのですが、それを受容するのです。

そうして初めて、自分は誰でも無いということに気づく事が出来るのです。それがあなたの本性なのですね。

過去の中のあなたも未来のあなたも共に、ただの思考によるイメージだったということです。ちょっと不安な感じがするかも知れません。

私は物凄く気持ちが楽になって、あらゆるしがらみから解き放たれて、自由な今を生きる事で清々しさを感じる事ができる気がします。

記憶を使わずに生きる方法

以前から記憶って一体何だろう?と疑問に思うことがありました。ただこれといった結論が出ることはこれまでなかったのですが…。

瞑想の中に入って行った時には、記憶を使わずにいる時間がやってくるので、記憶はなくても生きてはいられることは明白です。

空気や水、そして太陽の光がなければ生きていくことができないということを考えれば、記憶はそれほど本質的なものではなさそうです。

ただし、社会の中で人々と共に生きていくには記憶は必須だと分かります。あるいは、この人生物語を生きていく上でも記憶は重要のようです。

なぜなら、物語というのは今この瞬間だけではなく、過去から未来へと続く時間の流れの中で進行するものだからですね。

だから記憶(過去の情報)がなくなってしまえば、物語の中にいられなくなってしまうわけです。

ところで短期記憶がなくなりつつある母親を見ていると、気づかなかった記憶の役目が見えてくることがあります。

それは、マインドが穏やかで比較的安心している状態では、殊更に記憶を使わなくてもいられるのです。

けれども、マインドが一度でも不安の方に振れてしまうと、やたらと記憶を呼び戻そうとしているのが分かるのです。

記憶を頼りにして、なんとか安心しようとするのですね。そうして記憶がないものだから、さらに不安を増幅して行ってパニックのようになるのです。

そういう姿を見ていて思うのですが、できるだけ意識的であるようにして過去や未来を必要としない今この瞬間にいられるように、今のうちから練習する必要があるということですね。

自我は「ふつう」が嫌い

もしもあなたが描いた絵を見て、誰かが「ふつうだね」っていったらどうでしょうか?何だかあまり嬉しくないはずです。

自分の性格について、他人から「ふつうで特に特徴があるというわけではない」と言われたら気分が悪くなるかもしれません。

このように、「ふつう」という言葉は決して否定的なことではないはずなのに、私たちはこの言葉をいい気持ちでは受け止められないのです。

それはなぜかというと、自我というのは「ふつう」が嫌いだからです。「ふつう」であるということは、大勢の中にあって埋もれてしまうからです。

埋もれてしまったら、自分の存在が際立たなくなって、いてもいなくても同じと言われているように感じるのです。

自我は自分が存在していることを周囲に知らせたくて仕方がないのです。実のところ奥深くでは、そのくらい存在があやふやだと感じているからなのです。

極端に聞こえるかもしれませんが、実際「ふつう」でなければ何でも構わないと思っている節もあるくらい。

人よりも飛び抜けて優っていることだけでなく、その逆に極端に劣っていることでも「ふつう」よりはマシなのです。これはよく見なければ自覚できませんが。

だからこそ「ふつう」であることは、自我にとっては最も難しいことなのです。その難しい「ふつう」であることこそが、中道を生きるということなのですね。

形而上学的な質問をしない

子供の頃、時々「自分はなんでいるんだろう?」といった答えることの出来ない質問が頭の中にやってきたりしていました。

人間は何の為に生きているのだろうか?とか、宇宙というものは、どこからやってきてどのように始まったのだろうか?

神がいるとしたら、それは一体なんなのだろう?とか、真実を知るにはどうしたらいいのだろうか?等々。

こういったいわゆる形而上学的な質問、疑問というのは挙げ出したらキリがありませんが、一つ共通することがあるのです。

それは、自分自身が至福を感じていたり、歓喜のなかに包まれていたりする時には絶対に、そんな疑問は起きて来ないということ。

逆に、何だか不安だったり、悲しかったり、寂しかったりするときに、そういった答えなどない質問を考え出すのです。

今なら、別のことに疑問を持つようにしています。例えば、今なぜこんなに心が乱れているのだろうか?とか。

何をイライラしているのか?なぜあの人の態度や言葉に心が反応してしまうのだろうか?といったことです。

このような疑問を解いていくことには、大きな利点があるからです。それは自分の内側にあるマインドの中を覗くことになるからです。

そこに光を当てることで、否定的なマインドの状態を穏やかな状態へと持っていくことができるからです。

一方で、上述した形而上学的な疑問に対しては、それを考える代わりにすぐに瞑想の方へと向かうようにしています。

だから最近ではそうした疑問、質問がやってくることがあっても全く困らなくなりました。人から聞かれることは時々ありますけれど。