「私」=自己イメージ

これまで幾度となく出てきた「自己イメージ」について、今日はさらに掘り下げて書いてみようと思います。

一般的な表現として、◯◯な自己イメージを持っているとか、◯◯という自己イメージを作ったというように言いますね。

これは、ただ「私」という存在がまずいて、その私がそういった自己イメージを持っているというニュアンスだと思います。

厳密に言うと、これは間違いなのです。なぜかというと、私がその自己イメージを抱えてしまったのではないのです。

もっとシンプルに、「私」=「自己イメージ」なのです。これ、真意が伝わるでしょうか?

要するに、私という存在自体が自己イメージだということですね。もしも私が否定的な自己イメージを持っているだけでしたら、それを手放せばいいのです。

けれども、手放すようなものではなく、それが自分自身だったということです。だから、手放すという概念ではなく、その自己イメージを捨てるということは、自分も消えることを意味するのです。

だからこそ、自己イメージを変えることは本当に至難の業なのです。私の死を覚悟して自己イメージを捨てるなど、誰が考えるでしょう?

そんな勇気を持っている人に、私自身も含めて出会ったことがありません。それでも諦めずに、その自己イメージのバカバカしさを何度も味わうことです。

そうやって少しずつであれば、自己イメージは小さくなっていくのです。当然その自己イメージの自分のエネルギーも小さくなりますが、死ぬことはないので安心してください。

自己イメージが変われば、世界が変わります!

永遠の安心を得るには?

自我というのは、安心を求めることを生業としています。それも決してなくならない永続的な安心を求めてやまないのです。

もしもあなたがお金持ちになりたいと思って頑張っているのなら、それはお金が欲しいからというよりも、お金をたくさん持つことで安心できると思っているからです。

勝負事で勝ちたい、コンクールで優勝したい、オリンピックで金メダルを獲りたいと願っているなら、それは一番の成績を収めて安心したいからです。

誰にも負けなければ、劣等感や惨めさの餌食にならずに安心していられるのです。あなたが何を目指すにせよ、他人から認められれば安心できるのです。

いろいろな人がさまざまなものを求めて生きているのですが、その裏には安心を求める心があったということですね。

ところが、残念なことに自我がどのようにして安心を手に入れられたとしても、それは全て一過性のものばかりなのです。永続的な安心は手に入りません。

それを手に入れるためには、自分とは何かに気づく以外にはないのです。自分が何かを知らずに安心を求めるので、偽物の、あるいは仮初の安心しか得られないのです。

あなたが自分の本質に気づくなら、自分とは一体何なのかに気づくことができたなら、安心は永遠のものとなるのですね。

避難所があるっていい

誰でもそうですが、人生は良いことばかりではなく、嫌なことが起きたり辛い気持ちになることもありますね。そんな時あなたならどうするでしょうか?

きっと多くの人は、どうにかして改善策を考え出すか、あるいは頑張ってそれを乗り越えようと努力するかも知れません。

つまりは人生という物語が好転するように行動するということです。そしてもう一つの方法は、その辛い物語から少し離れてみるということです。

物語から離れるためには、物語を作っている仕組みを一旦停止してしまえばいいのです。それが瞑想状態になるということです。

物語はあなたのマインド(思考)が作り続けているので、ノーマインドになってしまえば、物語は消えてしまいます。

私にとってはそれがありがたい避難所の役割を担ってくれているのです。頭がスッキリして、気持ちが楽になるのです。

勿論物語が再開された時に、問題が全て解決されるというわけではありませんが、理由のない大丈夫という感覚や、受容する気持ちが発動するのです。

更に言えば、ノーマインド状態は自分を救済してくれる頼もしい避難所であるばかりか、それこそが自分の本当の居場所であり、自分の本質なのだと気づいたのです。

大切なことは、困った時だけその避難所を活用するのではなく、人生がうまくいってる時こそそれを活用して、日頃から慣れ親しんでおくことですね。

人生は誤魔化しの連続

人生は誤魔化しの連続だと言われても、そんなことはない、生真面目にそして真剣に生きていると主張される方もいらっしゃるでしょうね。

確かにそれはそうなのですが、それでも誤魔化しや気晴らしの連続だということを、できるだけ理路整然と説明してみたいと思います。

誤魔化すとは、都合の悪いことから目を背けて、それがまるでないもののように扱うことです。

一方、気晴らしとはその都合の悪いことには気づいているものの、やはりそこから離れて何か別の楽しみの方に意識を向けることです。

いずれにしても、都合の悪いことから逃げようとしているのですが、その都合の悪いこととは何かというと、「不安と孤独」なのです。

自我が生まれると、必ずやその不安と孤独がやってくるのです。これは必然的なものなので、絶対に避けることができないのです。

なぜなら、自我というのはこの世界から分離した個としての「私」が存在するという思い込みのことなので、構造的に不安だし孤独であるしかないのです。

分離しているという思い込みによって、自分を守らねばという不安と恐怖が常に付きまとうことになるし、決定的に孤独でしかあり得ないのです。

それを家族や友人、恋人などとの絆によって、どうにかこうにか不安と孤独を感じないようにしているのです。それが誤魔化しでなくて何でしょうか?

人生がそれなりにうまくいっている時には、より誤魔化しながら生きていけるのですが、困難な状態になると誤魔化しが効かなくなって、その時に始めて元々あった不安と孤独に直面するのです。

どうせ持ち合わせているものであるなら、早いうちにそれを深く理解し、その原因となっている個(分離)という思い込みに気づくことです。

それが唯一の救いへの道なのですね。

トラウマを解除する方法

以前少し広めのセッションルームで仕事をしていた時、そこに寝泊まりしていたことがあったのです。今思い返すと、随分と優雅な生活だったなと。

その頃、あるクライアントさんから迷惑な電話が掛かるようになったのです。深夜だろうが何時だろうが、お構いなしにあの頃の固定電話に着信するのです。

それで、そのクライアントさんからの電話の時だけ特別な着信音に設定して、あらかじめ心の準備をするようにしていたのです。

電話の内容は、なんとも表現しようのない酷いもので、要するに「お前はいいよな、私がこれだけ苦しんでいるのにノウノウと楽して‥」みたいな。

当時の私としては、自分の大切なプライベートを土足で荒らされた感じというのか、自由な時間と空間を侵害された感じがしたのです。

そうこうしているうちに、何とあの特別な着信音を聞いただけで、物凄く嫌な気持ちになるようになったのです。

これこそがいわゆるトラウマというやつだなと思いました。嫌な出来事とその着信音がリンクされて記憶されたわけですね。

このトラウマを解除するために私がやったことは、その嫌な気持ちの奥にある怒りを盛大に味わったのです。そしてそのエネルギーを解放したのです。

それによって、リンクに意味がなくなり、もうその着信音を聞いても何の反応もしなくなったのです。

どんなトラウマであれ、そこにリンクされている感情を味わって解放することができれば、自然と消えていってくれるということですね。

頑固な自己イメージからの脱却

肯定的なものであれ否定的なものであれ、自己イメージを持っていない人はいないのです。

なぜなら、自己イメージとは私たちの自我にとっての屋台骨だからです。ということは、否定的な自己イメージを持ってしまった人の人生は悲劇です。

百歩譲って、それが正当なものであるなら仕方ないことですが、全くのデタラメな情報ででっち上げられたものであるので、困ったものなのです。

というよりも、これ以上の理不尽なことはありません。それなのに、否定的な自己イメージを持ってしまった人は、それを後生大事にしているのです。

正確には、それをなんとかして払拭しようと奮闘努力の人生を生きているのです。こんなバカバカしいことが他にあるでしょうか?

声を大にして何度でも繰り返し言いたいのですが、それも通用しないのです。なぜなら、幼い頃からのその生き方しか知らないからです。

他にやりようがないので、結果としてその自己イメージを温存してしまうことになるのですが、そのことを敢えて考えないようにしているのです。

自己イメージを払拭しようとすることを全てやめて、その代わりにそれが間違いだったということに気づくように何とか努力すること。

否定的な自己イメージも極端なら、その反対のあるべき姿としての自分、高い期待値をターゲットにすることも極端なのです。

どんな自己イメージも間違いであることを理解する以外には、できる限り意識的に生きるか、ノーマインドを心がけるか、この二つの方法が有効だと思いますね。

中立な思考などない

来年の2月で93歳になる母親と色々会話をしていると、マインド(思考)がどのように機能しているのかを知ることができます。

母親は少し暇な時間ができると、どういうわけか食べ物があるのかを心配し出すのです。どうもその不安を握りしめて離そうとしないのです。

デイサービスなどの施設に行っている間は、そこで出される食事を美味しくいただくことができ、その際には食事の心配など全くしないのです。

それなのに、自宅にいる時に限り食べ物はあったかなとすぐに心配し出すのです。施設のスタッフの方が、家族よりも信頼できるってこと?と思ってみたり。

そうした理不尽な思いが根強くて、どのようにして説明したところで、なかなか理解してはもらえないのです。

そのことで分かったのですが、マインド(思考)というのはそもそも歪んだものだということです。

どっち方向に歪んでいようと同じことで、マインドの都合に合わせて理性をコントロールできるのです。

つまり中立な思考というのはあり得ないということですね。いつだって思考は事実を捻じ曲げて捉えるということです。

私たちが本当に中立でいられるのは、ノーマインド、つまり無思考の瞬間だけだということです。このことは肝に銘じておくことですね。

マインドは欲深いもの

1、2年前に購入したソファベッドをソファ状態にして、そこに腰掛けて瞑想したりしているのですが、これがどうも座り心地がイマイチ。

せっかく瞑想したいと思っているのに、何だかお尻の座りが悪くてやめた〜となるのは、もったいないなと。

もっと座り心地のいいソファベットにしたいと思って、最近考えていたところ、事務所で使っているものがいいかもなと。

灯台下暗しとはよく言ったもので、あれこれ探さなくてもよかったのです。毎日使っているものは確かだし。

ただ、今のソファベッドと形状が違うので、決心して部屋の模様替えをしてみたのです。本当に購入して大丈夫かどうかを確かめるために。

そうしたら、どういうわけか今使っているソファベッドでもそこそこいけるんじゃないかと思えてきました。

模様替えって部屋で過ごす感覚を新たなものにしてくれる効果があるのですね。そうなると、わざわざ新しいものを買わなくても大丈夫なのかも。

私のマインドが欲深くて、少し使うと飽きてしまい、新しいものを欲しがるだけなのかもしれないと気づきました。

この状態でしばらく検証してみようと思っています。マインドが欲深いのは当たり前なので、1ミリも否定はしませんが。

意識的であれば、死を恐れない

充分に意識的に生きることができれば、最終的にはきっと死を恐れることがなくなるのだろうと思っています。

その理由は、死と戦わなくなるからです。死の最中に意識的であるなら、それを見届けることができるはずです。

それはどのようにやってきて、どうやってこの自己をどこへと誘うのか?その様を見ようとするからです。

それは戦う姿勢とは真反対なものとなるのです。死と戦って勝つことができる人など誰もいません。

一見すると、死は私たちからあらゆるものを奪い去っていきます。けれども、意識的であれば所有というのが単なる思考であることに気づくのです。

所有がなければ、奪われるということは起きないのです。だから安心して死の訪れを意識的に見守ることができるのでしょうね。

意識的である人は、知らず知らずのうちにその準備を始めていることになるのです。死は何も奪いません。

その代わり、これが自分だと思っていたものの全てから、あなた自身が離れていくことになるのだと思います。 

生存の危機は怒りを抑圧する

このブログでは毎度お馴染みの情報ですが、怒りという感情を抑圧してしまう3つの要素があるという話です。

それは、恐怖と罪悪感と自己否定です。この3つのうち、1つでも抱えていれば怒りは必ず仕舞い込まれてしまいます。

特に、幼い頃にもっとも影響してしまうのが恐怖ですね。泣く子も黙るという言葉があるように、恐怖は怒りだけでなく自己表現も抑え込む力があるのです。

その恐怖の中でも、特に1番強烈なものは何かというと、それは自分の生存が危ぶまれるような恐怖です。

つまりは、この先を生き延びていくことが難しいと感じるような環境、例えば食事を長期間出してもらえない、あるいは生きている必要がないという圧力を与えられる等々。

そのような環境では、今日を生きることがやっとなので怒りを感じるような余裕が心になくなってしまうのです。

幼い頃にそんな環境で育ってしまうと、癒しを進めて行ってもそう簡単には、怒りを感じることができなくなるのです。

それは当然のこととして、それでも長い目で見ることが必要です。時期が来ればいずれは、自ずと知らずに溜め込んだ怒りが放出されることになります。

とても大変ですし、疲労困憊することになるでしょうけれど、一生に一度の大チャンスだと思って目を逸らさずにそれと向き合っていくことですね。