身体の中に閉じ込められて…ない

私たちの大多数は、自分の本体は自分の身体の中に入っている、あるいは閉じ込められて外に出ることはできないと思い込んでいます。

もちろん例外もあって、体外離脱といった離れ技ができる人、あるいはそれに近い体験をしてしまった人もいます。

けれども、そういった人であっても、基本的には身体の中にいたものが身体の外に抜け出たという認識なのです。

だからどうしても身体の内側に閉じ込められている感は拭えないわけです。その一方で、身体の中をどれほどくまなく捜したところで、自分を見つけることなどできないことも知っています。

じゃあ本当は自分はどこにいるのだろう?身体の中に閉じ込められている感覚というのは、実は教え込まれたものに過ぎません。

自我ができ上がるときに、この身体の内側が唯一の自分の領域だと思ってしまったのです。それ以外のどんな理屈もありません。

だとしたら、その馬鹿げた思い込み、刷り込みを全力で捨てる必要があるのです。なぜなら、身体が自分を縛る監獄のような息苦しさを感じてしまうからです。

本当のところ、私たちの本質はただ見るという意識なので、身体の内側とか外側といった概念とは無関係のものです。

意識であれば、大きさも位置も何もないのですから。ただ、いつも両手両足が同じところに見え隠れするだけ。足よりも手の方が見える頻度は高いですが。

ベッドに仰向けになり、手足が見えない状態になって、身体が見えないように工夫することで、意識と身体が無関係だと気づきやすくなるかもしれません。

どんな方法でもいいので、身体に閉じ込められている最悪な感覚から抜け出せる方法を試してみることですね。

あくまでもそれは単なる感覚であって、真実ではないということも見抜けると、思い込みから抜け出す助けになると思います。

不安が不安を生み出す

30分くらいの間に、例えば5人の人から次々に「顔色が悪いから病院に行ったほうがいい」と言われたら、どうなるでしょうか?

きっと誰でも本当に具合が悪くなってしまうはずです。そのくらい、人間というのは他人からの働きかけに影響を受けるものなのです。

幼い頃からものすごく心配性の母親に育てられたとしたら、その子は安心して生きていくことなどできるはずがありません。

自分は人を心配させてしまうような奴なのだと思い込むからです。そうなったら、自分自身への評価が高くなることはありません。

コロナ騒ぎが勃発してからつくづく思うのですが、気持ちが不安側に向きやすい人とそうでもない人に別れるものだなと。

そして不安といつも一緒にいる人は、テレビを観てその内容を鵜呑みにする傾向が高いのだろうと思います。

日本のテレビ放送は、とにかく視聴者を「煽る」のです。人をびっくりさせて、不安にさせて、深刻にさせるように煽るのです。

それが一番視聴率を稼げることになると熟知しているからです。不安症候群の人々はそうとは知らずにまんまと煽られる。

テレビのニュース番組では、いまだに感染者数ばかりを取り上げるのですが、数字が多いので煽るのには最適だからです。

その一方で、1日のコロナ感染による死亡者の数を出さないのは、数が少な過ぎるからで、そっちは累積した数を出すのです。

それに気づかずに一喜一憂させられているのは、本当にバカバカしい限りです。不安な人の特徴は無意識になりやすいということ。

そしてもう一つ、不安な人に共通のものは、人やテレビの内容をすぐに信じてしまうということ。信じることは、それ以上の疑問を持たなくなって、結局は無意識になるのです。

このように、ただでさえ人間は周囲からの影響をもろに受けてしまう動物なのに、その上に不安過多であればそれがさらなる不安を生むことになると知ることです。

人の話やテレビの内容も、話半分程度に聞いておくこと。信じることをやめて、自分の不安から目を逸らさずにいることです。そして、できるだけ意識的でいられるようにすることですね。

マインドに興味を持たないと…

人生山あり谷ありとはよく言ったもので、これは誰の身にも当てはまることです。どれほど平和な人生であろうと、そこにもちゃんと問題は発生するのです。

そうした一つひとつの問題を場当たり的に解決しようとしている人の何と多いことか。その気持ちはよくわかるのですが。

けれども、そうした取り組みというのは必ず失敗に終わります。問題の本質に気づいていないからです。

どんな問題であれ、それは自分のマインドにその起源があるということに気づかなければ、結局は解決には至らないのです。

マインドを深く知ろうとしない人は、こうした罠にハマってしまうのは確実なのです。なぜマインドに興味を持つことができないのか?

私が思うに、マインドを知ろうとすると自分がこれまでひた隠しにしてきたことに、光が当たってしまうことになるので、それを恐れているのではないかと。

問題の根っこにあるのは、他の誰でもない自分のマインドなのだと本当は気づいているのです。だからこそ、そこから目を逸らそうとしてしまうのでしょうね。

逆に、マインドの本性、働き、仕組みを深く理解することができれば、どんな問題であれその見え方が変わってきます。

問題を解決するという発想にも変化が出てくるのです。究極をいえば、問題はあなたのマインドが消えれば、それと一緒に消えてしまうということですね。

バカバカしさに気づく

小学5年生の頃に、それまで頑張っていた「正義の味方」、そして「正しい人」という生き方をやめてしまうことにしたのです。

何でかというと、そんなヒーローみたいな生活がバカバカしく思えて来てしまったからです。

毎日独りで夜布団の中でする反省会、自分にダメ出しをしたりして時々はシクシク泣いたりすることもあったのです。

そこに価値を見出していたはずだったのが、もうそんなことはどうでもいいと思えるように自然になったのですね。

そうしたら、不自由な感じがしていたものがまた自由を取り戻した感じにもなったのです。

今から思うと、バカバカしいと思えることがとても重要なことだと分かります。ふと、自分の周りを見回してみると、バカバカしいことがてんこ盛り。

そうなったらもう、1秒も握りしめていることができなくなるのです。あっという間にゴミ箱へ捨てることができるのです。

正義の味方、弱いものの味方、正しい人、不正を許さない人、今でも若干魅力的な生き方だなと思っている自分がいることはいます。

けれども、そこからやってくる自己犠牲にもううんざりなのです。人の期待に応えるために生きているわけではないし。

人の人生を幸せにすることは不可能だと深く理解できたおかげで、もう決して元に戻ることはありません。

自己改善では救われない

何とももどかしいなあと思うのは、絶対に救いがないところに、それと気づかずに救いを求め続けてしまうことです。

自分をもっと良くすれば救われると思い込んでいる人はたくさんいます。というのも、自我とはそういうものだからです。

自我の改善計画は、目標に向かって邁進している間はとても充実感を味わえるのですが、いずれはそれが無駄骨だったと気づくことになるのです。

そうなったらすぐに、今度は違う目標を自分に与えて、今度こそと奮い立たせてまた改善の道を歩み出すのですが、結果は同じこと。

なぜなら、自己改善という発想そのものが愛の原動力ではないからです。それはまさに自己否定からやってくるものだからです。

自分を改善しようとする努力を手放すことです。どれほど自我を磨いたところで、個人という分離感は消えないのですから。

救いはといえば、分離が消えてしまうこと。そのためには、真実の自己に気づいて、その視点からこの世界を見つめること。

それもできるだけ継続して、繰り返し練習することが必要ですね。

救いは頭をなくすこと

頭(マインド)は社会が私たちに植え付けた思考群で成り立っています。幼い頃は両親からそれを洗脳されるのですが、その元は社会なのです。

ある程度の年齢になった頃、何か嫌なことがあったときには「無」になってみることをよくやっていました。

最初はただの現実逃避なのかなと思ったりもしたのですが、そのうちそれは違うということを発見したのです。

要するに、私たちが事実だと思っていることの大半は思考が作っているのです。だから瞑想状態になった途端に、多くの物事は消えてしまいます。

これは大変な救いでした。現実逃避ではなく、思考が作り上げた物語からただ抜け出すということだったのです。

更に言えば、わざわざ瞑想をするまでもなく、ただ単に頭がないことに気づけば、自分と外側の世界との分離が消えてしまいます。

その状態で街を歩くと、風通しがいい感じがして気持ちが良いのです。身体の中に幽閉されているという洗脳から解放されるからでしょうね。

決め事は単なるルール

昨日のブログでは、あらゆる常識、深い思い込み、洗脳を傍に置いて、赤子のような新鮮な眼差しで物事を見るといいという話しをしました。

今日はその補足のような内容になるのですが、小学校で直角というのを習いますが、あれはどういうわけか90度と教えられるのです。

90という数字はちょっと中途半端な感じがしたでしょうか?それとも何も考えずにああそうですかと受け入れてしまったでしょうか?

疑い深い私のような少年は、なぜだろうと思うわけです。一体全体どんな理由で直角は90度ということになっているのだろうと。

すると、一周が360度だからこそ、その1/4 の直角は90度だと理解できます。となると、今度はなぜ一周が360度なのかが疑問として残ります。

ここからは聞いた話しですが、地球の公転一周が365日だと知っていた5000年前の人類は、そこから近い数字である360を採用したのだとか。

でも単にそれだけだと理由としては弱いのですが、実際にはこの360という数字にはとても便利な数学的な力があるのです。

24個もの約数を持っていること、7を除く10までのすべての自然数が約数になっていること、このような数学的な利点が沢山あるのです。

このほかにも、様々なそれなりの理由があり、要するに人類の叡智を結集した末に、一周は360度が1番いいと決められたのです。

理由はともかく、ここで強調したいことは一周は360度というのは単なる決め事であって、真理ではないということです。

決め事とはルールであり、真理とは何の関係もありません。他人から教えられたことを一旦傍に置いて、この世界を眺めることですね。

常識を傍に置く練習

普段私たちは、自覚のないままに常識の中で生きているのです。なぜ自覚がないかというと、当たり前過ぎてしまっているために、疑うことがないからです。

例えば、30cmの物差しは誰がどのように測ろうが、30cmのままだと勝手に信じ切っていますので、それが29cmになったり31cmになったりはしないと思っています。

ところがこの常識は相対性理論によって覆されてしまいました。物差しがある速度で自分の前を通り過ぎる時、進行方向に向かって縮むのです。

理論上では、光の速度に限りなく近づいたとしたら、物差しの長さは限りなくゼロに近づくのです。そして質量は限りなく無限大になってしまうのです。

時間の進み方も一定ではありません。その物差しに小さい人が乗っているとしたら、こちらから計測すると彼の1秒は遅く経過するのです。

また、量子力学によって、物質の存在は見る(観測する)ことによって確定するということが分かっています。

つまりは、あなたが今認識していないものは、あなたにとってはその存在の有無を判断することができないということです。

上記したようなことは、日頃の生活には全く影響しないレベルなので、知らなくてもいいのですが、とはいえ知っている人にとっては物事の見方が変わります。

自分の常識、生まれてから培ってきた当然だと思い込んでいることも、その全てを傍に置いてただ見ることは、相当に難しいことだと分かります。

私たちは、周囲からこのように見なさいと教えられたように見てしまっているのです。このことに気づくと、本当にびっくりすることになるのです。

自分がここにいるという常識も、疑ってみることをお勧めします。あらゆる常識を使うことなく、全てを疑って新鮮な赤子のような目で見てみるのです。

あなたの周りにこの世界が広がっているのか、あなたの内側にこの世界が広がっているのか、あるいはどちらでもないのか。

あなたにとっての世界のことを決められるのは、あなた以外にはいないということも知る必要があると思いますね。

信じるものは救われない

もしもあなたが幼い頃から、実の親から自分は見離されている、放って置かれていると感じていたとしたら、その後の人生をどのように生きればいいでしょうか?

無力な子供時代は、全力で親から守ってもらわなければ安心して生きていくことなどできるはずがありません。

であれば、親からそっぽを向かれた子供は、大切な拠り所がないので自分の家に居場所がないと感じるはずです。

そしてこの親なら仕方ないとして諦めるのです。その結果、成長するにつれて、家の外部に拠り所を求めることになるのです。

それはもしかしたら、愛するパートナーかもしれないし、宗教かもしれません。そして、どちらにしても満足をもらえることはないのです。

特に宗教を選んでしまった場合には、その人の波動に近い波動を持った教祖様のところに行ってしまうでしょうね。エネルギーは友を呼ぶからです。

そうなったら、その依存心を利用するだけ利用されるようになるのです。その実態は搾取と奴隷であり、人生を乗っ取られてしまうことにもなるのです。

信者は非常に危険なのです。信じることで心の拠り所を見つけたつもりになるので、今度は教祖様の言いなりになることが正しいことだと思い込むのです。

そのあとどうなるのかは、想像に難くありません。何事も信じないことです。信じる代わりに、検証する態度を身につけることですね。

苦しみはマインドが作る

このブログを長く読まれている方はご存知だと思いますが、「マインド」という単語が耳にタコができるくらい、繰り返し出てきます。

それはなぜかと言うと、どんな問題であれその根本となる問題はマインドにあるからです。だとしたら、マインドのことを知らずに生きることはとても損ですね。

私たちが苦悩する時、その理由を外側で起きている物語のせいにしがちなのですが、それが大きな間違いなのです。

すべての苦しみはマインドがあるからです。こう言われてしまっては、元も子もないと思われるでしょうけれど、これが本当のことです。

例えば、誰もが認めたくない自分の惨めさは、実はマインドがそう考えない限りは、どこにも存在しないものです。

マインドが期待と現実の落差を判断することで、そこに惨めさというものが生み出されるのですから。

人間の苦しみとしてある、嫉妬、ひがみ、劣等感、罪悪感、孤独感、不安感、悲しみ、貪欲、こうしたあらゆる苦の種はマインドからやってくるのです。

だからマインドについての深い理解が、生きる上での非常に大切なキーとなることも頷けるはずです。

できることなら、マインドとして生きるのではなく、マインドを監視しつつ生きるようにすること。これができたら最高ですね。